19 帰れ。



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5


 その日もアーノンは疲れていた。
 ヴィエリがリストランテに居座る数時間、彼の視線をどこかで意識しては精神が磨耗するのを感じていた。
 何故そこまで神経を逆撫でされるのかはアーノン自身にも分からない。
 分からないからこそ苛立ちは募る。
 だからこそ唯一、ヴィエリを忘れる事が出来る自室で過ごすプライベートの時間が、アーノンには何より大切に感じられた。
 目下の興味は車だ。ニコルのバイクに乗るようになってから、あの風を切る感覚の虜だった。街の喧騒、乱立するビルの間を通り過ぎ、目の前が開けた瞬間――何処までだって行けるような開放感は、何よりも得難いものだった。ただもっとゆったりと寛げる空間が好ましく、オープンカーなんて良いのではないかと考えている。
 それに乗って休日に遠出するのも悪く無い。
 まずは運転免許を取得するのが先とはいえ、ベッドに潜り込んで車雑誌を覗き込んで妄想に耽っていると、疲弊した心が慰められる気がするのだった。

 だから、そんな時間をぶち壊すように鳴動する携帯電話は、気もそぞろなままで応じてしまった。
 それこそ、ディスプレイで相手を確認する事もせぬまま――。



 最近のアーノンはすこぶる不機嫌で、その原因をビアンコのスタッフは全員知っていた。
 元々満面に笑顔を浮かべているような青年では無いものの、話しかけにくいと感じられた事は無い。それなのに今のアーノンときたら始終眉間に皺を刻み、人を射殺せそうな程鋭い眼光を放っている。
 仕事中は完璧なソムリエの顔を崩さないからこそそのギャップが恐ろしい。
 触らぬ神に祟りなし、と誰もがアーノンを避ける中、空気を読まないのはルーカだけ。

 その日恋人のアパートから直接出勤したルーカは、スタッフルームで着替えているアーノンを見つけるなり、その仏頂面をからかった。
(あぁ、またアーノンの怒鳴り声が木霊するのだろうなぁ)
とスタッフが内心でため息を――つこうとして、鈍い音とルーカのくぐもった悲鳴にその動作を完全に止めた。
 がしゃん、と身体ごとロッカーに激突したルーカの向かいで、アーノンが握り拳を震わせている。
 ずるり、と崩れるルーカが頬を押さえて蹲った。
「いっつー……」
 静まり帰ったロッカールーム。
 着替え途中で目を見開いたままのスタッフが、唯一認識した事といえば、アーノンがルーカを殴ったのだという事だけだ。
 ただ何時も通り、浅はかなルーカが、アーノンの逆鱗に触れた。
 そんな事は今まで幾度と無くあったけれど、アーノンが手を出した事は一度としてない。
 軽く小突くだとか、叩くという事はあったとしても、こんなにも容赦の無い一撃を与えているのは見た事が無い。
 例えば深夜の裏通り、飲み屋の界隈でチンピラ相手に拳を振るうアーノンは見た事があったとしても、アーノンの拳は弱者には向けられない。
 リストランテの中でも最弱のルーカである。
 片割れと違って喧嘩に巻き込まれようものなら、逃げ出すか泣き出すような男である。
 そんなルーカに呆れながらも、疎む素振りを見せながらも、どこまでも仲の良い双子である。
 呻くルーカを見ても、ルーカの歯にでも当ったのか血の滲むアーノンの拳を見ても、とても信じられない事実がそこにあった。

