先生と僕 3





 青葉学園は全寮制であるから、その教諭達も当然の様に教諭寮に住んでいる。勿論自宅から通ってくる教諭も居るには居たが、坂上先生は教諭寮の住人だった。けれど学園の敷地内だというのに教諭寮に帰るのも「面倒」と言い切ってしまう彼は、現国準備室で寝泊りしている。
 担当教室の隣にある準備室は、結構豪華な造りで、普通のワンルームのような様子になっている。流石にバス・トイレ・キッチンは無いが、冷蔵庫はあるし、テレビはあるし、ソファベッドまであった。それぞれの教諭が好きに使用できるのが準備室であったから、現国の準備室は坂上先生の城状態だ。学校内のシャワールームやトイレを使用して、食事だけは外で食べたり寮を利用したり、昼食時に購買で買える弁当などで済ませているようだ。
 それだけ自由に利用できれば、面倒臭がりの坂上先生の居住は準備室となっても不思議ではない。
 だからその日も準備室に寝泊りしているだろうと踏んで、僕は早朝から学校へ乗り込んだ。
 一晩経って僕の中の怒りは消える事無く、むしろ増している。
 静かな廊下を無駄に足音を立てて、準備室へ向かう僕の顔は相当酷かったと思う。クラスメートに「楡って怒ったりキレたりするの?」と問われる事がある位だから、皆の印象は温和なクラスメートといった所だろう。元々のんびり屋の家族の中で育ったから、人よりワンテンポ感情の動きが遅いんじゃないかな、と、客観的に見て考えている。僕が怒ったりキレたりする前に周りがそういう態度になってしまうから、逆に落ち着いてしまう、といった風なだけ。実際は感情表現が豊かな方だと思ってる。
 だからその日僕が不愉快な感情を全面に出していても僕にとっては何らおかしい事では無かった。
 けれどソファベッドで寝入っていた坂上先生を無理矢理起こしにかかった僕を見て、先生は第一声で
「何をそんなに怒ってるんだ!?」
と、寝ぼけ眼を擦りながら驚いた様だった。
 ノックもせずに自室に入って来た僕を咎める事は無い。
「どうかしたのか?」
 と心配そうに顔を覗き込まれ、常であればそんな先生にドキリと高鳴る筈の胸は、今回はちっとも動かなくて。頭だけが沸騰した。
「どうかしたか、ですって?」
 呻るような低い声で、僕は笑った。喉の奥で声が篭ると、自分でも驚く位態度の悪さが目立つ。
「こちらが聞きたいくらいです」
 僕の言葉に、先生は顔を顰める。しばし考えるように顔を俯けて、それから見つめ返してくる瞳は、何を言われているのか分らないと不思議そうに瞬いた。
 髭が生えたての顎を撫でて、僕に一言断ってからテーブルの上の煙草に手をつける。
 肺一杯に吸い込んだ紫煙を吐き出して。
「ごめん、意味が分らない」
 穏やかな声が申し訳なさそうに言った。
「昨日の保健室の事です」
「うん?」
「誰が送ってくれなんて、頼んだんです?」
 刺々しい口調になってしまうのは否めない。僕が咎めたいのは、一番にそこだったから。
 けれど先生は、やっぱり全然分っていない風で、小首を傾げてもう一回煙草を吸い込む。
 長い指を薄い唇に寄せて、煙草を吸っている仕草はやっぱりセクシーで――ほうっと見惚れそうになった僕は、慌てて言葉を繋いだ。
 そういう場合じゃない、と思い直す。
「どういうつもりか、ぜひ聞かせて欲しいですね」
「どうって……」
 坂上先生は困ったように眉根を寄せた。
「あいつらも、困ってたし……俺なら一人で運べたから、なぁ……」
 あいつら、と指すのが昨日保健室から僕を運ぼうとしてくれた友人達だというのは分かる。高菜は僕を運ぶのに難儀した、と話してくれたから。
「だからって、先生がそうする必要は無いでしょう。他の先生なり、保健の先生なり、居るんだから。僕は坂上先生にだけは、そんな事して欲しくなかったです」
「そうは言っても……羽室先生は留守だったし、他の先生の手を煩わせるってのも、」
「だから、坂上先生がそんな世話を焼いてくれなくて結構だって言ってるんです!!」
 苦笑した先生の言葉を遮って、僕は声を荒げた。この人は、ちっとも僕の言っている事を理解してくれていないらしい。生徒の相談事を、先を読んで理解してくれるっていう噂は何処から来たんだ、と疑わしくなる程の鈍さだ。
 保険医の羽室先生が留守なのは仕方ないにしろ、無理矢理にでも起こしてくれた方が嬉しかった。それをわざわざ、面倒が嫌いな坂上先生が運び出して、お姫様だっこで寮まで連れて帰ってくれた、なんて!!
 告白する前だったら、単純に喜べた。
「貴方は、そうされた僕がどう思うかなんて、ちっとも考えてくれなかったんですか!」
 僕の顔がくしゃりと歪んだ。酷く惨めで泣きたい気分にされる。
 先生にとって僕の告白は、無かった事にでもなっているのか?
