優しい貴方へ 1




 優しい貴方へ。
 
 だから、言いたい事がある。

 だから、言えない事がある。






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 背中が痛かった。
 けれど声は喉に張り付いて、唇から出る事は無かった。
 冷たいコンクリートに何度も打ち付けられて、ひりひりと痛む背中の事等”相手”は全く気にも留めない様子で、もう抵抗する気力すら無い行為に没頭している。
 飛び散る汗が身体の上に落ちる不快感に顔を歪めると、腕を戒めていた男が楽しそうに笑う。
「先輩の顔、色っぽい」
 興奮に掠れる声の通りに、何度も何度も身体の中を出入りする男のモノは、更に膨張したようだった。




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 その日バスケ部は敢行していた立て続けの練習試合の間に設けられた、久しぶりの休心日を迎えていた。
 ――にも関わらず天気は大雨で、喜ばしい筈の休日が台無しでもあった。
 それでも多くが休日を楽しむ為に街へ繰り出した様子だった。
 姫宮涼斗は休みでも体育館に詰める恋人・王子大と別れて、久しぶりに読書でもしようと図書室へ向かう。本当なら王子に付き合いたい所だが、如何せん彼程化け物じみた体力は持たないので心身共に疲れ果てていて、出かける気にすらなれない、というのが本音だった。
 王子にはキャプテン含む先輩が付き合ってくれるようなので、気兼ねなく読書に没頭しようと決める。

 日曜の学舎は静かだ。
 部活動に使われる棟とは図書室が別棟にある事もあって、人っ子一人居ない寂しさだった。
 寒々とした廊下には涼斗の靴音だけが響いている。
 窓にへばりついた水滴は後から後から流れて行き、窓の外は靄の掛かったように白んでいた。

