19 帰れ。



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「そうなんだ」
 と、にこりと笑う顔に驚きもなければ、口調に嫌味もない。
 視線をニコルに移すと、目尻の笑い皺が更に増した。
「それじゃ、ニコルにとってはアーノンに執着する俺は面白く無いだろうね」
 執着、と自分で言ってしまうヴィエリに狼狽したのはニコルだけで、アーノンにとっては予想の範疇であった。ヴィエリという男は、それをけして恥ずかしい事だとは思っていないのだ。
「今日も誘ったりして悪かったね」
「あーいや……」
 頬を掻きながらニコルが言葉を渋る。彼氏として肯定すべきか否定するべきか、そう彼の横目が問い掛けてくるが、アーノンは綺麗に無視してやった。
 そうこうしている内に頼んだワインが運ばれてくる。
 恭しく礼を取るのは先程の案内係よりは幾分マシな姿勢で、「失礼します」と一声かけてからグラスにワインを注いだ。葡萄色のそれが静かにグラスを満たしていく。
 その彼が去るのを待って、アーノンはグラスを取った。
 喉を湿らせてから、口を開く。
「そういうわけでお前とヤル気ないから」
畳み掛けるように直接拒絶の言葉を投げ掛けても、ヴィエリの微笑みは崩れない。
「俺は恋人がいた所で気にしないよ」
「気にしろよ」
 常識無いのかよ、とは思っても口にしない。口にした所でヴィエリが痛くも痒くも無い事は分かりきっていた。
 大人の貫禄、とでも言うのだろうか。まるで幼子をあやす様な表情でヴィエリはアーノンを見つめる。なのにその瞳に艶めいた気配があるのだから奇妙だ。
「それに、君達二人は淡白そうだ。お互いが浮気した所でちっとも気にしないだろう?」
 白磁のカップに口をつける様は優雅。
 悔しいが、今のヴィエリは揺るがない。
 振り返る過去に、ヴィエリはほんの数回しか姿を現さない。その頃の彼は、勿論今よりも若かった。精神年齢という意味では、当時のアーノンとそう変わりなかったように思う。自分が達観し過ぎていた感はあったけれど、同年代の友人に近い態度で接し合っていたように思う。マフィアの集まるようなバーで働いては居ても、ヴィエリは成人して数年の多少粋がっただけの青年で、男娼を買うような真似はしてみせても、特別裕福だとか羽振りがいいというわけでも無い。財布の紐は緩めだが、だからこそそう何度もアーノンを買える程でも無かった。アーノンが彼の勤めるバーを行き着けにしていたのはマスターが気の良い老紳士で、上司が好んで利用していた関係で彼を探し当てて行き着く先がそこだったからだ。そこで会う度にヴィエリは十年来の友人にでも会うように嬉しそうに手を振って来たものだった。ただやはりマフィアは怖いようで、アーノンが一人にでもならない限り寄っても来ない。少しやんちゃが過ぎる、極々普通の青年だった。
 そんなヴィエリが今や、会社の経営者。そこに行き着く経緯など知りたくも無いが、けれど確固たる地盤を築いた故か、ちょっとやそっとの事では揺るがないと知れる。
 自分を確立している男は、他人の言葉や行動に右往左往などしない。
「だからって、俺があんたと浮気するって話にはならない」
「それはそうだ」
 アーノンの侮蔑の篭もった視線を、おちゃらけた様子で肩を竦めていなす。
「まあ俺は、恋敵に見えられただけでも収穫だと思っているよ」
 ふ、と緩んだ口元にもう一度カップが寄せられる。
「それより、本題に入ろう。今日は、別に修羅場を演じる気は無いんでね」
 糸も簡単に話題を転換するヴィエリは、言葉通りアーノンをベッドに誘うような真似はしなかった。
