19 帰れ。



primo.02




3


 戦う、と決めたからといってすぐに何が出来るわけでもなく、結局の所アーノンには、ヴィエリの誘いを素気無く拒絶して、彼と関わる機会を減らす努力をするくらいだった。
 そうはいっても客として【ビアンコ】に来店されれば、ソムリエとして誰彼隔てなく接客するしかなく、逆に仕事外で纏わりつかれれば口汚く対応するだけ。
 そんな風な日々が続くと、アーノンのストレスは溜まる一方だった。
 それでもヴィエリの誘いをひたすら断り続けて来たというのに――。
 この日、アーノンは、ついにヴィエリの呼び出しに応えた。応えざるを得なかった。
 勿論、断る口実は幾らだってあった。
「今回の仕事の事で、ぜひアーノンの意見が聞きたい」
と持ち出され、にこやかに対応したのは仕事中であったから。
「アントニオさんとのお仕事? 僕なんかじゃ役に立ちませんよ」
 大恩あるロッティ家を話に出されては、何時もの調子で突っぱねるわけにも行かなかった。
「だからこそ良いんだ。逆に何も知らない、一般の意見が知りたいのだからね」
 グラスにワインを告ぎながら、アーノンは控えめな態で、それでも断固拒絶の姿勢を続けた。
「それこそ、教養も無い上に世間知らずな僕には、大事です。うちのスタッフは優秀な者揃いですから、ぜひ彼らを紹介したいな」
「あり難い申し出だが、気兼ね無いという意味でも、信用が置けるという意味でも――アーノンが一番適切だと俺は思うんでね」
「買い被り過ぎです」
「どうかな? お前なら万が一でも、情報が漏洩する心配は無いだろう?」
 アントニオが経営するヴェラニチオ・グループの新事業に関しては、世間にもまだ公表されていない。仕事相手に不動産・建造業のヴィエリの会社を指名するくらいだから、ある程度の予想は出来たとしても。
 ロッティ家にとって大事な情報となれば、アーノンが漏らす心配は確かに一分も無い。
 外堀を固め始めたヴィエリに、アーノンは返す言葉に窮した。
「それに、アントニオ・ロッティを良く知るお前だからこそ、ぜひ話が聞きたい。……ルーカでもいいんだが、彼から適当な返しが来るとは思えない。それはお前自身が良く分かっているだろうけど」
「それならうちのオーナーの方がよろしいんじゃ? 彼はアントニオさんの弟ですし」
「ご多忙な彼の手を煩わす程でもなくてね」
 さて、どこかに逃げる糸口は無いものか。心中で思考を重ねながら、店内に視線を這わせる。どこかで客でもスタッフでも自分を呼んでくれれば良い――そんな期待は、人も疎らな昼過ぎの店内で敢え無く萎んだ。
「数時間、付き合ってくれるだけで良い。何なら、誰か友人と一緒でも構わないぞ」
「……分かりました」
 結局そうして、次の休日に約束を取り付けられてしまった。