「何の音ですか?」

 静寂を破ったのは、剣呑な音を聞き付けたオット・ダントーニだった。
 とっくの昔に着替え終え、オーナールームでフレンツォと打ち合わせでもしていたのだろう男は、ロッカールームの内側を覗き込むなり顔形を歪めた。
 細いフレーム眼鏡の奥の双眸が、冷たく光る。
「何をしているんです」
 後手にロッカールームのドアを閉め、真っ直ぐに双子に向かっていく長い足。その靴は綺麗に磨きこまれている。
 カツカツ、と響く足音に、そっとルーカが顔をあげると、その男はすぐそこまで迫っていた。
「あの!!――つっ」
 弁解の為か声を上げたルーカだったが、痛みの為に言葉が続かない。
 オットの視線は益々険しくなり、今度は真っ直ぐにアーノンに向けて問い掛ける。
「何をしているのかと聞いてるんです」
 オットというのは名門貴族の長子として、人の上に立つ貫禄を持った男である。静かに紡がれる言葉の中に底冷えするような色を称え、けして無視出来ない響でもって答えを要求している。
 対するアーノンは怒りに燃える顔を拒絶の意味で逸らす。唇を噛み締めたまま、口を開く気配は無い。
 その沈黙下が何よりも恐ろしく、残ったスタッフは動くことさえ出来ない。
 それでもオットに続いてやってきたジーノ・デ・シーカだけは、そんな空気を物ともせずルーカに駆け寄って濡れタオルを手渡している。
 それをアーノンは横目に視認する。
「アーノン」
 呼ばれて無視できず、アーノンは瞳をオットに向けた。
 オットの深いエメラレルドの瞳が、細められる。冗談を解さない生真面目な男の無機質な顔の中、瞳だけが雄弁に物を語っている。けして事態を軽んじていない、曖昧に逃がしはしない、そんな意志が篭もっていた。
「……ただの兄弟喧嘩だよ」
 硬い声音で吐き出したアーノンが、くっと喉元で笑った。
 脅える色も悪びれる様子もなく、不遜に顎を持ち上げる。
「あんた達兄弟だって良く喧嘩するだろ? 大した事じゃねぇだろうが」
「職場で殴り合いの兄弟喧嘩が大した事無いと?」
 オットの周りの空気だけが、冷気を帯びる。見ている者の方が身震いしてしまう程の、怒気が満ちる。
 もう一度喉で笑ったアーノンの瞳は、宝石のように美しかった。
「ああ」
 アーノンが淀みも無く頷いた瞬間、その頬にオットの張り手が飛んだ。
 スタッフは三度目を剥く事になった。
 厳しい事で知れたカメリエーレ長ではあるが、オット・ダントーニという人間はけして拳でものを語る事をしない。狂犬とあだ名される用心棒とは犬猿の仲ではあったが、彼とも拳を交えるという事は聞いた事が無い。
 しん、と静まり返った室内では衣擦れの音さえ潜んでいた。
 はたかれた本人さえ呆然とする中、オットは何事も無かった顔で辺りに視線を巡らせる。それから腕時計に目を落とすと跡が残りそうな程強く、眉間を顰めた。
「何をしてるんです。早く着替えないと始業に間に合いませんよ」
 けして語調が強い、というわけでもないのに、底冷えする冷気でもって瞬時にスタッフの時計の針が動き出す。まだ充分開店には間に合うが、始業という意味では確かに余裕は無い。
 それぞれが準備を再開する中、双子はロッカーに寄り添うようにしてオットを見上げていた。
 ちろり、とオットがまずルーカを睥睨する。
「ルーカは今日は店に出ないで下さい。顔を冷やして落ち着いたら、裏方を手伝ってもらいましょう」
はい、と小さな声で返事が返る。
 続いてオットはアーノンにも視線をやったが、その不貞腐れたようなアーノンの表情にわざとらしいため息をつく。
「アーノンは帰りなさい。しばらく来なくてよろしい」
 これにはアーノン以上に、いまだに耳を欹てていたスタッフが驚いた。ルーカも店に出ないのに、アーノンが帰って店が回るのか、という話しである。
 そんな単純な事を冷血マシンなどとあだなされるオットが気づかない筈も無い、と分かっているものの、本能的に驚いてしまったのだろう。オットは再度彼らを急かすように一睨みを効かせて、
「こちらから追って連絡をするまで、せいぜい頭を冷やしなさい」
 憎憎しげに唇をかみ締めているアーノンに、そう宣告した。
「……ソムリエは、どうすんだよ……っ」
「今日は私が。しばらくはジーノと二人で手伝いましょう」
 当然の指摘もあっさりと弾き返すオットが傍らのジーノに承諾を取ると、二人ともソムリエ業は専門外であるのに特別動揺を見せない。
 それがいきり立つアーノンの憤慨を深めた。
「なめんな! そんな一朝一夕で勤まる仕事じゃねぇぞっ!!」
 そしてこれにも、さも当然と頷くオットだ。
「そんな事は分かっています。けれど今の貴方よりはマシでしょうね」
「なんだとっ!」
「迷惑だと言っているんです。いいから、さっさと帰りなさい」
 憎悪すら宿る深海の色の瞳は、えもしれず美しい。けれどそんな感想を浮かばせるオットではない。どんなに長い事見つめ合おうが、アーノンの虜にはなりえない。
 退路を開ける様に数歩横にずれたオットは、それでも動き出さないアーノンに酷薄な笑みを浮かべて見せた。
「……もう一度言わなければ、分かりませんか?」
 侮蔑の篭ったそれに、アーノンはロッカーから荷物を引っ張り出すと、力任せに閉じ、着替え途中の格好のままで部屋を飛び出て行った。
 一体何が直接な原因なのか判明しない間に、アーノンの処遇が決まってしまった。それも、一番面倒にこじれた状態になってしまった。
 けれど戸惑いの視線を一身に受けても、オットは揺るがない。
「聞いた通りです。質問は受け付けません」
 それだけ言い置いて踵を返すオットは、既にいつもの鉄仮面だった。