「僕が今、坂上先生にだけは関わって欲しくなくて、優しくしてなんて欲しくないって事、言わなきゃ理解してくれませんか」
 昨日あんなに泣いたのに、涙はまだ出るらしい。人の身体のほとんどが水分だからって、こんなに出せば流石に枯れてくれていい。唇を噛んで遣り過ごそうにも、瞳に盛り上がった涙の所為で視界はもう朧だ。
 情けない。
 ――悔しい。
 本当だったら失望して、こちらこそ無かった事にしてやりたい。
「僕は先生が好きだと言った。それなのに貴方は、答えらしい答えなんてくれなかった。あんな風に振られただけでも十分傷付いてるのに、貴方はそんな僕の傷に塩を塗り込むような真似をした」
 声が震える。言いたいのはこんな事じゃない。こんな惨めな言葉じゃ無い。
「先生の立場からしたら、生徒は放っておけないんでしょうね?」
 皮肉が口をついた。言っている事が的を射すぎて笑える。
 そうやって他の生徒同様に扱われる事が、今の僕にとっては何より辛い。恋愛感情で接している僕を、先生は他の生徒と一緒にする――それが、どれだけ僕にとって恐怖だったか知らないから、考えてもくれてないから。
 そんな価値も無いと言われているようで苦しい。
 先生にとって僕は、ただの生徒だと――それが当然と分かっているけど、理解したくないから避けていたのに。
「なら先生として、僕の気持ちを優先する配慮くらいしてくれてもいいじゃないですか!!」
 叫ぶと同時に涙が頬を伝い、次から次へと零れていく。
 黙って僕の激情を聞いていた先生の手が、俯いた僕の頭を撫でる。
 ああ、また。
「悪かった」
「だからっ!!」
 その手を乱暴に振り払う。
「こういうのを、止めてくれって言ってるんです!!」
「違う」
 困ったように笑う先生の顔が、霞んだ視界の中でも見えた。
 ああ、また。
 こうやってまた、繰り返すのが恐かった。僕の感情を素直に向ければ、先生は、先生こそが、どうしていいのか分からないと瞳を揺らすから。何時だって真っ正直で曇りない先生の明るい瞳が、翳りを帯びるから。そうして僕の心を痛ませるから。
 そんな顔をして欲しくて、告白したんじゃない。僕を好きになれ無いならなれないで、生徒としか見れないなら見れないで、ちゃんと先生として振ってくれればそれで良かった。そしてまた先生と生徒に戻ろうと、そうやって諭して、綺麗に終わりにしてくれたなら――僕はこんなにも、絶望しなくて済んだのに。
 僕の告白は、ただただ、先生にとって迷惑ですか。
 僕の感情は、先生にとって、目を瞑りたい程汚いものですか。
 聞きたい事は、口に出来ない。
 その問いに頷かれて笑える程、僕の想いは少なくなかった。
「昨日の事もだけど、あの日の事も」
 もう一度僕の頭に先生の掌の感触。ふわりと煙草の香りが鼻を擽る。
「お前を傷つけたなら謝る」
 謝って欲しいわけじゃない、と言いたかったけど、言葉は最早嗚咽にしかならない。今更、そんな言葉が欲しいわけじゃない。
「気持ちは嬉しかったんだ。こんなどうしようも無い俺を、好きだって思ってくれた事。あの日のお前の顔見てたら、それがどれだけ勇気の居る事だったかって事も、分かってた」
 訥々と語られる言葉はまるで懺悔のよう。
「ありがとう、ごめん……そう、言えたら良かった。何時もそう答えて、言い方悪いけど振って来た」
 優しい掌が僕の気持ちを落ち着けようと、頭から肩へ移り、しゃくり上げる僕の背中へ。言葉と同じくらいの儚さで、触れてくる温もり。
「そう出来なかったのは、今までの生徒と違ってお前が、本気なんだって分かったから。憧れとかそんなんじゃなくて、今までのお前からそんな感情を感じた事なんて無かったのに、あの時のお前からはすっごい真摯に伝わってきて。そんなお前に、他のヤツラに対してきた常套句を返すのは、何だか悪い気がした」
 ふうっと頭上で吐き出されたのは、長い吐息。
「そういう時にどういう言葉を言っていいのか、さっぱり検討がつかなかった。困ったのは、お前の感情に対してじゃなくて、お前の本気に応える言葉を探してたから」
 今、必死に言葉を探してくれているのが、途切れ途切れの話から理解出来た。
 この人は人の話となれば適切な事を言えるのに、自分の感情には不器用なんだろうか? そんな風に考えたら何だか笑えた。
 この状況でそんな事を考えられた自分が不思議だった。
 でも、ならば何故。僕の告白をあんなにも、傷付いた顔で聞いたのか。
「でも、どう言っても結局俺は、お前の気持ちには応えられないから――やっぱり、ごめんとそれだけは言うべきだった」
「……そうですよ」
 まだ決壊した涙のダムは戻らなかったが、しゃっくりの方は先生の掌のおかげか消えた。手の甲で目を拭きながら、僕は少しだけ笑う。
