優しい貴方へ 2




 事が終わった後も、涼斗はうつ伏せになって冷たい床の上に横になっていた。
 換気の為に開け放たれた窓から、灰色の空が窺える。何時の間にか雨は止んでいたが、またいつ振り出してもおかしく無い色の空だった。雲の上の太陽も沈み、恐らく月が顔を出しているのであろう、夜の気配が知れる。
 夜気に雨の匂いが混じっている。
(王子……帰っているかも知れない)
 無理矢理陵辱された後だというのに、思考は行為の事など欠片も歯牙にかけない。
 部屋を出る前に安藤が口にした言葉も、露とも思い出さない。
 ――それは、けして現実逃避の故では無かった。

「王子先輩に、言ってもいいんですよ? でもその時終わるのは、俺だけじゃない事、忘れないで下さいね?」

 明確な脅し文句だった。
 一蓮托生という意味では、安藤と涼斗だけでなく、王子をも含む。
 この事が露見すれば、三人のバスケット人生だけでなく王子との関係も終わりなのだ。安藤も既に覚悟の上なのであろう、覚悟出来てしまう事なのであろう、バスケットの無い人生は、涼斗にとっても近い未来に想像していた事だ。高校生活の終わりが、涼斗にとってのそれだった。安藤は当然退部を強いられるであろうし、悪ければ退学になってもおかしく無い。涼斗は涼斗でその後もバスケット部に残る気力は無い。でもそれは恐らく、二人にとってそこまでの痛手にはならない。
 けれど王子は卒業後も海外で華々しい活躍の期待される程の実力を持ち、一心に努力を続けて来た男だ。彼にとってバスケットの無い人生なんて考えられないだろう。
 直接関係の無い王子が、ここでどうしてそんな窮地に立たされるかと言えば、彼の気性に関わる理由だった。
 涼斗は彼と付き合いだしてから、王子の性格を熟知している。一度心を許した相手には、自分の懐に迎えた相手には、何もかもが心底なのである。自分よりも相手を優先し、何よりも相手の心を思って行動する。ただただ優しい恋人は、涼斗の身に起きた痛手を安藤にも負わそうと考えるだろう。痛みには痛みを返し、恐怖には恐怖を返す。そうして王子は自分をも当事者にしてしまう。王子はきっと後悔さえしないだろうが、暴力行為は王子の人生の汚点となって一生残のだ。
 王子が自分のプライドを傷付けられたと言って憤る男なら涼斗はけして好きにはならなかった。ただ、涼斗の心を気遣って憤る男だからこそ好きになった。そして苦しくなった。
 自分が王子の重荷になってしまう事実が怖かった。
 卒業後には別れていく己と王子の道が、たまたま三年間重なり合っただけなのに、その三年間の為に王子に傷をつけてしまう事が、何よりも怖かった。
「言うわけ、無いじゃん……」
 安藤の言葉は涼斗にとって完全な脅しになり得た。簡単に想像出来る王子の報復を視野に入れるまでも無い。
 その事実が発覚した時が、涼斗と王子との終わりである。
 どんな言葉で言い繕ってみても、涼斗を躊躇わせるのは何よりもそれだった。
 どうせ高校生の間だけだと思いながらも、その時期が来ない事を願い続け、逃げて来たのだ。何時も何時も、現実を悟った自分と夢を語る自分とが胸の内で鬩ぎ合っている。
 そんな風にまだ覚悟すら出来ていないというのに。
 ――二人の関係に寛容な学園も、それが二人の未来、果ては学園に影響をもたらすものとあっては無視しておいてくれる筈が無い。こと学園の期待を背負う王子大に関わる問題とあれば、その問題を取り除こうとするのは容易に想像が出来る。許容されているのでは無く目を瞑られているだけなのだから、二人の関係が悪影響と認識されれば引き離されて二度と近づけない。
「……僕は、汚い……」
涼斗は呟いて、固く掌を握りこんだ。

