優しい貴方へ 3




「待て、安藤!!」
背中への呼びかけを無視して、安藤はトレーを返却口に置いて食堂を去っていく。
 王子もすぐさま彼を追おうと一歩を踏み出した。
 声を張り上げた有名人に食堂は奇妙に静まり返り、数多の視線が王子に突き刺さったが、そんなものは全く気にならない。王子にとって今まさに優先すべきは安藤を問い詰める事であり、恋人の怪我と安藤が関係しているかどうかが重要だった。そしてもし万が一関係があったとして、それが自分の行いによる弊害かどうかだ。
 王子自身に及ぶ被害であればこんなにもあせらない。それが自身の大切な存在にまで伸びるのであれば、王子とて容赦出来ないのだ。
 けれど続いて食堂を飛び出ようとした瞬間、制止の声と腕が王子の動きを止めた。
「王子、止まれ」
「はいはい、どうどう」
 威圧感溢れる声音は、厳しい顔つきの、バスケットボール部主将のものだった。
 同時におちゃらけた調子で馬か獣を宥めるように肩を叩いて来たのは、こちらもバスケットボール部の先輩だった。
 二人とも青葉学園バスケットボール部の不動のレギュラーで、つい数時間前まで王子の練習に付き合ってくれていた。その実力も然る事ながら、王子が珍しくも尊敬している相手だ。
 結果としてそれが王子の行動を抑止した。
 王子の肩が緊張を解いたのを見て取ると、主将・橘が今しがた王子が座していた席を振り返った。
「島ぁっ!!」
「はいっ」
 食堂中の生徒に漏れず、呆気に取られていた後輩が呼ばれて思わず直立の態勢を取る。おまけで敬礼までしてしまいそうな勢いである。
「悪いが、ソレ、片しといてくれ」
 それ、と言って王子の食べかけの定食を顎で示して、
「行くぞ」
二人を食堂の外へと促した。
 橘の先導で王子は、先輩・桜庭に腕を組まれたまま、寮へと向かう廊下を歩いた。そのまま黙ったままの橘は、どうやら彼らの自室へ向かうらしい。
 王子達の第三寮は南棟と西棟が食堂のある中央棟を角にしてくの字型をしているが、橘と桜庭の部屋は西棟にあるのだ。対する王子は南棟の住人である。
 桜庭は、狐のような細目を眇めて笑う。
「しかし、おまえも人間だったんだなあ」
「なんですか、それ」
 突拍子も無い言動に、王子は呆れ顔を作った。
「おまえ、陰で”鋼の心”って揶揄されてんの知ってた?」
「……知りませんよ、興味無いです」
「だからこそ、だよ」
 更に笑みを深める桜庭を、王子は肩を竦めて見下ろす。
 興味が無いどころか、どうだって良い話だった。今だかつて自分が人好きすると思った事はないし、そういった皮肉は今に始まった事では無い。他人から受ける評価など、これっぽっちも意味を持たないと考えている有様だ。大事なのは自分自身が満足いっているかどうかで、今の所自分の生き方を後悔する事も無いので、その意思は強固だった。
「そんなおまえが、あんな安い挑発に乗っちゃうんだからなあ。これが笑わずに居られるかよ、なあ橘?」
「全くだ。しかもあんな場所でいきり立つな」
 そう応じる橘の表情は、楽しそうな笑顔を浮かべる桜庭とは対照的に険しいままだ。
「くだらないネタを提供してやるな。噂になって傷付くのは姫宮だぞ」
 確かに、食堂でかわす話題では無かった。その上であんな風に対立してみせるなど、愚の骨頂と言わざるを得ないかもしれない。下世話な噂ほど広まるのもまた早いものだ。
「そうだよねー。大事な主将候補こんなんで潰されるのはいい迷惑だしー」
 あっけらかんとそんな三年生の内情を続ける桜庭に、王子は思わず眉根を寄せた。
 涼斗が主将候補に挙げられている、というのは、本人も周知の事である。涼斗自身は「器じゃない」と笑ってかわすが、王子にとってすれば彼には似合いのポジションでは無いかと思わせた。涼斗なら微笑み一つで誰をも懐柔できるだろうし、人を鼓舞する事も宥める事も得意であった。王子が無意識に不機嫌を顔に出したのは、自分がその候補に入らないから、ではけして無く、ただ単に涼斗が主将にでもなったら、自分との時間が減るのでは無いかという杞憂があったからだ。何より今の主将を見ていると以外にその仕事が容易でない事が分る。
