変らない男 03

back top next



 昨夜浴びるように飲んだのに、寝覚めは最高に良かった。
 もう若くないのは分かっているけど、あたしの丈夫な胃は健在だ。
 振られたてでも腹は空く。昨日の夕飯にと作り置いていた食事をテーブルに並べて、あたしはがっつり朝食を胃に治めた。
 シャワーを浴びて、ニュースを見ながら化粧を施す。
 今日は外回りが無いから、ラフな格好で良いだろう。TPOを弁えさえすれば服装に五月蝿くないあたしの会社は、ジーンズだってOK。先月買ったばかりのピンクの9cmヒールのパンプスを合わせよう、なんて思う。
 化粧の後は、荷物チェック。昨日ソファに投げつけたままのハンドバックを手に、中身を確認する。
 携帯以外のものは、昨日のまま問題無し。財布の中身は――そういえば昨日、会計は全部哲也に任せていたから、タクシー代が減ったくらいで十分ある。
 携帯は――と辺りを見回した所で、背後のソファの脇に転がっているのを見つける。
 充電を忘れていたけど、それは会社に行ってから充電すれば良いだろうと、充電器をコンセントから外し鞄に詰めた。
 携帯にメールが届いているのを知ったのは、電車に乗り込んで座ってからだ。始発駅のあたしの最寄り駅は、早めに並んでいないと座席を逃す。何時も一番無いし二番目に並んでいるのは、早め早めが心情のあたしにとっては当然の事。
 何でもかんでもそうだから、せっかち、とも言われる。男へのアタックの仕方もそうだ。
 再び彼の事を思い出して憂鬱になりながら携帯のフリップを押し、メールを確認する。
 宛先が哲也である事に驚く。昨日の珍事なんて悪い夢とばかりに忘れていたあたしは、それがプライベートの哲也からのメールである事に気付かず、仕事の連絡だとばかり思ったから何の気概も持っていなかったわけで。
 件名の【昨日の】という言葉も、昨日の仕事の様子を思い出すものでしかなかった。
【本気だから】
 何が、と疑問に思ったのは数秒だった。
 固まったあたしの手からするりと離れた携帯は、足元で音を立てる。つり革に持たれていた学生が、訝しげにしながらも携帯を拾い上げてくれる。
「あ、すみません」
 目の前に掲げられた携帯を、恐縮しながら受け取る。
 恥ずかしい。
 いいえ、と行儀良く頭を垂れた、近隣の高校生。眼鏡フェチだったら飛び付きそうな、といったら可笑しいが、ザ・眼鏡な男子学生は、すぐに視線を逸らした。
 小さくため息を吐いてから、もう一度携帯のディスプレイに目を落とすものの、短い本文は見間違いなんかじゃなかった。
 本気。
 本気か。
 昨晩の哲也の奇行が頭の中でリフレインして、心臓が騒がしい。
 昨日。昨日。仕事でなんかあったっけ。あったよね、確か。哲也が本気だなんだというような事が、あった筈だ。
 なんて逃避しようにも、居酒屋での哲也が消えてくれない。
“ずっと好きだって知ってた?”
“俺と付き合ったら?”
“俺を好きになれよ”
 ――いやいや、えぇ?
 酔って頭の螺子がいかれた末――というには、メールが来ていた朝方を思うと、ありえない。哲也は酔いを翌日に引き摺らない。どころか、酔った所なんて見た事がない。
 いくら哲也でも、こんな大掛かりなひっかけをする程子供じゃない。面倒くさいが口癖だし、ね。
 でももし仮に、これが本当に冗談じゃないとしたら、それはそれで大問題だ。
 いや、でも。
「あれ?」
 はっとした時には既に遅く、結構な大声の呟きに、再び目の前の男子学生が不思議そうに視線を寄せてきた。
 何してんだ、あたし。
 口を押さえても後の祭りだし、泳いだ視線が痛い。目があった男子学生は目をぱちくり瞬かせ、そんな姿がちょっとタイプだとか思ってしまう懲りないあたし。
 男子学生は見詰め合う形になったあたしを見下ろして、ぼそり。
「どうか、したんですか?」
 そこで笑って知らん振りしてくれるようなテクニックは無いのか、学生さん。いや、それともこれは若者らしい純粋さと、行儀の良さを褒めるべきなのか。
「ごめん、独り言」
 なんでもないよ、と今度は声を潜めて言えば、「何でもないんですか」と聞かれる。
「大きすぎる独り言でごめん」
と、何か心配してくれたのに悪いなと思って言えば、噴出された。
 八重歯が光って爽やかな笑顔だこと。
 ホームに着いて隣の人が立ち上がると、そこに青年が腰掛けた。話が切れるタイミングにはもってこいだと思ったけれど、笑いを堪える為なのか、それを誤魔化す為なのか、青年が話しかけてくる。
「お姉さん、これから仕事ですよね?」
「うん、そうだよー」
 スーツ姿だったら分かりきった問い掛けだっただろうけど、今日はどっかに遊びにでも行きそうな服装だ。
「君は開明の生徒だねー」
 間延びした言い方になってしまうのは、子供を相手にする時のくせ。高校生を子供扱いするのは失礼だろうが、癖だから仕方が無い。相手も気にしていないし。
「知ってるんですか?」
「うん、一応母校」
「へぇ、お姉さん頭いいんですね!」
開明高校は進学校で知れているけど、あたしの頃はそれほどでも無かった。
 っていうか、それ自分も頭いいアピール? なんて邪推するには、青年は天真爛漫だった。最初の印象より随分あどけない。
「でももう十年も前の話だけど」
「え!?」
 ここで驚くのは振りか、どうなのか。
「何で驚くの?」
「いや、若く見えるから。……だって、えぇ〜? お姉さん、いくつ?」
「女性に年齢を聞かない事。あと、計算してみれば分かるから」
「だって、三十近くにはとても見えな、」
「そこまでいってない」
 30と27は随分違う。青年の言葉に被せて言えば、青年は可笑しそうに笑う。随分笑いの沸点が低い。
「お姉さん、面白いね」
 笑い方はどこか大人びている。高校時代の哲也も、同じ様に大口開けて笑うような男ではなかったっけ。そういえば、一年の時は眼鏡をかけていた。
 ――なんでここで、思い浮かべたのが哲也なのだ。
 思わずむっとしたあたしをどうとったのか、青年は慌てて顔の前で両手を合わせてきた。
「ごめんごめん、ごめんなさい」
「いや、別に」
 面白いって言われて怒るとかね、そういう了見の狭い女じゃないので。
 付け足したら、青年はまた笑う。
 青年青年って、ああこの彼、神田君って言うんですってよ。自己紹介されたので、あたしも名乗っておいた。
 開明高校一年生の神田君。下の名前は何って聞いたら、言い辛そうに『ハナ』だと言った。花、と書くらしい。随分と可愛らしい名前だ。
 でも、自分の名前をコンプレックスに思っている子をからかう程幼稚じゃないあたしいは、
「お腹が空く名前だね」
と、空腹を訴え始めた腹部を押さえた。
 だって花、といったら、団子でしょう?
 目を瞬かせた神田君に説明してやれば、また笑う。

 その後も、あたしは神田君が電車を降りるまで、何回も笑いを取るのに成功してしまった。





back top next

Copyright(c)2011/02/08. nachi All rights reserved.