 スタッフルームで何か騒ぎがあったらしい、というのは何となく知れはしたが、ニコルは手を止める事はなかった。自分は厨房で仕込みの最中であるし、他の事に手を煩わせている場合ではない――という以上に、普段からスタッフ同士の揉め事等にはノータッチなのだ。
 その辺りは温和なジーノが仲裁に入るか、オットが有無を言わさず解決を図るか、でうまく回っているようである。元来おおざっぱな自分には向かない事柄であるから、何か騒ぎがあった所でニコルを引きずっていくような輩も皆無だった。
 しばらくして何時も通り静まった様子だったから、何の感慨も持たなかった。
 ――のだが。
「ニコル、手が空きますか?」
 オットが常日頃以上に冷気を纏って厨房にやって来たので、ニコルは思わず怪訝そうに首を傾げた。
「いや、何だよ……」
「手が空くのかどうか聞いてるんですが」
「――ニコルさん、こっちはオレが様子見ますよ」
 オットのあまりの態度に、スーシェフ・ジャンカルロが思わずといった感じで間に入ってくれる。
「ありがとう、時間は長く取りません。何かあればオーナールームまでお願いしますよ」
 ニコルの返事も待たず、そう言って踵を返すオットの背後で、ニコルとジャンカルロが目配せをする。
 オーナールームなんて打ち合わせの時くらいしか入らないものだが――先程の騒ぎがシェフにまで影響するのか?
 とは言え恐らく今のオットはその質問には答えてくれないだろう。そう結論づけて、ニコルは帽子を脱ぎながら項を掻く。
「あー、じゃあ……任せたわ」
「了解っす」
 頼りがいのあるスーシェフに後を任せ、数秒遅れてニコルもオットに続いて厨房を出て行った。