-----------------



 約束の休日、アーノンは不機嫌な顔で午前中からやって来たニコルを出迎えた。
 ――やって来たのは、【ビアンコ】のシェフ長・ニコルである。ヴィエリでは無い。
 アーノンの部屋はフレンツォの屋敷の一角にあり、バスもトイレもあればベッドルームとリビングが別というような豪華な間取りはニコルのアパートにも匹敵する。そんな部屋が二階には七つ程あって、その中の幾つかは同じように同僚に割り振られている状態だ。慣れない人間は確実に迷う。
 しかし案内も無くアーノンの部屋を訪問出来る程度には、ニコルはこの屋敷に慣れていた。
 寝起き顔のアーノンはノックに応じて扉を開けた後、ニコルの顔を見て数秒固まった。
「……ああ、俺が呼んだんだっけ」
 訝しげにニコルを観察した後、思い出したように眉根を上げたアーノンにニコルは苦笑する。
「せっかくの休日を返上してやってんのに、その態度かよ」
「わりぃ」
 アーノンがちっとも悪びれない風情で部屋に迎え入れると、ニコルはお気に入りの黒いライダースジャケットを脱ぎながらソファに凭れた。
 ヴィエリとは午後、昼食を取る予定の店で待ち合わせをしている。迎えを寄越すなどと言われたが言語道断だ。だからヴィエリがやって来ないのは分かり切っていた。
 けれどニコルの訪問を失念したのは、恐らく今日という日から無意識の逃走を試みていたからだろう。
 友人を連れて来て良い、と言われて浮かんだ顔は幾つかあったが、事情を知っていて一番波風立たないと信頼出来る相手はニコル一人だった。誘いの当日午後から半休であったニコルに即行で連絡を取り、「次の休み、午後から空けておいて」と事情も告げずにのたまったのは記憶に新しい。
 仕事上がりにニコルのアパートへ直行するとだけ伝えておいたら、上がりの時間を見計らってバイクの迎えがあったのがその日唯一のラッキーだった。
 それからヴィエリとの昼食に付き合う事を承諾させ、ついでに口裏を合わせる為に本日午前中からニコルを呼び出していたのは、アーノン本人だったのだが。
 当の本人はそんな事さえ忘れ去り、今の今まで寝ていたというのだから――。
「いいご身分だよな、全く」
 思わずニコルの唇からも非難が飛び出る。
 しかしアーノンの方は聞いているのかいないのか――聞いていた上で無視した確率が一番高いが、何処吹く顔でバスへと引っ込んだ。
 数秒の水音の後、タオルを首から引っ掛けたアーノンはびしょびしょの髪で戻ってくる。
「色々考えたんだけど」
 真新しいタオルで濡れそぼった髪から水分をふき取り、軽く手櫛で梳くだけで見事なまでに輝く銀髪。寝ぼけ眼など無かったように、上げた顔は清々しい。最も眉間の皺はマックスだったが。
「うん?」
 テーブルの上に無造作に置かれたファッション雑誌に手を出しながら、ニコルは先を促す。
「ニコル、あんた俺の彼氏って事にしといて」
「はぁ!?」
 捲った雑誌を思わず取り落として、ニコルは顔を上げた。
 不機嫌に顔を歪ませたアーノンが、何か文句があるとでも言いたげに顎を逸らす。
「何だ、それ。意味分かんねーぞ!!」
昼食に付き合うだけじゃねぇのかよ、と最もな主張を吐くと、更に胡乱な視線がニコルを襲った。なんで睨まれるんだと心中で毒づきながらも、視線に篭る悪辣な雰囲気に怯んだ。けして恐いという事は無いが、マフィアとつるんでいた時代を覗かせる荒んだそれに若干引いた。
「それが一番手っ取り早い」
「それで諦める相手じゃねぇんだろっ!?」
「予防にはなる」
 アーノンは言いながらニコルの前のガラスのテーブルに腰掛けた。
「それにその方が後のプランを立てやすい。ようは保険だ。後から実は男が居ますって言って誰が信じるんだ?」
「プランって何考えてんだよ」
「色々。いいじゃん、今女居ないんだろ?」
「それとこれとは別だっ!!」
「名前借りるだけで、悪くはしないよ。それに、嘘でも俺様と付き合えるんだ、もっと喜びなよ」
「喜べるかっ!!」
 静かに言葉を紡ぐアーノンとは対照的に、ニコルはキャンキャンと吼える犬のようだった。それも鈍重にも見える大型犬だ。
「……協力するって、言ったよな?」
「だからって……」
「あいつだって、わざわざそれを言いふらす様な真似はしない。俺とあんたと、ヴィエリの野郎だけの間の事だ」
 宥めるようでありながら、けして自分が退く事はない、という口振りだった。どうにかしてニコルを陥落させるのは目に見えている。ニコルがアーノンに口で勝てたためしが無い。
「……」
 何より、見つめてくる強い眼差し。
「……分かったよ」
 苦々しく呟く事しか許されない空気に、ニコルは溜息交じりに答えた。
 その瞬間、アーノンの表情が僅かに緩んだ。
「サンキュ」
 簡潔な言葉で、唇だけで微かに笑む。数多を虜にする美貌は、今日も健在だった。
 それから幾つか口裏合わせを考えて、アーノンは着替えの為に寝室へと引っ込む。
 緩慢な動作で着替えながら、ニコルの言葉を反芻した。
”それで諦める相手じゃねぇんだろ”
 恐らくその通り。最初からアーノンに相手がいるかどうかなどお構いなしの態で誘って来た男だし、その程度で怯むようなら最初から会いに来て等居ないだろう。
 本気でアーノンを手に入れたいのなら、一番手っ取り早いのはアーノンを脅す事な筈だ。アーノン自身には痛手でも何でも無い過去だが、例えば今、万が一そんな噂でも立とうものなら打撃を受ける相手が身近にいる。リストランテが雑誌に載って繁盛して、そのスタッフである美貌の双子ソムリエも話題を独占しているような時期だ。二人を含む見目麗しいスタッフ目当てで訪れる客だって後を絶たない。そんな中でアーノンが男娼をしていたとかゲイだなどと言う事が取り上げられれば、客足に影響が出る。そしてその相手をリストランテのスタッフだと邪推するような者も居るだろうし、もしアントニオに矛でも向いたら新事業への自粛だって必要かもしれない。
 そんな風な手を取ってくれた方が、アーノンにとってもヴィエリを完全に叩き潰す機会にでもなるのだが。
 どちらにせよロッティ家に迷惑がかかる。
 ヴィエリの意図は全く掴めないが、だからこそ尚更、アーノンには保険が必要だった。
 ヴィエリに対抗するプランは多いに越したことが無い。そしてその一端として、自分には恋人が必要だった。
 最も仔細などニコルに説明してやるつもりも無いのだが。
 そんな事を思いながら着替えを済まし、全身を鏡に移して格好を確かめる。
「こんなもんだろ」
 ニコルに合わせてラフな装いにしたのもプランの一環だ。
 白のティーシャツに、絵の具をぶっちゃけたような模様のロック調の黒革ベスト。ベストはニコルのライダースに合わせた。細身のネイビーブルーのジーンズに、春物のブーツ。シルバーアクセを身につけて、腕時計だけブランド物で品を良くして。
 ヴィエリの指定した場所はオフィス街の一角だ。当然ラフな二人は不似合いでしかないがそれが狙いだった。
「お待たせ」
「んーじゃ、行くか」
 時間潰しに見ていたのだろう、ニコルの趣味ではない雑誌を元の位置に戻して、ニコルは立ち上がった。
 それからアーノンの格好を確認して、どうやら意図を悟ったようだった。約束の店は聞いていたから「ラフな服で来て」と言われて不思議に思ったのだが、アーノンの服装を見るからして二人して浮くつもり満々なのだろう。ビジネスシーンで使われるちょっとばかり格式高いレストランで、ヴィエリとアーノンの組み合わせよりニコルとアーノンの組み合わせの方がより印象に残る。
「そういう事なら、俺の今日のプレゼントは正解かな?」
「は?」
 何やら不可思議な事を呟いたニコルに怪訝な瞳を向けると、ニコルは見てのお楽しみと何やら面白そうに笑った。



