先生と僕 1





 意を決して
「好きです」
と告白したら、当然だけど、僕が望んだ
「俺もだよ」
なんて答えは無かった。
 返ってきたのは困ったような微笑だけだった。

 ――それだけだった。


 付き合えるなんて――期待してなかったなんて言ったら嘘になるけど、根拠は無かった。けれども明確な答えはもらえるものと思っていたから、この気持ちに何らかの区切りをつけたくて勇気を出した。
 僕は、相手の人柄を信頼していたのだ。
 彼と僕の間には大きな問題があるけれど、それでもって。
 二つの大きな問題。それ以外にもハードルは沢山あるけれど、とにかく二つあって、一つは僕が生徒で彼が先生である事。もう一つは男同士である事。
 僕の通う青葉学園は男子校なのでそういった恋愛には暗黙の了解があって、皆それなりに寛容だ。全寮制ともなると男女間の交流も無い事だし、名門子息が殆どのこの普通科では婚約者が幼少期より決まっているという事もザラで、本気の恋愛をしようなんて考える者はそう居ない。

 ”恋愛なんていうものは本気でするものではなく、社会に出るまでの期間限定のものである。”
 だから割り切った後腐れのない付き合いを望むばかりで、そういった者にとっては同じ状況である学園の生徒は、格好の擬似恋愛の対象に成り得る。同等の立場にあるからこそ理解出来、面倒が無い。男子校故の過ち、錯覚であると卒業と同時に忘れ去り、後から自分の不利とならない相手――全員がこうだ、と言う訳では無いが、この学園内の恋愛に何かしらの理由をつけるとこんな感じだろうと僕は思っている。
 だけど生憎僕は本気で、先生を愛していると言っても過言では無いのだ。
 笑える話、何時でも何処でも先生の事ばかり考えて止まらない。少女漫画の主人公の様に、先生の一挙一動足に喜怒哀楽が左右される程。
 世間一般的に禁忌とされるその二つを、僕は犯そうとしている。


 坂上 雪(さかがみ ゆき)――それが先生の名前だ。
 過去青葉学園の生徒であった先生は生徒同士の恋愛にも理解があり、相談にも乗ってくれる現国教諭で、大人で――人気者で。煙草を吸う仕草が何よりセクシーで格好良い。だらだらした所作が目立つが、たまに見る凛としたた佇まいが素敵だ。
 先生自身、家柄育ちは格段に良い。正し三男坊故に昔から今に至るまで、自由にしたい事をしている等と言うが、徹底した教育を受けていたのは間違い無い。
 つまりは紳士なのだ。
 生徒で男である僕からの告白に対しても、苦笑して遠回りに拒絶する人ではけして無い。
 言葉をオブラートに包む事はしても、誠意には誠意を返してくれる人だ。本気には本気を返してくれる人だ。真剣な言葉を返してくれる人だ。
 だから僕は少なからずショックだった。
 ――いいや、死ぬ程ショックだったのだ。