 そんな王子の様子に気付く術なく、桜庭は続けた。
「エースと期待の新人が不仲なのも問題だけど」
 意識を遠くに飛ばしていた王子の腕を、ふいに強い力が引き寄せた。腕を組んでいた桜庭を、自然に見つめる形になる。
「こんな事でおれの最後の大会、ぶち壊されたくないんだよね」
 そっとそんな台詞を吐いた桜庭の表情は笑顔だったが、その瞳はけして笑っては居なかった。
「まあ、とにかくだ」
王子が押し黙ったのは、桜庭の瞳に宿る迫力に気圧されたのではけして無かったが、向かい合った二人を交互に見つめてから、橘がため息をついて話を戻した。
「入れ。話はそれからだ」
言って、二人を室内へと促すように部屋の扉を開ける。
「失礼します」
と一礼してからスリッパを脱いで部屋に上がると、王子の背後で扉が閉まった。
「着いてきておいてなんですが、俺は別に話すことは無いですよ」
 それから、王子は思い出したように振り返る。
 その頭蓋を、渾身の力で叩かれた。
「いっ!!」
 しかし、呻いたのは拳を振るった桜庭の方だった。
「――ってー!!」
「何するんですか、一体!?」
 流石の王子も桜庭の行動に困惑を浮かべ、鈍い痛みを訴える頭を抑えた。桜庭も桜庭で手を振ってみたり、拳に息を拭き掛けたりと忙しい。
 橘だけが蚊帳の外を決め込んで、玄関先で騒いでいる二人を放置して奥のソファーに座り込んだ。
 一見するとワンルームのアパートのような風情の部屋には家電も一式揃っている。無いのはキッチンスペースと風呂だけだ。
「何じゃないだろ、この石頭っ!」
「いきなり殴るってどういう了見ですか?」
「五月蝿いっ! お誰が前の話を聞くって言った。話があるのはこっちだ!!」
 だからって何故殴るんだ、という疑問は罷り通らないのだろうか。
 怒りの表情の狐顔は王子の当然の主張を一蹴する。
「とりあえず、おまえそこに座んなさい」
「ヤですよ。何でですか」
「先輩を見下ろすんじゃない!」
 横暴すぎる発言に、王子が呆気に取られて固まる。
 そんな二人を、やはり止めるのは橘だった。
「ハイジ、いいからこっち来い! 馬鹿やってんじゃない」
「ハイジって呼ぶなってーの!!」
 そうすると怒りの矛先が橘に変わったらしい桜庭は、蹴る勢いでスリッパを脱ぎ散らかして、橘の対面のソファに腰掛けた。
 桜庭ハイジとなんとも可愛らしい、スイスの山奥を連想させる自分の名前に軽いコンプレックスを擁いている男は、仏頂面をそのままに沈黙した。流石の主将はそんな桜庭に慣れているのか、しれっと無視して今度は王子に向き直った。
「王子も、サクの馬鹿に合わせなくていい」
「馬鹿っていうな!」
「悪かった。で、王子な」
 悪びれない態度で桜庭の言動をあしらって、橘は一度おおきくため息をつく。
「安藤を相手にしてないのは分ってるが、そういうお前の無関心がアイツを腹立たせてるの、分ってるだろ」
「……はい」
「お前がそういうの、得意じゃないの分ってる。くだらない八つ当たりに付き合うのも時間がもったいないんだろ? それより有意義な時間の使い方があると思ってる」
「……はい」
「だがそういう事続けてれば、あいつの矛がお前の周りに向かうのも分ってただろうが」
「涼斗に何かするんなら黙ってません。涼斗は俺が守ります」
 淀み無い調子で王子が答えると、ちゃちゃを入れるように桜庭が「恥かしい事いってらぁ」と笑うが、橘は「黙ってろ」と手だけで合図して、桜庭を再度黙らせた。
「それを姫宮が喜ばないのも知ってるだろう。あれであいつもしっかり男だ」
 中等部の頃から同じバスケットボール部で涼斗をしごいて来た二人も、当然涼斗の気質を知っている。可愛い顔をして、実は芯の強い男だという事。
「あいつが何も言わないんなら、放っとけ。あいつもあいつで何とかするだろう」
「そういうわけにはいきません」
「……部内のいざこざなら、目を瞑る。だが今日みたいな事になれば、俺らも黙って無いぞ」
「何度も言うけど、最後の大会、壊されたくないしね」