 事業に差し障り無い程度に、簡潔にアントニオとの仕事を説明してくれる。悔しいぐらいに。経営に疎いアーノンとニコルが質問を投げ掛ける必要も無いくらい完璧なそれに、強張った空気は一瞬で霧散した。
 時々自分の失敗談も面白く挟むヴィエリに、最初は居心地の悪そうだったニコルも興味深そうに食いつき、食事が運ばれてくる頃には二人は打ち解けていた。元来が気の良い二人であったから色恋を無しにしてしまえば馬が合ったのだろう。
 ニコルもアントニオとは既知の仲であったから、アーノンが言葉少なでも話題は次から次へと移り変わった。
 それでもやり手のヴィエリは小一時間で目的の情報を得たようだった。
「ありがとう。これで仕事が大分スムーズに進みそうだ」
 にこり、と顔形を崩すヴィエリに、ニコルも答える。
「いや、こっちこそ。楽しませてもらった」
 アーノンだけが不機嫌な仏頂面を晒している。既に空にしたワインボトルは三本にも上る。
「お前は昼間から何してんだか、全く」
 呆れ顔のニコルさえ疎ましく、アーノンは鼻で笑って席を立った。その足元に酔いの影響は無い。
「ちょっと電話してくる」
 別段用事など無いのだが、嘘彼氏とはいえ、そのニコルと恋敵である筈のヴィエリが意気投合してしまったから、アーノンとしては面白く無かったのだ。
 二人の返事も待たずさっさと個室を後にした。

 残された二人は目を合わせて肩を竦める。お互いに「しょうがないな」と呟き、その声が揃った事に苦笑する。
 そうして少しの沈黙の後、ヴィエリは組んだ足の上で指を組み直し、楽しそうに言った。
「本当のところ、君とアーノンは恋人では無いんだろう?」
 問い掛けの形を取りながらも、確信に満ちた声音。責めるでもなく柔らかな表情で、ひたとニコルを見つめる瞳にはただただ面白そうな色がある。
「……淡白ではあるが、一応は」
 迷った末、それでもニコルはアーノンの願いを取った。アーノンが言う程ヴィエリを厄介だとは感じなかったが、それでもあの青年があそこまで牙を剥くのには理由があるのだろう、と考えたのだ。出会った頃から年の何倍も落ち着いて、むしろ老獪ささえ持ったアーノンが、誰でもその口車で操ってしまうアーノンが、子供のように嫌悪を露にするだけの理由が、自分には話してくれないけれどあるのだろうと思えた。
「義理堅いね」
 けれどそんなニコルの思案さえ悟ったように、ヴィエリは相好を崩す。
 ニコルはそれには答えず、冷めたコーヒーに口をつけた。酸味だけが口に広がる。
「だが、一度でも彼を抱いてしまえば、君のように居られる筈が無い」
 これにも沈黙。視線をテーブルの上の、空の皿に固定する。
「十年ぶりに会った俺の欲望さえ再燃する程にね、アーノンの魅力を知ってしまえば惹きつけられて止まないものだ」
 恥ずかしげも無く言うヴィエリに、ニコルは苦笑する。一回りも違う子供とも言えそうな、しかも男相手に、そこまで素直な欲求を口に出来る所がある意味大物だ。
 それを初対面で、しかもノーマルな自分に臆面も無く告げてしまう度胸も。
 ニコルはまるで自分が惚気られているような気分になって、背中がむず痒くて仕様が無かった。顔を合わせて頷く事すら難しい衝動に、視線を横に逃がす。
 肯定するのも否定するのも可笑しい気がしてしまう。一応自分がアーノンの恋人という設定なのだから、恋敵であるヴィエリを窘めるくらいは許されそうなものなのに。
 「でも、あの子は今も孤独だね」
 けれど声の調子が変わった事に、思わず顔を上げてしまった。
 かち合ったヴィエリの瞳には、何とも言えない感情がある。劣情でもあり、憐憫でもあり、悲壮さも混じっている。あの子、と必要以上にアーノンを子供扱いするような言葉が気に掛かる。