-----------------



 待ち合わせのレストランの駐車場に、オフィス街には不釣合いなバイクを止めると、律儀にレストランの前で待っていたヴィエリは少しだけ眉根を上げた。
 迎えに来るという申し出に「足があるから」と返したものの、まさかバイクに二人乗りして来るとは思わなかったのだろう。そして二人の格好にも。
 一瞬呆気に取られたように腕を上げかけた動作で止まったヴィエリが、アーノンには滑稽で面白かった。
 アーノンは長い足を地に着けると外したヘルメットを手首で弄びながら、ヴィエリに近付いた。同じようにヘルメットを小脇に抱えたニコルが一歩後をついてくる。
 アーノン専用にとニコルが今しがたプレゼントしてくれたヘルメットは、シルバーに黒いシャムネコ風のシルエットが入ったニコルのそれと同じ、黒地に白いシャムネコシルエットだ。つまりはお揃い、というヤツである。何かこだわりがあるらしいニコルは、ヘルメットの模様にこだわった末結局自分のものと同じように特注してくれたようだ。バイクの外観に似合うのはこれしかない、という事のようである。
 お揃い、というのは実に気恥ずかしいものだったが、今まさに恋人を装おうとするアーノンとニコルには願っても無いアイテムだった。
 ヘルメットを見せつける様にしながらヴィエリに手を振るアーノンは、上機嫌だ。
「待たせたな」
「いや、そんな事はないよ。彼は――ビアンコのメインシェフだね?」
「そうだよ」
 ヴィエリの視線に合わせて背後を振り返ると、ニコルは頷いて。
「どうも、ニコル・ラウロだ」
 差し出した右手にヴィエリが笑顔で応えた。
 一度リストランテで顔を合わせた事のある二人だが、その時は客であるヴィエリに料理の腕を大絶賛されたシェフ長という立場だった。店では仏頂面の堅物シェフというイメージが強いニコルは、その時は二言三言返しただけだった。
 ダークスーツ姿のヴィエリに促されて、三人はすぐに店に入った。
 人目を引く三人組に一斉に視線が集まるが、何時もの事である。ほとんどの視線はアーノンに固定されたが、ヴィエリもニコルも見目は悪く無い。若干年がいっているが、ヴィエリは出来る大人というエリート風の雰囲気が備わって、それが魅力になっているのだろう。愛嬌がある垂れ気味の目尻と何時も笑みを佩く口元には軟派な印象があるが、年相応に刻まれた皺がその顔形を引き締めてみせる。ニコルはと言えば、まず人目を引くのがその屈強なガタイである。太い首の上の顔は厳しいが整っていて、彫の深い顔形の中に赤銅色の瞳がある。短く刈り込まれた柳色の短髪が形のいい頭蓋を露にしている。生命力溢れる、スポーツ選手のそれのように溌剌とした印象と魅力を持つ。
 どこもかしこも共通点が無いような三人は、ヴィエリが予約していた個室へと案内されるまで店内の視線を一身に集めていた。

