先生と僕 2





 先生を好きになったのは、まだ、中等部に居た時だった。
 高等部担当の現国教諭で、当然の様に僕が授業を受ける事は無かったけれど。
 高等部の先輩に返す物があって、昼休みを使って先輩の元へ訪れた時だ。その時僕はその先輩に秘かな想いを抱いていて、何時も何やら理由をつけて先輩に会いに行っていた。
 先輩は廊下で、友人数人と談笑していた所だった。その中で一人頭一個飛び出ていたのが先生で、「雪ちゃんはさー」なんて軽く肩を叩かれた若い面立ちだったから、近付くまでそれが先生だなんて気付かなかった。現国担当なのに何故だか白衣を着ていて、それがとても不思議だった。
 僕に一番に気付いたのがその先生で、先生は目が合うなり屈託なく笑って。好きだった先輩の事なんて、その場で吹っ飛んだ。
 低めの声が紡いだ最初の一言は「どうした、中学生?」なんて何でもないものだったけど、僕はその声と笑顔をずっと忘れられないで居る。それは心の真ん中を陣取って、褪せる事も無く輝き続けて。
「こんにちわ」
 簡単な挨拶さえすっごく緊張して、手がじんわりと汗ばんだ。そんな自分がひどく笑えた。
 借りていた本を返して、先輩達と他愛も無い会話に混じった僕は、その間ずっと先生を見ていた。先生はクスリと笑って「俺の顔に何かついてる?」なんて、そんな事を言ったっけ。
 先生を凝視していた自分が恥かしくて、俯いた僕の頭を撫でた優しい掌。
「来年、授業担当出来るのを楽しみにしてるよ」
 そんな社交辞令さえ嬉しくて、思わず顔が綻んだ。
 先生が去った後からかいを含みながら、先輩達は先生の事を教えてくれた。面倒見が良い事、優しい事、ヘビースモーカーな事、時々非常階段で隠れて煙草を吸っている事、ちょこっとだけ不真面目な事、雪ちゃんと呼ばれて生徒達から絶大な人気を誇っている事――いい先生だぜ、と先輩が褒め称えていた。
 高等部に上がった時は本当に嬉しくて、飛び上がってしまいそうだった。ただ進級するのと同じ調子なのに、まるで厳しい試験を合格したかのような喜びようだったと思う。
 入学式を終えて、先生に会えるんじゃないかなんて期待しながら意味も無く校舎を徘徊していた時、偶然廊下で先生とすれ違って。動揺して、多分顔は真っ赤で。僕に気付いた先生は、目を細めて笑った。
「お、楡くん。制服似合ってんじゃんか」
 一度だけしゃべっただけの僕の名を覚えていてくれた。それが泣きたくなるくらい嬉しかった。
 何故だか目の下に隈があって、不精髭も生えてて、それに校舎の中で煙草を吸っているような駄目さだったけど、何よりも格好良くて僕の胸は高鳴った。
 長い指が僕の頭をくしゃっと撫でて、「頑張れよ」ともう一度笑って。
 それからはもう、先生の目に映る事に必死だった。

『――好きです』

 僕がそう告げるまで、どれだけ悩んだか。
 先生は知らない。知る筈も無い。
 僕がどれだけ先生を好きか。
 先生は知らない。

 だけど。
 だから。

 あんな風に、寂しそうに、悲しそうに、苦笑する先生の顔なんて、僕も知らなかった。



  ◆◇◆◇



「――」
 目覚めたら、もう放課後だった。
 最後の授業を告げるチャイムの音を目覚まし代りにして、重たい瞼を上げる。
 泣き付かれて眠ってしまった保健室は無人。来た時と同様しーんと静まり返っている。
 顔を埋めていた枕からは清潔な洗剤の香りがした。
 のそりと身体を起こすと、現実が戻ってくる。
 幸せな夢を、見た。久し振りに先生と出会った時の事を思い出して、唇を噛む。希望に満ちて、ただ好きという感情を育んでいた時の、幸福な夢だ。
 ただ振られたという事実があるだけなのに、何で現実はこうも、物悲しいのだろう。
 結局の所、僕はまだ先生を諦める事なんて出来なくて。きっと綺麗に振られても、この想いを消す事が出来なかったように、好きという感情は消えてはくれなくて。
 ただ、想いが溢れて。告げずにはおれなくて。気持ちをぶつけただけだ。
 その自分勝手な告白に、先生がどんな態度を返したって悪くない。
 ――悪く無い筈なのに。
 勝手に期待して、勝手に裏切られた様に感じて、勝手に絶望して、勝手に泣いてるだけ。
 先生は悪く無い。
 そう思うのに身勝手に傷付いた僕は、まだ涙を流す。
 掌で嗚咽を殺して、僕はまた泣いた。

 何時まで泣き続けたら、涙は枯れるんだろう。
 どうしたら、先に進めるんだろう。
 行き着く先が見えなくて、僕は闇の中でもがいている。
 もう何もかもがイヤになって、全てから逃げ出したい気分になって、僕は布団に潜り込んだ。
 また眠りにつけば、現実から幸せな夢に戻れるような気がして――。