「……孤独? あいつが?」
 アーノンとは連想つかない単語に、思わずニコルは首を傾げてしまう。
 あの華やかな外見に、寄り付く人間は男女共に多い。アーノンは何時だって人の中心に居る様な男だ。仕事場でも家でも、彼が孤独だと感じた事はニコルには一度だって無かった。
 孤独といえばジーノの代名詞だと思う。あとは狂犬クラウスも、多分にその色が濃い。
「ああ、孤独なのは彼自身というよりは彼の心だね」
「アーノンの、心?」
「まだ逃げてるんだなぁと思ってね」
 首肯して遠くを見るヴィエリに、ニコルはむっと顔を顰めた。
 今の今まで完璧に言葉を紡いでいてくれたのに、ここに来てさっぱり意味の分からない言葉になった。まるでニコルに理解させる気も無く、ただ確認するように呟いているだけの気配がする。
「何から逃げてるっていうんだ?」
「自分から」
 聞いてみればやはりちっとも意図の掴めない返答。それなのに爽やかに笑んでいるのだから、無性に腹立たしかった。
 最初に感じた違和感の理由が、何となく分かった。
 ニコルにとって初めから不思議だったのは、ヴィエリがニコルに対してちっとも敵対心を持っていない事だった。偽の恋人だと分かっているからだとしても、親密な様子を見せてもちっとも揺らがなかった。笑顔の仮面を被ってその下に嫉妬を隠しているという風でも無い。言葉通りアーノンに恋人が居ようが居まいが関係ないと、心から思っているような素振りが気に掛かる。彼の執着心を思えば異常だった。
 アーノンを抱きたい、と主張しながらも、実際はそんな素振りを見せないのだ。否、素振りは見せるのだろう。ただ露骨に欲情を向けてそれっぽい言葉を上せているだけで、直接的な手段を取らない。
 一体そこに何の意図があるのだろう。
「あんた、何がしたいんだ?」
 違和感が行き着くのはそこだった。
「何って?」
 ニコルの声音が初めて嫌悪の色を上せた。一応の恋人アーノンに対して、ヴィエリが劣情を覗かせても意にも介さなかった筈なのに、ヴィエリの歪さにやっと危機感を持ったのだろう。それが如実に分かる変化だった。
「アーノンをどうしたいんだよ」
 向けられる敵意に、ヴィエリは喉の奥で笑った。ニコルはアーノンにとっての恋人というより番犬のようだと思った。
 それが気に障ったのだろう、ニコルがテーブルを下から蹴り上げた。
 ガンっと狂暴な音がして、テーブルの上の皿が跳ねてぶつかり合う。倒れかけたワイングラスを落ち着いた様子で止めて、ヴィエリは笑いを深める。
「おやおや、物騒だね」
 個室の外に人の気配を感じて、ヴィエリは殊更明るい声で言った。
「すまない、よろけてしまってね。何でも無いから気にしないでくれ」
「お怪我はございませんか?」
「心配ない。下がってもらって結構だ」
 入り口の向こうから「かしこまりました」との返事があって、気配が遠くなる。
 それを見定めてから、ヴィエリの顔が再度ニコルに向き直った。
「見た目どおり血気盛んなようだね、君は」
 口元には変わらない笑み。ニコルの脅しめいた行動にちっとも動じていない。
「アーノンをどうしたいかって? 抱きたい、自分のものにしたい、一生この腕の中に閉じ込めたい。それ以外に何が?」
「あんたの行動と言葉が伴っているようには思えない」
「それはそうだね。望みと願いが別のものだから」
「……何がしたいんだよ」
 ヴィエリの言葉が、半分もニコルには理解出来ない。恐らくアーノンにも理解できていないはずだ。だからこそヴィエリとの再会にありえないくらい動揺を見せるアーノンが居るのだ。