 心底困っているのがわかる、その笑みだけは。



  ◆◇◆◇



「――れ君」

「楡君!!!」
 不意にえらく近くで自分を呼ぶ声がして、僕は覚醒した。
「え?」
目の前に屈みこんで僕を睨んでいるのは――外国語担当の先生だ。数少ない女性教諭ではあるが如何せん年が行き過ぎていて、その上見た目が見た目なものだから、お局なんて影で呼ばれている。
 お局は教育ママ風のいかにもと言った眼鏡をかけ直す仕草をしながら、大きなため息をついた。
「今が何の時間がわかっていらっしゃる?」
「えっと――」
 ああ、そうだ。今は……。
「授業中、です」
「ええ、そうね」
 間髪入れずに返って来た言葉の後は、もう簡単に推測出来てしまう。
「そんなに私の授業はつまらないかしら? それとも窓の外に何かあったの?」
 語調は柔らかいが明らかに怒っているのが分かる、細く震える声。
「そんなわけじゃないんですが……すみません。少し、ぼーっとして……」
 確かにつまらないのだがそんな事言えるわけが無いし、言い訳のしようが無いのも事実なので、僕は素直に頭を下げた。
 どうぜ単位取得の為の授業なのだ。今更語学の勉強なぞしなくても、ほとんどの生徒が外国語を操る。そうは言ってもやはり教師は教師なので、自分の行いを棚に上げて授業内容を問題にするのは馬鹿げている。
「そう。体調が悪いのなら保健室に行っても良いのよ?」
「いえ、大丈夫です。すみませんでした」
「では、授業を続けます。楡君は放課後、職員室にいらっしゃいね。 じゃあ、37Pから――そうね、由井君略して頂戴」
「はい」
 そうして再会した滞りのない授業の内容は、さっぱり僕の中には入って来なかった。
 授業終了のチャイムが鳴り響くのと同時に教室を出たお局に視線をもらい、僕はそれを見送ってから大きくため息をついた。
 面倒な人に目をつけられてしまったと思う。
 彼女の授業自体は後等部に入ってから受けたわけで、まだ進学したばかりの僕にとってはこれから三年間近く付き合う相手だ。中等部時代に先輩から聞いて、お局のつまらない授業とねちっこい性格についてはいやという程知っていたから、居眠りと問題行動は避けたかったのだけれど……二日前に失敗に至った告白の痛手はまだ癒えないらしい。
 ……最悪だ。
 無意識にまたため息がもれて、それには反応があった。
「幸せ逃げるぞ」
右隣の藤堂だ。机に頬杖をつきながらこっちを見ている。
「今の授業だけで、七回だぜ? ため息」
「……数えてたんだ?」
「暇でね」
 にやりと意地の悪い笑みを浮かべる藤堂に、僕はまたため息をついてしまう。
「もう既に不幸だよ」
「いやなのに目をつけられたしね」
 前の席の高菜が振り返って、話に加わってくると、香川・森・宇治と言ったクラスメートも短い休み時間にもかかわらず寄ってきた。
「馬鹿だよ、楡ってば。散々言われてたのにさ、お局の授業を乱すなって」
「今時――つうか、あれだけで怒るかねぇ。この学校でオレらにケチつける奴も珍しいっちゃあ珍しいけどよ。あくびが出るくらいつまんねー自分の授業を省みろっつーの」
「教科書をなぞっているだけでは、僕達には簡単すぎていけません」
「だよね……」
 三人三様の言動におざなりに返事をして、僕は次の移動教室に備えて教科書をそろえ出す。
 そんな僕に倣いながら、藤堂が言う。
「で、何考えてたわけ?」
「そうそう、それそれ」
 顔を上げて柳眉を寄せると、四人は興味津々と顔を寄せてきた。結局ソレが知りたかったのだ、こいつらは。
 けれど人様に語れるような内容では無いから、僕は視線をそらして
「別に」
「何の悩みがあるのかな〜楡ってばあ?」
「オレ様に話してみろって。相談に乗ってやるぞ?」
 香川と森の二人は明らかに楽しんでいるのがわかる瞳で僕を見下ろしてくるが、生憎今の僕に話題を提供してやる気は起きない。嚥下できていない想いを言葉にして、さらに不満が募るだけなのは目に見えている。
 それに宇治と、百歩譲って藤堂になら言えるが先生への気持ちを知らない高菜と香川と森には、あまり言いたくない話題だ。といっても宇治も藤堂も知っているだろうと推測できるからであって極力言いたくは無い。
「うわ、親友に冷たい態度!?」
 香川が嘘泣きまでしてみせるが、僕は席を立った。
「はいはい、移動移動〜♪」
 そんな風に背を向けて無理矢理話しを終わらせる筈だった。
 ところが教室を出た途端、タイミングが悪い事に件の相手と遭遇してしまう。先生が苦笑したのが先か、僕の表情が固まったのが先か――。
「あ、雪ちゃん先生〜!」
 追うようにして教室を飛び出て来た森と香川が、僕との間に割って入る。
「先生、今日どこクラスの授業だったの?」
「3組――って、雪ちゃんじゃねーだろ」
「”先生”つけたじゃん」
「”坂上”先生だろ」
 そう言って先生は香川の頭をぱしっと叩いて見せた。
 お局と違って生徒から絶大な人気を誇る先生は、砕けた会話を得意とする。そうやって悩みを引き出す、なんて話は良く聞くけれど、香川と森も同様に先生に対して信頼を置いている。
 僕もつい最近まではそうだったけど、今はその態度さえ癪に障った。
「遅れるよ」
 先生の顔も見ずに言って足早に廊下を進む。
「え、まだ間に合うっしょ!?」
 高菜の不思議そうな声が聞こえたが、無視して廊下を曲がった僕は、その後の会話は知らない――。