”王子の世界への道が閉ざされれば、卒業した後も一緒に居られるかもしれない。”

 一瞬でもそんな妄想を抱いた自分を、涼斗は自覚していた――。






 --------------------------






 王子が練習を終えて部屋へ戻ると、涼斗は既にベッドに潜り込んでいるようだった。
 鍵を開けて電気を付けると、普段であれば開けっ放しの、部屋を別つ為に調度中心に引かれたカーテンが閉められていた。
「涼斗?」
 普段『姫』と呼ばれる涼斗を、こう呼ぶのは彼氏の特権だった。
「……おかえり」
 控えめに声を掛けると、彼特有の澄んだ声が小さく返ってくる。寝起きの悪い彼らしからぬ明瞭な口調だったので、どうやら起きてはいたらしい。
「入ってもいいか?」
「……ん……」
 了承を得てカーテンの向こう側へ入ると、涼斗はゆっくりと身体を起こした。疲れた様に笑う青白い顔を、王子は心配気に見つめる。
「どうした?」
「ちょっと、気分が悪いだけ」
「その手首は?」
「捻っちゃった」
 王子から隠すようにして身体の奥にあった、左手首に巻かれた包帯。涼斗は苦笑して、軽くその左手を振ってみせた。彼が説明する所には、ずっと座って本を読んでいたから、立ち眩みを起こして咄嗟に支えを誤ったのだと言う。左手を変な風に捻ってしまったので、一応保健室で処置をしてもらったのだ、と。
「病院は」
「行くほどのものじゃないよ」
 ベッドの縁に腰を掛けると、ベッドは王子の重みにぎしりと鳴った。その音は情事を思わせて、王子の脳裏に不穏な思いが浮かぶ。
(病人相手に何考えてるんだ)
 くたくたになるまで練習して来たのに、それでもまだ汗を掻こうとする自分に苦笑する。何より病人を前にして欲情するなど不謹慎にも程がある。
 そう思って王子が首を振るのを、今度は涼斗が見留めた。
「……どうしたの?」
「――いや、何でも無い」
 見つめてくる大きな瞳は逆効果だ。気を鎮めたいのに、海の色を湛えた薄灰の瞳はさらに王子の欲を掻き乱す。不自然に顔を逸らすが、涼斗は不思議そうに首を傾げるだけだ。
「そう?」
「ああ、それより飯は」
「まだ。でも……僕は食欲無い」
「……無くても、なんか食え」
「ん……じゃあ、食堂で果物みたいなの貰って来てくれる? 食べ終わった後で構わないから」
「ソッコー食って帰るよ」
「急がなくて大丈夫。一眠りしてるから」
 その言葉に、さり気無いが『席を外していて欲しい』という涼斗の意志を読み取って、王子は「わかった」と頷いた。
 言葉の端々に王子を拒絶している風な空気が滲んでいる事を、涼斗自身は気付いているのだろうか。
 姫と揶揄されるような愛らしい顔立ち、守ってあげなきゃと思わせる儚さを持ちながらも、けして守られる事を当然と思わない涼斗が王子は好きだった。ちゃんと自分と言う領域を持っていて、そのテリトリーを守る為に戦う事を厭わない精神が、好きだった。けれどこうやって弱っている時でさえテリトリーを頑なに守る涼斗が、少なからず悲しくもあった。
 それでも、
「じゃ、寝てろよ?」
 王子は、何も知らない振りで笑った。