 ヴィエリがアーノンをどうしたいかなんて、実の所ニコルにはどうだっていい。二人がくっつこうがくっつかまいが二人の間の事で、ニコルにとっては関知しない所の話だ。
 けれどヴィエリの存在がアーノンを苦しめるのなら、排除してやりたい。同じ職場で働く仲間として、息の合う友人として、そう思って行動するぐらいは許される筈だ。
「アーノンが昔と変わらず孤独だから、だから幸せになって欲しいと思っているんじゃないか」
「あんたがあいつを幸せに出来るっていうのか?」
 後から我に返れば滑稽な会話だったなと思う所だが、激昂していたニコルにとってはあずかり知らない事だった。
「出来ないだろう。アーノンは俺を全身全霊で嫌っているし」
 あっさりと告げるヴィエリに憂いは無い。
「俺も、そんなアーノンを幸せに出来ると言える程傲岸では無いな。勿論俺が彼を幸せに出来ればこれ以上無い事だ」
「ならあんた、何で今更あいつの前に現われた?」
「何度も言わせないでくれ。アーノンに幸せになって欲しいんだ。例え俺の手を必要としなくても」
「その末がこれなわけか」
 睨みあう様に、しばし二人の視線が交錯する。
 先に目を逸らしたのはヴィエリだった。大仰に肩を竦めて笑う。
「言っただろう。願いと望みは別なんだと」
 空気を和らげるように長く息を吐き出して、水差しに手を伸ばす。先程アーノンが頼んで用意させたものだった。透明な容器の中には四角い氷が浮かんでいる。それをニコルと自分のコップに注いで、二人は同時に喉を潤した。
「彼の幸せを願うのと同時、感じる欲望も捨てきれない」
 自嘲するようにして、ヴィエリの表情が歪んだ。
「アーノンを手に入れたいのは本当だ。でもそれ以上に、彼が今も孤独である事が辛い。その原因が自分達にあるから尚更、ね」
 だいの大人が泣きそうになっているのに、ニコルは絶句した。
 一体この男は何なのだろう。そんな疑問が浮かんでしまう。一体この男は、アーノンにとって何なのだろう。
 アーノンは昔の客と吐き捨てた。けれどそれだけでは無い様に思う。
 ニコルの目の前でもう一度自嘲して、ヴィエリは腕時計に目を落とした。それから個室の出入り口に視線をくれるが、アーノンはいっこうに帰ってくる様子が無い。ふぅとため息を漏らした後、立ち上がったヴィエリが伝票を片手に持ちながら歪な笑みを見せた。
「笑えるだろう? 俺の初恋は彼で、これ以上無い位に愛してた。それ以上に人を愛した事が無いから、今も独身なのさ」
 だから必要以上に執着しているのだ、と声無い言葉が聞こえた気がしてニコルは戸惑う。
 そのまま「ゆっくりしてってくれ」と退出していくヴィエリを、ただ見送ってしまった。

 アーノンが戻ったのはヴィエリが退席した直後だった。恐ろしく良いタイミングで戻ったアーノンは、ヴィエリの姿と共に伝票が消えている事に気付いても、それには言及しなかった。
 おそらく何所かで二人の様子を窺ってでも居たのだろう。
 ニコルの隣に戻るなり水差しからコップに水を移し、一気に飲み干す。
「電話は済んだのか」
 嫌味のつもりでニコルが言えば、アーノンは鼻を鳴らして、身体を背凭れに沈めた。
「まあね」
 悪びれない態度を返され、ため息が出てしまう。そうなのだ。これが片割れのルーカであったなら異様な程動揺するか不自然な言い訳をするのだろうが、アーノンという男はちっとも気にかけない。
 ちろり、と横目でニコルを見て、退屈そうに欠伸を漏らす。
「俺らも帰ろうぜ」
 ヴィエリの奢りだったからか、アーノンはたらふく飲んで食った。対してニコルはそれなりに留めた。大食らいである自分を自覚しているからこそ、腹八分目どころか三分目程度で終わらせてしまっていた。