「……平気かな、楡」
「ちょっと変だよな」
 宇治が坂上に頭を下げてから楡の後を追って廊下を曲がった所で、香川と森は顔を見合わせて言った。
「変って、どうしたの?」
 坂上も心配そうな顔をして、二人に問う。
「いや、何かここ数日変なんだよねアイツ」
「そうそう、さっきもお局の授業でぼーっとするとか失態かまして。要領が良いのが楡のウリなのに」
「お局じゃないだろ、深田先生」
「――深田先生に、目をつけられたりしてさ」
 鋭く指摘が入って、高菜は渋々言い直して続けた。
「でも、とにかく何か悩んでる風なんだよね。雪ちゃん相談乗ってあげてよ」
ついには”先生”すら取り払って言う香川に、坂上は流麗な眉を寄せてため息を落とす。
「理由は言ってたか?」
「いや、ごまかされた」
「そうか……俺で相談に乗れればいいんだけどな」
「坂やんなら大丈夫だよ!」
 その様子を黙って眺めていた藤堂の視線は、ずっと坂上に固定されていた。熱い、というよりは責めるような視線を受ける坂上は当然それに気付き、そこでやっと困ったように今だ席に座したままの藤堂を振り返った。
「どうかしたか、藤堂?」
 問う、というよりは何かを探るような声音に、藤堂は肩を竦めた。相変わらず冷たい色を湛える枯葉色の瞳は、年頃にそぐわない大人びた彼に良く似合っている。底の知れなさを醸す彼を、坂上もまた、大人の余裕で退ける。
「――別に」
 立ち上がった藤堂は教室を出るまで坂上を見つめ続け、最後にはあっさりとそう言って移動教室とは別の方向へ歩きだした。
「何処行くんだ?」
「便所ー」
 香川の言葉に振り返りもせず、頭の後ろで手を振って去っていく藤堂。高菜は冷静に突っ込んだ。
「便所もそっちじゃないし」
「サボリだろ、あれ」
「って、坂やーん! 教師が堂々とサボリ容認してどうすんのさー」
「いや、俺の授業じゃ無いし、いいかなって」
「いいかなって!!」
 爆笑を背に聞きながら、藤堂は憎々しげに舌打ちした。
「アホ共が」



「楡君……」
 小走りに追ってきていた宇治が、僕の隣に並んで顔を覗き込むようにして背を丸めた。かなりの長身の彼は、そうやって僕と目線の高さを一緒にする。
 眼鏡の奥の双眸は、まるで全てを知っているかの様。
「大丈夫ですか?」
 探るように、心配そうに、紡がれた言葉に、俺は俯いていた顔を僅かに上げた。
「何となく、ですが」
 知ってたの、と問う瞳に宇治は微笑した。藤堂とはまた違った意味で大人な彼の穏やかな笑みを見ていたら、急に酷く泣きたくなった。僕の心に渦を巻く感情を、吐露してしまいたい激情に襲われる。
 けれど思いのほとんどは醜くって、歪んでいて――言葉にするのが躊躇われた。
 言葉の代わりに堰を切ったのは、涙だった。一気に盛り上がったそれは、大粒の雫となって頬を流れる。
「楡君……」
 泣き顔を庇うように前に立った宇治が、僕の肩に片手を置いた。
「保健室、行きます?」
 優しい手は僕を誘う様に、軽く背中を叩く。何とか頷いた僕の手から教科書を一式取り浚うと、宇治は戸惑いも迷いも無い仕草で、僕の肩を抱いた。そうしながらも、俯いたままの僕の表情を隠す気遣いも忘れない。
「ヒュー♪ 宇治に、楡、そういう関係だったの?」
 目敏いが空気の読めないからかいは、同じように移動をしていたクラスメートから上がる。それを宇治は、ぴしゃりと切った。
「病人相手に馬鹿を言わないで下さい」
 一つも揺るがないそれに、僕は思わず笑った。
 けれどその瞬間、口から漏れたのは嗚咽だった。口角は笑みの形を作るのに、表情はどこまでも泣き顔にしかならない。
 情けないな、と鼻を啜った所で宇治の掌が頭を撫でてきて、僕はもう、涙を止める事が出来なくなった――。











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2008/10/04