 王子が食堂でスタミナ定食を持って席に座ると、背後から呼び声が掛かった。
「あれ、王子先輩? 姫宮先輩は一緒じゃないんですか!?」
 笑いながら駆け寄ってくる相手は、一年下のバスケ部の後輩だった。その後に続いてくる男もまたバスケ部の一年だったが、彼は勝手に王子をライバル視して毛嫌いしている男だ。
 その男、安藤は、何時もなら終ぞ見せない穏やかな表情で、王子の前の席に「失礼します」と座った友人に続いて隣に掛けた。
「二人が一緒に居ないのって、珍しいですね」
 不自然な事に、安藤はしっかりと王子の目を見て、微かに笑みを浮かべながらそう言った。王子はこの方、彼から睨む以外の視線をもらった事が無い。
「あいつは体調が悪いんだと」
 違和感を感じながらも王子が律儀に応えると、「心配ですね」と眉根を寄せる友人とは逆に、安藤は笑みを深める。
「あ、やっぱり」
「……何が、やっぱりだ?」
 高圧的な態度は、最早王子の癖だった。王者の風格、などと呼ばれるが、実際はただ感情の制御が出来ないだけ。それを安藤は、余裕の笑みで受け流す。
「やだな、怒らないで下さいよ。ただ、図書室で一緒になった時に体調が悪そうだったんで」
 違和感はいっそう強くなる。隣で居心地が悪そうに食事に没頭する友人なんて目にも入らないのか、安藤の視線は一瞬も王子から外れない。ただ王子の反応を楽しむようなそれは、何時もの安藤には無い色を乗せている。
「俺、反省したんすよ。昨日の試合で自分の駄目さってヤツを痛感しちまったし。今日もその事姫宮センパイと話して、やっぱり王子センパイにはまだまだ適わないな、と」
 違和感の正体は、そこではっきりした。王子は人が自分に向ける感情が好意的なもので無い事を良く知っている。人好きされる性格でも無ければ、先述した通り高圧的な態度を無意識で向けてしまう。その上、集団に溶け込むより一人で居る方が好きな性質だ。だから自分に向けられる相手の感情は、悪意である事が多かった。その最たる相手が安藤だったのだ。
 今、笑顔を浮かべて殊勝な態度を見せる目の前の安藤だったが、それでも目の中に宿る嫌悪は消えていなかった。
 彼の全てが、嘘と上辺で塗り固められているのが分かる。ただそうやって相対しながら、悪意をぶつける気で機会を窺っているようだ。
(何が目的だ?)
 王子は安藤の言葉を聞きながら、食事を再開した。
 どんな言葉が彼の耳から飛び出ても、自分が傷付く事は露とも無いと言うのは相手も分っている。王子が彼を相手にしないからこそ、安藤のプライドは傷付き、王子を毛嫌いしているのだから、王子自身に彼が打撃を与える事は出来ない。
「でも、すぐに抜いてやります。センパイには負けませんよ」
「期待してるよ」
 わざと挑発する言葉を、王子はあえて出した。安藤のペースに乗ってやる気は更々無い、と言外に言ってやると、友人の方が驚いた様に顔を上げて王子と安藤とを代わる代わるに見た。何をするつもりなんだ、と不安そうな顔が言っているが、安藤も王子も説明してやる程親切では無い。彼は同じ場所にいるだけの、第三者なのだから。
 やはり相容れない二人は、しばらくの間睨み合った。
 しかしまた、安藤は思い出したように余裕の笑みを浮かべる。
「そういえば、姫宮センパイの左手、大丈夫ですか?」
「――何っ?」
「左手、です。手首。俺が強く握り過ぎちゃって、痕になってたでしょ?」
 にやり、と口角を上げてみせる安藤に、王子はぴくりと眉を跳ね上げた。一気に頭が冷える。けれど心は裏腹に、冷静さとは無縁の感情を揺り起こす。
「どういう事だ?」
「すみませんでした、って言っておいて下さいね」
 食事も途中だというのに、安藤は席を立ってトレーを持って去ろうとする。最初からそれを言う事が、目的だったとでも言いたげに――けれどそれが、正解なのだ。
「安藤っ!」
 声を荒げた王子に、もう一度安藤は、今度はゆっくりと、嫌悪を隠さずに言う。
「あんたには、負けませんよ」
 勝ち誇った様に笑う安藤の声が、王子の大声に静まった食堂で響いた。








back  novel  next
2008/09/10