 どうせならしっかり食事を取りたい気分なのだが、アーノンはすっかり帰る気満々で、すでに席を立ってしまっている。
 もう一度ため息をついてから、ニコルも立ち上がる。
 仕方ないので帰宅してから早い夕飯にでもするか、と疲れるだけで終わっていく休日を心中で嘆いた。



 アーノンを無事家まで送り自身のアパートに帰り着いてから、ニコルは帰りがけに買って来た食材を冷蔵庫に詰め込んだ。
 けれど料理をする気にもなれず、どっかりとソファに座り込んでしまう。
 もそもそと羽織っていた上着を脱いで、傍らに放る。
 缶ビールのプルタブを開けて、喉を湿らせてから大きく吐息を漏らす。
 今日は一体なんだったのだろう、と改めて思う。ヴィエリの様子を見る限り、ニコルという偽彼氏の存在など必要無かっただろう。アーノンがどんなシナリオを描いているのかはニコルにはさっぱり分からないが、ヴィエリの言を思い出せす程に、それがちっとも的を得ていない気がした。
 つまみのチーズを包みから出して口に放り込む。
 咀嚼しながら、思考の海に沈んでしまう。
 考えても仕方が無い事、自分には考え及ばない事、とは思いながらも、気になるのだからしょうがない。
 一度気になってしまえば、関わってしまえば、途中で放り投げる事が出来ない性分だった。
 アーノンにとってヴィエリは一体何なのだろう。
 ヴィエリにとってアーノンは、何なのだろう。
 考えても答えは出ない。自分は明らかに部外者で、二人の過去なんざ知りもしない。
 ただ、奇妙だなとは思う。
 ニコルはニコルなりに、事態を整理してみた。
 アーノンとルーカが幼少期に男娼をしていた、という事は、リストランテのスタッフ全員が知る事であり、当人も隠している様子は無い。今でさえ二人の恋人は男性であるのが常だし、人の性癖をどうこう言う程了見の狭い人間は周りに居なかった。あれだけの美貌の主だから、男女共に恋愛の対象にされてもさもありなん、で納得が出来てしまう。
 マフィアの子飼いとしてそんな生活を送っていた双子が、どうやってリストランテのオーナー、フレンツォとであったかという仔細をニコルは知らない。フレンツォが二人の客であった、という話では無いという認識はしている。大方彼の実家の事業で関わったのではないか、と思う。
 一応ロッティ家の養子、としてロッティの名を名乗る双子は、マフィアと縁を切ってフレンツォの支援を受けて義務教育を受けた後ソムリエ養成学校を卒業し、リストランテに勤めて今に至る。
 ヴィエリはアーノンが男娼をしていた頃の客、という。
 アーノンがあそこまでの嫌悪を見せるのは、別段珍しい事では無い。そりが合わない相手はとことんで、リストランテで働いている間は穏やかな笑顔を絶やさない彼が、そこを離れると豹変するのを知っている。嫌なものは嫌、嫌いなものは嫌い、自分を中心に世界が廻っているとでも思っているのではないかと不思議になるほど、唯我独尊的で我儘で、しかしそれが許容されてしまう程の魅力を持っている。
 ――話が脱線している事に気付いて、ニコルは咳払いで思考を戻した。
 そんなアーノンだからこそ、ヴィエリへの嫌悪はさもありなん。
 ニコルにとっては言う程酷い相手だとは思えなかったヴィエリだが、アーノンにとっては感ずる所があるのだろう。
 そんな相手が自分にありえない程の執着を見せ、何を言っても頓着しないとあれば不機嫌にもなるし煩わしいのだとは分かる。
 分かるのだが。
 常のアーノンであれば、それだからこそ、相手の望みを叶えて縁を切ろうとするのでは無いだろうか。