  ◆◇◆◇



 「……」
 次に気がついた時、目に飛び込んで来たのは見慣れた自室の天井だった。
 茫洋とした視界が次第に鮮明になっていくと、今自分がそこに居る理由に疑問が沸いてくる。
 軽く身じろいで何時も目覚ましが置いてあるベッドサイドを探ると、目的の目覚ましが指に触れた。それを持ち上げて時刻を確かめる。
「……」
 十時過ぎ。点呼は何時終わったんだろう。保健室に行ってから、どうやって戻ってきて、どう点呼をやり過ごしたのか、僕に記憶は無い。
 のそりと起き上がると、聞きなれた声がかかった。
「起きたのか」
「……高菜」
 同室の高菜はテレビに向かっていた顔だけをこちらに向けて、目を眇めた。
「気分は」
「ん、平気」
 今彼がはまっているロールプレイングのゲームをセーブもせず躊躇いも無く消して、高菜はベッドへ移動してきた。
「飯、食う?」
 そう言って彼が指す僕の机の上には、ラップで覆われたおにぎり。
 僕が曖昧に笑うと、高菜は肩を竦めて。
「僕、保健室からどうしたの?」
「先生が運んで来た。晩飯ん時に一応声かけたんだけど、起きる気配無いからそのまま寝かしといた。点呼も病欠で済んだぞ。で、気分は」
 確認する為か最後にもう一度同じ質問をされて、僕も同じ答えを返す。
「平気……良く寝たから」
「そっか。水飲むべ?」
 高菜に差し出されたペットボトルの水を受け取って、僕はそれを飲み干す勢いで口にする。乾いた喉にいい具合に染み込んでいく冷たさに、身体だけでなく心まで落ち着いていく気がした。
 一気に半分程を飲み干して満足げにため息を漏らすと、それを待っていたとばかりに高菜が姿勢を正した。正座して、背筋を伸ばして、真面目な顔を作って、
「なあ」
「うん?」
「本当に何があったんだよ」
「……何かって?」
「わかんねぇから聞いてんだよ。宇治と藤堂も何か知ってんだろ? お前最近本当、おかしいしさ……っ」
 真剣な瞳が僕を射抜く。
「俺だって、苦手だけど恋愛相談乗れるぜっ!?」
 鋭いんだか鈍いんだか分らない主張に、僕はたまらなく可笑しくなった。情緒不安定な理由が恋愛事だけだと思っているのか、あるいは何か悟っているのかは分らない。そもそも仲良くなった切欠が「藤堂とお前って付き合ってんの?」なんていう不躾な質問だったくらいで。誰と彼が仲良い、がイコール恋愛関係だと思っているような節がある高菜は、同性同士の恋愛にも寛容だったが、思春期の女子学生みたいに何でもかんでも恋愛に繋げてしまうから面白い。
「残念だけど、相談する事なんてないよ。告って振られただけだから」
 だから思いのほか、すんなりとそう言う事が出来た。
 そう、告白して、振られた。
「それだけだよ」
 言葉にするとひどく簡単だ。
「っ誰に?」
 驚きに裏返った声に、更に笑みが誘われる。
「それは秘密」
「……そっかあ……」
 僕が唇に人差し指を当てて苦笑すると、高菜は途端居心地が悪そうに後頭部を掻きながら顔を俯かせた。
 人の恋愛話に首を突っ込んで上手い言葉が見つからなくって、結局
「元気出せよ!」
 簡単な慰めしか口に出来ない、そんな典型的な高菜の行動は、それでも心配してくれての事だから不思議と怒りは沸いてこない。
「明日学校帰りにカラオケでも行く? パーっと騒いで、忘れようぜ?」
 無理にテンションを上げて、高菜は満面の笑みを浮かべながら言う。
「森と香川とか誘ってさ!! 藤堂と宇治は……あいつらは、盛り上がりに欠けるから今回は無し!!」
「それ、本人に言ったら怒られるよ」
「いいんだよ、今回は俺ら三馬鹿と楡で!」
「自分で言うし!」
 励ましなのか本気なのか、高菜の阿呆な提案に、心底から笑みが漏れる。
 こんなに笑ったのって、久し振りかもしれない。そう思うと同時に、口角が上がる。笑い声が漏れる。笑顔になる。
 そんな僕に明らかにほっとしましたと柳眉を緩める高菜は、分りやすいけど憎めない。いい友人を持ったな、なんてしみじみ思った。
「ありがと」
 そう言うと分りやすい友人は、もう一度頭を掻いて、照れたように目線をずらした。
「あ、あと、先生にもちゃんとお礼言っておけよ!!」
「あ、うん。保健の先生だよね」
 照れ隠しに話題を変えたんだと分ったけど、そこには触れないでおく事にする。
 けれど次に続いた言葉に、僕は固まった。
「違うよ、雪ちゃん。感謝しろよ、お前を姫だっこでここまで運んでくれたんだから!」
「……え?」
「放課後、わざわざ様子見に来てくれてさ。俺らで運ぼうかと思ってたんだけど、流石にお前の体格を一人で運べる奴いなくて」
 別段たくましいわけでも大きいわけでも無く、寧ろ小柄な部類だったが、同学年の高菜達ではそんなに大差ない。眠った人間一人運ぶのは骨が折れるだろう。だからと言って。
「何で?」
「昼間会った時、俺らで楡の事色々相談しちったからさ。気にかけてくれたんだろーなぁ」
 うんうん頷きながら高菜は、「やっぱ雪ちゃんはいい先生だよなぁ」なんて言ってる。
 でも僕にとっては、そういう事じゃない。
 そんな事、重要じゃ無い。
「何で……」

 その時僕の胸に湧き上がった感情は、怒りだった。









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2008/12/07