「先輩」

 突然、低い声が響いた。
 窓の外を何とはなしに見つめていた涼斗だったが、声の主に気付いてゆっくりと足を止める。
 声の主を探そうと振り返ると固い表情で立っていたのは、バスケ部の後輩の安藤卓(あんどうすぐる)だった。
 彼は陰鬱な気分そのままの、やさぐれた雰囲気を隠そうともしない体だった。ほんのり頬が赤く感じるのは、気のせいだろうか。
 涼斗は首を傾げながらも柔らかく応じた。
「どうしたの」
 姫と呼ばれる可愛らしくもある大きな瞳を細めて、相手を観察する。
 安藤は一年生の中では有望な、準レギュラーにも数えられる後輩だ。涼斗とはポジションも違ったし、準レギュラーと言えでもレギュラーとは練習を別としている為、関わる機会はそう多くない。それでも人当たりの良い涼斗なので、後輩からも格別に慕われていた。
 ただこの安藤は、涼斗の恋人である王子をライバル視している。同じポジションの上、何かと比較されてしまうのが気に食わないのであろうが、王子を嫌いと言って憚らない。元々王子は人に好かれる性質では無かったが、安藤の蔑視は殊更だった。
 そんな安藤だったから、涼斗も王子の付属物として見ている様子がある。彼から話しかけて来る事は稀だった。
「昨日」
 予想していた通りの切り口に、涼斗は内心でため息をつく。
「俺の何が駄目だったんですか」
「昨日も言ったけど」
 抑揚の無い声にも、涼斗は何時も通り声音を崩さない。
「独りよがりなプレーだったからだよ」
「それに合わせるのが先輩達の仕事じゃないんですか」
「違うよ」
 ぴしゃりと言い放ち、涼斗は安藤の言う昨日の出来事を思い出す。
 近くの大学との合同練習の一環だった。何度も何度も試合を繰り返し、ポジションやプレイヤーを替えながら、誰と誰の相性がいいだとか、どう機能するだとか、そういった可能性を探る為の練習だった。
 今後新チームとしてレギュラー入りする可能性も高く、安藤も例に漏れず張り切っていた。
 その編成の一つとして、涼斗と安藤はチームを組んだ。
 こういう時のチーム編成を行うのは監督やコーチだったが、評価するのはチームメイトでもあった。
 頑張っては、いたのだ。
 ただ意気が勝って、プレーがついて来ていないのが現状だった。
 シュートの確率も高かったし、動きも良かった。攻守ともに期待以上だったと言えよう。
 けれどそれは、チームとしてあまりにお粗末な代物だった。
 例えば涼斗はスリーポイントシューターなので、中・外・中と連携が取れないのでは仕事にならない。それが肝心の昨日は、中に入れたボールが全く外に出てこないのだ。外に毀れてきたボールを籠にぶち込むだけが仕事になっていた。勿論シューター以外の働きもするが、中からのシュートばかりでは予想が付けやすい。そして、外からのシュートの方がポイントが高い。今回のように安藤の相手との身長差が生きるチームと戦うのであれば良いだろうが、実力が拮抗している相手だったり、はたまた格上であったり、もしくは防御の強いチームが相手であったなら、そう簡単に事は進まない。
 そんな風に、安藤のプレーは自分が活躍する為の自分勝手なプレーばかりが目立った。
 安藤が吐いたような【それに合わせたプレー】――つまりはフォローには技術が必要で、それなりに消耗も激しい。
 そんなチームの行く末など考えたくも無い。
 だからこそ涼斗はタイムを希望し、監督に安藤を下ろすように言った。それを他のチームメイトは拒否しなかったし、監督も応じて、僅か十分でこのチームの可能性は切り捨てられた。その後何回か試合を行ったが、安藤の活躍の場は以降作られなかったのだ。
「安藤は確かに上手い。でも、チームを思い遣れないのじゃマイナスだ」
「俺は勝つために」
「そうだね、勝てる試合で勝てるチームだった。けどあれは、チームとしては最低だった」
 まっすぐに瞳を見つめて返す。
「勝つ事は試合で確かに最重要だけど、勝ち方も重要なんだよ」
「分かってます!」
「分かった上で出た発言があれじゃ、きついようだけど僕は一緒に戦えない」
それはまごうことない、はっきりとした拒絶だった。
 そんな言葉が涼斗の唇から出る事はとても珍しい。けれどそれが安藤への期待の証でもある。
「チームメイトは君の道具?」
「やり方は間違っていない筈です!! 実際王子先輩だって――」
「王子は王子。君は君」
 優しく諭す。
「王子への対抗心だけで、君はバスケをしてるの?」
「違いますっ!」
「じゃ、それが君の今の実力って事だ。――ねぇ、安藤。王子のプレーが独りよがりなのは認める。けど僕達は、王子のそれを負担だとは思っていない。彼のプレーを信頼して、任せているんだ」
「……」
「エースと呼ばれるだけの実力と信頼を持って、コートに立って、自分の仕事を知っていて、独りよがりにもなる。けど、チームメイトを見ていないわけじゃない。彼が脇役に徹する事だって当然ある。でもそれは、チームとして成り立っているからこそ出来る事でしょう?」
「……俺じゃ、実力も信頼も無いっていうんですか」
「――昨日の試合、コート上で誰もが探り探りでプレーしていた事に気付いていれば違っただろうね」
「……え?」
「勝つ事が勿論大前提だった。けど、中身の方が遥かに重要だった。安藤と僕達が同じコート上でどう連携を取れて、どんな時にチームを組むのが有効か――そして安藤自身が、誰とでも組めるかどうかが重要だった。昨日の試合、他の四人が全員初心者だったらどうなった?」
 何時も同じメンバーで戦えるわけでは無い。何時も同じ実力の仲間が揃うわけでも無い。だからどんな状況でも、状況に合わせて戦える事が重要だった。チームとメンバーを活かし、チームとメンバーを活かせなければ、青葉学園のチームメイトとしてコートに立つ許可も、信頼も得られない。
「全員初心者だったら、また違うやりかたしてましたよっ!!」
 けれど安藤に、伝わらないらしい。否、伝わった上で理解出来ないのだろう。自分の誇る力が必要ないと言われる事に、慣れていないからこそ。中学の時はチームの要であったからこそ。
「あんたは、王子を過大評価しすぎだ!」
 安藤は一気に距離を詰めて、乱暴に涼斗の身体を壁に押しやった。そのまま手首を掴まれて、涼斗の脆弱な身体は悲鳴を上げる。
「っ」
「あれが俺の実力だと思わないで下さいよっ! あれはチームが悪かったんだ!!」
「まだ言うの」
「あんたが恋人をどう贔屓しようと、俺は!!」
「僕は、少なくともバスケで王子を贔屓なんてしてない。仮に贔屓していたとしても、僕が過大評価していたのは君みたいだ」
 捻り上げられた手首を、涼斗は顎で示す。
「それはシューターの手首だよ」
 魔法の手、と呼ばれる、奇跡的なループを描いてボールを放つ、涼斗の命。
「君が昨日のチームをどう言おうと勝手だ。そういう事なら僕と君がチームを組む事は金輪際無いだろうね。そしてそれは――後一年、君のレギュラー入りもまた無いという事だ」
 その言葉は、涼斗のプライドから発せられたものだった。多分意識せずに、言葉を選んだわけでも無く、バスケット選手としての誇りが、放った言葉だ。
 興奮した安藤を、更にいきり立たせると知っていても、無意識に出た言葉だ。
「っこのっ!!!」
 腹に鈍い衝撃が走って、涼斗の身体は仰け反った。
 息が一瞬止まって、次いで急激に入ってきた酸素に噎せ返る。
 せり上がった嘔吐感に涼斗は膝を突いて、そのまま、壁に叩きつけられた。
 それでも掴まれたままの手首の方が、涼斗の関心を浚った。泪の浮かぶ視界に映る手首から先が真っ白で、血管が浮き出ていた。恐らく爪が食い込んでいるのだろう、感触は伝わらない。
「ごほっ……っは…手、放して――」
 咳き込みながら言うと、安藤は獰猛に笑った。
「言い事、考えた」
 冷静さを失って血走った瞳が、一寸先で妖しく光る。
 その安藤の口から吐き出された息は――
「安藤、君、お酒を――っ!!」
 未成年のくせに、なんてくだらない事は言わない。言おうとしたのはそんな事では無かった。
 けれど安藤は涼斗の首を軽く絞めて言葉を止める。
「だから、何」



 ――そして、近場の教室に連れ込まれて。





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 優しい貴方へ。
 
 だから、言いたい事が、ありました。

 だから、言えない事が、ありました。




 







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2008/02/21