 過去に似たようなケースがあった。仕事中のアーノンの微笑みに釣られてストーカーと化した独身中年。気付けば物陰からそっとアーノンを見つめていたり、ロッティの屋敷に毎日のように薔薇の花束とカードを贈ってきたり、その頃アーノンと付き合っていた彼氏のアパートを深夜に訪れてはひたすらにピンポンダッシュを繰り返したり、盗撮した写真を肌身離さず持ち歩いていたり――半月程で堪忍袋が切れたアーノンは一月付き合う事を条件に話をつけた。アーノンに骨抜きにされた男はそれから程なくして飼い犬のように従順になり、一月付き合った後は彼の舎弟のようにアーノンの言う事を「はいはい」と言って聞くようになった。今でもアーノンが呼び出せば一にもニにも無くすっ飛んで、それこそアッシーだろうが喜んでこなすだろう。とはいえそいつは、アーノンが「俺の前に二度と顔を出すな。むしろ国を出て行け」という命令を忠実に守って、今は異国の地で暮らしているぐらいだ。
 そんなアーノンなのに、ヴィエリに対しては頑なな程、無意味な言動と行動を繰り返している、と思う。
 アーノンの態度などどこ吹く風であるのに、ただ感情を言葉にする。嫌いだ、近寄るな、寝るつもりは無い。そんな事を言ってもちっとも傷付く様子の無いヴィエリは、だからどうしたとそんな風で。
 アーノンに彼氏が居ようが、自分をどう思っていようが、ただアーノンが好きなのだと主張するヴィエリもヴィエリで良く分からない。
 好きだと言いながらアーノンの気持ちなど無視で、抱きたいといいながらそれでも無理矢理行動を起こすわけでもない。好きになってもらえないのは知っている、抱けないのは知っている、それでもただそれを言葉にして吐露する。
 気持ちが悪い程の執着心を持ちながらも、それがちっとも行動に反映していない。ではその執着心が見せ掛けかと言われれば、答えはノーだ。
 臆面も無く初恋だ、今でも愛しているのだと言うヴィエリ。
 アーノンが昔と変わらず孤独だから、幸せになって欲しい。そんなニコルにとっては不可思議な言動を吐いたヴィエリ。
 その二つに嘘は無かった。
 なのにそんなアーノンの現状を打破するのは、自分では無いのだと。
 そう言って自嘲したヴィエリは、では何がしたくて、アーノンの前に現われたというのだろう。
 ヴィエリの気持ちは分かった。
 けれどちっとも理解出来ないのだ。
 ニコルにとってアーノンはけして孤独でも不幸でもなかった。本人がそれを内に秘めているようにも思わない。
 ――ああ、そういえば。
 奇妙な事はもう一つあった。
 ニコルの頭の中で、昼間のヴィエリの言動が思い起こされる。
 アーノンが自分自身から逃げている、とそんな意味不明な事を言った後。
 確かヴィエリはこうも言ったのだ。
「その原因が、自分達にあるから尚更」
 ただの男娼と客である筈。それが何故そこまでアーノンの人生に関わる事があるのだろう。
 そして達、というからには、ヴィエリ以外に少なくとも一人、原因があるという事で。それが一体誰で、何があってそこまでの境地に達したのか。
 ヴィエリの知る過去に、何があったというのか。
 それはまるで喉に痞える魚の小骨のように、ニコルの関心を浚うのだ。けして消えない違和感となって、ニコルの心に巣食うのだ。
 ヴィエリの馬鹿な妄想だと、笑い飛ばしてしまえれば良かった。
 けれど彼の真剣な瞳が、翳った表情が、ただ奇妙な違和感としてニコルを苛む。
 一体自分は、何に巻き込まれているのだろう。
 温くなった缶ビールを両手で握り、ニコルはただ思考の闇に身を投じていた。






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2010/01/09