「好きなものを頼むといい。――酒は?」
「俺は運転なんで」
「俺は貰う」
 席につくなり言われ、メニューを見ながらニコルとアーノンは順に答えた。昼間から?という剣呑な視線をニコルにくらいながらも、アーノンはだからと言いたげに隣に目線をやり、すぐにメニューに戻した。
 正午まもない時間からでも、飲まなければやっていられない。そういう相手と相対しているのだ。
 アーノンもニコルも、食事を決めるのは早い方だ。これと決めたら迷わない。
 ヴィエリはこの後にまだ仕事があるというので、アーノンだけボトルワインを頼んだ。値段は気にせず、普段であればけして頼まない高額商品で選ぶ。
 そして、敵情視察も忘れない。この場合、敵と呼ぶのはおかしいかもしれないが、
「あの給仕は駄目だな。首から頭下げやがった」
 一礼してスタッフが去った後、アーノンは鼻を鳴らしながら水を口に含んだ。
「……氷多いし」
 そのコップの中も、これでは水なのか氷なのか分からない。暑い季節ならまだしも、ここまでキンキンに冷やす必要もなければ、これではすぐに水の方がなくなってしまう。その度に給仕を呼寄せるシステムとしては、あまりにお粗末だ。三つぐらいでベストなのに、これでは倍以上ある。
「新人なんじゃねぇの?」
 苦笑するニコルに首を振る。
「靴の磨り減り方は三ヶ月は経ってる」
 店用に支給されている靴だという事は他のスタッフと同一のものの時点で知れている。彼の歩き方で見れば半年は従事しているだろう。
 細かい、とニコルが呟いた。
 ソムリエと言えど、ホールで働く者としては当然だろう。そう思いながらニコルを睨むと、ヴィエリが可笑しそうに咳払いした。
「アーノンがここのオーナーだったら、彼は今頃ここに居ないだろうね」
「俺だったら一ヶ月でマシにしてやってるよ」
 もう一度水を飲んでしまえば空になってしまった。
 来店してから五分の間に、またスタッフを呼ぶ羽目になる。
 しかも個室であるから、部屋を隔てる出入り口にはカーテンが引かれていてスタッフが何処にいるかも分からない。呼び鈴も無い。
 商談で使われるような店だとしたら、それこそ水差しの用意は必須だろうに。
「お前、休みの日くらい細かい事気にすんなよ。大体お前がカリカリしたところでここのシステムが変わるワケでなし」
「……分かってるよ」
 苦笑しながらも自分のコップを差し出してくれるニコルからコップをもぎ取って、アーノンは嘆息した。
 その様子をにこにこと笑顔を浮かべたヴィエリが眺めている。
「しかし意外な取り合わせだな」
「何が?」
「アーノンと、ニコルが、だ。年は結構離れてるだろ?」
「まあね、でも趣味とか話合うから」
 待ってましたとばかりに、アーノンは言葉を繋いだ。どこで二人の関係を暴露してやろうかと考えていたので、それこそいい切欠だ。
 ニコルは明後日の方向に視線を逃がし、あえて会話には入って来ない。
「それに俺がこういう武骨なの、タイプって知ってるだろ?」
「うん?」
「つまり、ニコルは俺の彼氏って事」
何食わぬ顔をしながらチロリとヴィエリに視線をくれてやると、予想通りヴィエリの表情は一瞬も変わらなかった。






BACK  NEXT

2009/04/22