変らない男 02

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 哲也の前から逃げ帰る日が来るなんて、夢にも思っていなかった。

 大通りでタクシーを拾って家に帰り着くまで、あたしはそれが悔しくてたまらなかった。
 なんであんな馬鹿な言葉を真に受けて、動揺しなきゃならんのだ。人の顔に無遠慮に触れた手は叩き落としてしかるべきだったし、女を落とす武器である目なんてあたしに使うもんじゃない、と目潰しでもして流してしまうべきだった。
 大体これまで、そんな素振りも見せなかった男の何を信用したんだ、あたしは。
 きっと酔っていたに違いない。だから、あんな阿呆な台詞を本気にしてしまった。
 明日出勤したら、哲也はからかい混じりに「本気にしちゃった?」なんて言ってくるだろう。それにあたしは何も返せず、地団太を踏む羽目になるんだ、きっと。
 想像したら腹が立って、掴んだままのコートとバックをソファに投げつける。
 何時もあたしと彼氏が並んで座っていた柔らかいソファは、あたしの怒りさえ優しく受け止めてしまった。
 春の珍事、というには、面白くもない出来事だった。
 シャワーは明日にでもして、寝てしまおう。あたしは寝室に移動して目覚ましをセットする。
 そして、寝巻きのスウェットに足を入れた時だった。
 リビングで軽快な音楽が着信をつげている。しかも、哲也専用の着信音だ。仕事用とプライベートで二つ持っている携帯の、プライベート用に設定したメロディだ。
 一瞬無視しようと考えたけれど、それはそれであたしのプライドに関わる。
 急いでスウェットを腰まで上げると、リビングに移動してハンドバックを漁った。
 既に三十秒近く、着信していた。
「……はい?」
 不機嫌が分かるような声で応答するものの、受話口から聞こえる声は明るかった。
『おう』
「……なに」
 遠くでプップーと車のクラクションが響いている。哲也はまだ帰り途中なのだろう。
『いや、お前もう家着いた?』
「さっきね」
『そんならいい。どっかで野たれ死んでんじゃねぇかと思っただけだから』
 普段哲也と飲む時は、哲也の家がある会社から一駅の繁華街と決まっている。終電を逃すのも何時もの事で、大抵やつのマンションに泊まるからだ。だからわざわざタクシーで帰ってくるなんて事もなくて、今日は手痛い出費となったわけで。
 ――だから、といって。哲也はわざわざ人の帰宅確認をするような、男ではない。
 仮にあたしがどっかのゴミ置き場で寝こけていたとしても、笑い話にするような男だ。それ所か、例え一夜を共にした女性にであっても、ことが終われば夜道を一人で帰すような、男の風上にも置けない人間なのだ。
 それが何故今日に限って、なけなしの優しさを使うような真似をするんだ。そう考えて、あたしを好きだと言った台詞が思い出された。
 ずっと?
 それって何時からよ。
『明日、遅刻しねぇで出勤しろよ』
 気付けば思考は、何時までも哲也の言葉を繰り返す。冗談だって、分かっているのに。
 あっさりと通話が切れて、またしても己の馬鹿正直さが腹立たしくなった。今度は力いっぱいソファに投げつけた携帯は、バウンドして手摺を越えた。ラグに受け止められたのだろう、音はしなかった。
「あー、もう!!」
 髪の毛を掻き揚げながら、化粧を落とすために洗面所へ向かう。
 今日は、えらく疲れた。
 残業続きの仕事もそうだけれど、彼氏に振られた挙句、友人にからかわれた。厄日だ。
 どうして。
 傷心の友人をからかう奴があるか、バーカ。
 鏡に映った不機嫌顔の自分を見ながら、心の中で呟く。
 どうして。
 顔は生まれ持ったものだから限界があるけれど、それなりに綺麗だと思う。美容グッズはチェックしているし、飲みすぎなきらいはあるものの、お手入れだって毎日ちゃんとしている。化粧だって流行を追いながら、派手にならないように、彼の好みに合わせたりした。スタイルだってビールっ腹になりそうなのを、必死の努力で留めているし、毎晩のストレッチでほっそりした手足を保っている。
 別に、自信があるからぐいぐい相手を押しているわけじゃない。欲しいものは欲しい、好きなものは好き、したい事はしたいって言わないと、手に入らないから――だから、誰かのものになる前に、彼を手に入れた。
 哲也みたいに、何もしなくても入れ食い状態にはならない。
「好きな人が出来た、か」
 相手が誰、とは言わなかったけれど、それはきっと彼の会社の可愛い後輩の事だ。小動物みたいな、愛らしい女の子。彼とは同じ街に住んでいた。彼を駅前で待つ時、時々一緒に帰ってきていたのを知っている。あたしに会釈して、並んで帰るあたし達の後姿を、切なげな目で見ていたっけ。
 一度、その彼女があたしに声を掛けてきた。彼を駅で待っている間、目があって会釈されて。
「工藤さん、もうすぐいらっしゃると思いますよ」
なんて、何故貴女に言われなきゃいけないんだろう。何のつもりだろう。始めて聞く高い声は親切心に溢れていたけど、それが癪に障った。何故通り過ぎていかなかったのだ。
 女の勘が、彼女をライバルだと告げていた。
「あなた、工藤さんが好きなの?」
 彼を工藤さん、と呼んだのは防波堤のつもり。まだ工藤さん呼び止まりの彼女に、あたしと彼女の立場の違いを教えたつもりだった。
 傷ついたように彼女が俯いたタイミングで、向うから小走りでやってくる彼氏が見えた。
 彼女はそれに気付いて、曖昧に笑って走り去った。
 それが可愛い女の子を、勝気な女が追い払ったようにしか見えなかったのか。戸惑うように彼女の名を呼んでからあたしにぶつかった彼の視線には、責めるような色があった。
 あたし、何もしてないよ。
 言えない変りに、嘲笑った。
「彼女に、告白でもされた?」
 図星だったのか、彼は少し声を落として、
「みんな、みさちゃんみたいに自信があるわけじゃないんだよ」
諭すような言葉に、あたしが泣きたくなった。
 自信があったら、何だというのだ。彼女に自信があったら? それとも、彼に自信があったら? そうしたら、何が変るの?
 何時までも彼女の消えた方角を気にしている彼が、憎らしかった。
 あの彼女みたいに、素直に泣いてなんてやれないあたしでは、駄目だった?
 草食男子なんていわれていても、結局選ぶのは、守ってやりたいような小さくて可愛い女の子なのだろうか。
 だとしたら肉食なあたしなんて、どんなに努力しても太刀打ちできない。

 こう見えても、結婚さえ意識していた男に振られるのは堪える。
 そういう女に、言う冗談じゃない。
 十年の友達でも分からないものなのか。
 そういうあたしにも、哲也がどういうつもりなのかはさっぱり分からないけど。





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