 数秒遅れて厨房を出たというのに、オットの姿はそこには無かった。足早に廊下を通り、スタッフルームに入れば、着替えを終えたのだろうスタッフが気まずげに佇んでいる。何時もは馬鹿みたいに騒いでいるスタッフが、手持ち無沙汰にうろついているのは滑稽にも映る。
 何時も通りを装いながらも、意識はオーナールームに向かっているようだ。
 一体何事だ、と不穏な雰囲気を感じながらも、ニコルはオーナールームをノックする。
 すぐに内側から戸を開けてくれるのはオットだ。
 顔を傾げて中に入るよう促しているオットの向こうに、執務机に腰掛けたフレンツォが苦笑している。
「忙しいとこ悪いわね。座って」
 ソーサとカップを持ちながら、言うフレンツォもソファへと移動して来た。向いのソファにニコルがかけると、その隣にオットも座る。
「いや……何かあったのか?」
 ふうと一息ついて、実はねと切り出したフレンツォの話に人事と耳を傾けていたニコルだったが、話の内容にすぐに表情を曇らせる事になった。
「あー……」
 何と応じていいものか、思案気に項を掻きながらオットとフレンツォを見比べる。
 掻い摘んだ話の内容は、勿論スタッフルームでの騒動の事。仕事での面倒事でもニコルに対して云々という話ではなかったのには安堵したものの。
 何だかんだと言いながらも仲の良い双子が常に無い激しい喧嘩をした。原因はスタッフには想像もつかない事。リストランテのムードメーカーたる二人が喧嘩なんて困ったものだ、で終われば話は早い。
 ただアーノンは役職こそないものの、スタッフの中では長を張るオットとニコルの次席のような存在なのである。役職であればスーシェフであるジャンカルロ、カメリエーレのチーフであるジーノよりも決定権があり、彼の目は1スタッフとして以上のものを見る。何かあればまずアーノンに相談しろ、というのがスタッフ内の暗黙の了解であり真実だった。
 だからこそそのアーノンが問題行動を犯し、しかもそれが無期限休職、という判断を下されたというのは、大きな問題だった。
 プライベートをけして仕事に持ち込まないアーノンが、それすら覆してしまう程に感じている精神的なストレスを知っているニコルとしては、何と応じていいのかさっぱり分からない。
「ルーカは……」
 結局言えた事はそれだけだった。
「あの子はジーノが見ているわ。まあすぐに回復してくれるでしょう」
「……だな」
 結局曖昧に頷くだけで、気まずい空気を払拭できず、ニコルは落ちつかな気に足を組み替えた。
 聞かれてもいないのにアーノンの事情をぺらぺら話す事も出来ず、アーノンの気持ちを慮っても話す気になれなかった。
 最もある程度の事情は既に知っているだろうと思う。
 最近のアーノンの不機嫌は周知の事で、それを放置しておくオットでは無いからだ。それが業務に異常をきたそうがきたすまいが、杞憂は根こそぎ払拭しておく、というのがオットだ。そしてそれはそのまま、上司であるフレンツォに報告される。
 であればニコルが話す事はない。聞くに任せるだけだった。
「全く、世話の焼ける……」
「まあそう言わないで、オット。ワタシとしてはあの子の癇癪は可愛いものよ」
「オーナーは甘やかし過ぎですよ。だから何時までも子供のままなんです」
 厳格なオットとどこまでも懐の深いフレンツォの言葉。
「あら、そんな事ないわよ。アーノンは全然甘えてくれないもの」
 双子の幼い頃、暗黒時代までもを知る彼らの保護者は、まるで弟のように双子を語る。最もフレンツォにとってスタッフは等しく、家族のような扱いではあるのだが。
 オットの深いため息すら笑って流して、フレンツォは言う。
「なんにせよ、貴方に苦労をかけて申し訳ないとは思うわ」
「まあ良い機会でしょう。アーノンはただ休めと言っても聞かないでしょうからね。最近の彼は余裕が無さ過ぎて、ミスが過ぎる」
 迷惑だ、という感情を隠しもしないオットにニコルはと言えば苦笑いを浮かべるだけで、収束に向かいつつある会話に自分は一体何の為に呼ばれたのだろう、と俄かに疑問に感じるだけだった。
 明日からしばらくホールの体制が変る、といっても、それはニコルらシェフ陣には影響がないのである。基本的にソムリエは料理の注文を受けないし、自身で地下のワインクーラからワインの用意をする。シェフと彼らが関わるとすれば、休憩が一緒になった時ぐらいのものだ。
 ということはただ単に報告だったのだろうか、と、さして何を聞いてくるでも無いフレンツォとオットの顔を窺い見た。
 スタッフの管理やシフトの調節はニコルには管轄外だし、そういった話に切り替わっている所を見ると、自分は既に用無しではないだろうか。
 であれば、自分の陣地に戻りたいものである。
「ああ、それで」
 ニコルが退出のタイミングを窺っていると、オットが思い出したように顔を向けた。眼鏡の奥、生真面目な瞳が光る。
「謹慎とは命じましたが、そう長い事アーノンの不在は容認出来ません。貴方は彼の事情に明るいようですから、アレを早急にマトモにして下さい」
「……は?」
「さっさと問題を取り除いて下さい。面倒は御免です」
 何とも勝手な物言いだが、どこまでもオットらしい、と思ってしまう。
 ニコル自身アーノンに巻き込まれているだけで、別に好き好んで彼の問題に関わっているわけではない。要はアーノンの不調の原因であるヴィエリを排除しろ、という事だが、それが簡単に出来ていれば苦労はしていない。というより、自分に何が出来るというのか。
 強張るニコルの表情を見て、フレンツォは申し訳無さそうに「ごめんね」と呟いたが、それだけだった。
「話は終わりです」
 反目は許さない、という態で締めくくったオットに、結局ニコルは素気無く追い出されてしまった――。






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2010/05/29