 橘の言動を継いで、桜庭はもう一度、今度は真面目な顔で言った。それはきっと心からの本心で、今年こそは全国制覇をと息巻く部員に違わず、桜庭もその目標に向かって一心不乱に部活に打ち込んできた。二年生エースが崩れた所で彼ら二人が影響を受けるとは思えなかったが、不穏分子が居るだけで、雰囲気は確実に壊れるだろう。折角部内が一つにまとまっているのに、そんなものでペースを乱されるのは御免被りたい――それは王子も一緒だ。
 要するに彼らは、王子に何もするなと言っているのだ。
「安藤の事は放っておけ。いいな」
「約束は出来ません」
 それでも王子は、是とは答えない。出来ない事を出来るとは言えない。
「――でも、頭は冷えました。今日のような事は、しないよう努力します」
「……そうしてくれ」
 しっかりと釘だけはさされておく事にして、王子は頭を下げた。
「失礼します」







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 王子が部屋を出るのを待って、桜庭は立ち上がった。
 そのまま冷蔵庫に向かい、当然のように庫内に収まっている缶ビールを二つ持って、今度は橘の横に腰掛けた。二人掛けのソファだが、男二人が並んでしまうと酷く小さく見える。肩が触れ合う距離にも動じず、二人は同時にプルを上げた。
「――っしっかし、安藤も面倒な時期に何してくれちゃってんだか」
 勢い良くビールを飲み下してから、桜庭は不機嫌に言う。普段は笑顔を浮かべておちゃらけた態度の彼は、橘の前では一切を取り繕わない。
「そう言うな。むしろ今で良かったよ。もう少し時期がズレりゃ、思いっきし大会中だ」
「そうだけどさー」
 肩にもたれ掛かってくる桜庭の頭を撫でながら、橘も缶を傾けた。

「あーあ、興が醒める」
 せっかく盛り上がってたのにさー、と愚痴る桜庭は、最後の大会とあってか、部活内外でも異様なテンションを見せていた。部活では後輩に向けての指導も熱が入っていて、夜にもなれば毎夜情欲に耽る。そんな桜庭に巻き込まれる橘は、なんともいえない苦笑を浮かべるに留めた。
「それ、絶対後輩の前で言うなよ」
「分ってるよー」
 日頃は何だかんだ言って、いい意味で猫を被ってくれている、というのが橘の感想だ。桜庭の自分勝手さと横暴ぶりは先程王子に見せたそれすら片鱗でしか無い。桜庭の本心は橘でさえ掴めていないが、張り付いた笑顔の下の感情は常に不穏なものであろうとは思っている。彼は一度切れれば容赦が無い。
「にしたってさぁ、愚痴りたくもなるわー。王子も本当、可愛くない後輩だよ」
「そうか?」
「だよだよ。あそこは思ってなくても素直に頷いて欲しいね、全く」
「素直じゃないか。俺は逆に清々しくて好きだがな」
「姫の半分くらい可愛げが欲しいよ。安藤も安藤でガキかってーのっ!」
「ガキなんだろ」
 桜庭の愚痴に律儀に返事をしながら、橘は桜庭の柔らかい毛髪を撫で続ける。
「自分がどんだけのモンだと思ってんだ。実力もねぇくせに、プライドだけは高いと来る。才能だけで努力は人並、努力する天才に勝てるわけねーじゃん」
「才能があるから厄介なんだよ、あの手の奴は」
「……っていうかさっきから何なの。何、喧嘩売ってんの」
「肯定して欲しいのか?」
「……いや、それはそれで嘘くさくて胸糞わりぃ」
「だろ」
 橘は飲み干した缶を片手でグシャリと畳みながら苦笑する。それをそのままゴミ箱に放ると、口から毀れた一滴が橘の逞しい腕を伝った。
 それをすかさず、桜庭の長い舌が舐め取る。
 桜庭の舌はビールを掬い取った後も、橘の腕を這った。
 どちらが仕掛けたわけでもない、その空気を合図に、橘が桜庭の肩を押しソファに沈めた。
「まあ、二人の事は気にかけておく方向で」
 近付いて来た橘の顔を見つめながら桜庭が言った所で、先輩としての役目を終えたとばかりに、二人の唇が重なった。








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2008/12/26