「それが聞きたかったんです。逆にそれだけで良かったんですよ」
 答えは、何時だってシンプルな筈だ。そこに想いが加わるから、どこかで言葉がブレるだけ。その言葉が思惑から外れると、結局は何も伝わらない。
 どうあっても僕に応えられない、というのなら、もうその時点で僕は傷付くしかない。けれどそれを覚悟の上で告白したのだ。先生の苦笑の理由が、例え僕を傷付けない為だったとしても、それが逆に僕を傷付かせた。
 そういう、事なのだ。
 先生の、ただ単に戸惑うだけの顔を見たら、自然と笑顔が浮かぶ。
「付き合えたらいいな、とか、好きになってくれたらいいな、とか――そういうのはやっぱり思ったけど。僕にとってあの告白は、自分にとっての区切りだったから。先生を好きだって気持ちが溢れて、どうしようもなくて、そういう風に誰かを好きになれた自分が誇らしくて、だから……目一杯感謝の気持ちを伝えたいって、ただ、そう思えて」
 今度こそ、先生の瞳を真っ直ぐに見返す。
「振ってくれて良かったんです。当たり前の言葉で良かったんです。それで僕はこう言いたかった」
「……え?」
「僕が納得いくまで、好きでいさせて下さいって」
 僕の人生は既に、決まっているも当然で。親の敷いたレールの上を歩くのにも、特に感慨は持って居なかった。それを覆せるほどの夢など無かったから、親の意思に反覆してまで選ぶ道など無いと思った。それを別段、何とも思っていなかったんだ。
 でも先生に出逢って、僕の世界は一変した。身体も心も満たされる奇妙な充実感、今までと同じ未来を見つめている筈なのにキラキラと輝くそれは明るくて美しく、僕の視界を彩った。名前を着けたら恋とか愛とか呼ばれる感情が、どんなに素晴らしくかけがえの無いものなのか、その末路が幸福で無くても、僕はただただ生まれて来た事に感謝したい程で。
 そう思えた自分が誇らしかったし、だからこそこの気持ちだけはとことん大事にしたかったのだ。
 その末に出した答えが。
「先生に迷惑はかけない。今まで通りでいてくれて良い。ただ僕が貴方を好きになった事だけを、知っていて欲しかったんです。僕にとって何より幸せなこの感情を、最後まで抱いている事を、許して欲しかったんです」
 何時か先生以上に好きになれる人が現れるまで。
「そう思う事は自由でしょう?」
 自分の気持ちに区切りをつける為、あえて先生に告白した。
 ――それだったら答えを知る必要なんて無いのに、どこかで矛盾した感情。だから意思に反した先生の態度に、酷く反応した自分。
「でも結局、今こうして先生に迷惑をかけてるんだから、しょうもないですね」
 脳で理解しても、感情は納得していなかっただろう事を悟って、楡は言いながら嘲笑した。
 それまで黙っていた先生が、僕の視界の中で唇を噛むのが分かった。
「楡……」
 呼ばれて無意識に顔を上げると、先生の瞳には、またあの時の深い翳りが戻っていて。
「ごめんな」
 固い声音にびくりと背筋が震えた。
「俺は、誰かを好きになる資格なんて無いんだ」
 それが、どういう意味の言葉なのか、苦しそうに歪む先生の顔を見ながら唖然としたままの僕には、到達しなかった。
「ごめんな」
 もう一度そう言って、先生が立ち上がるのを見つめる。
「コーヒー、飲む?」
 戸棚を漁ってカップやインスタントコーヒーを用意し始める大きな背中は、僕なんかの想像出来ない程沢山のものを背負っているようで。どこか心細い印象を受ける。
 奇妙な不安感を抱きながら、僕は先生の言葉をなぞり始めた。
(好きになる、資格……?)
 何度も何度も反芻している間に、疑問が沸いた。それは結局、僕の思いに対する答えではないのではないか、と小首を傾げて考える。好きでも嫌いでもない応え。自分自身に言い聞かせるような言葉。何よりその度に暗い色を乗せる瞳。
 僕が素晴らしいと思ってやまない、この暖かな感情は、何故か先生を苦しめる。先生にとって恋とか愛とかという感情は、先生自身に孤独を強いる枷なのだろうか――それはとても、悲しい事なんじゃないだろうか……。
 相手が僕でも、誰でも、先生は人を好きにならないっていうのか? 自ら、そう科すのか? それは、とてもとても。
 差し出されたコーヒーを受け取りながら、僕は先生を見つめた。
 優しい瞳が「ん?」と言いたげに細まる。
「先生」
 ああ、僕は。
「それでも僕は、諦めません」
 今分かった。ここ数日の苛立ちは、先生の態度に対してでは無くて。先生の瞳が帯びる悲しみの色が、何より胸に痛かった。

 僕は、先生に、笑っていて欲しかったのだ。何時も、どんな時でも。
 幸せで、居て欲しいのだ。










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2009/01/21