19 帰れ。



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 一人先に着替えていたアーノンは、ぞろぞろと帰宅準備をするスタッフでざわついたロッカールームで優雅にコーヒーを啜っていた。
 今日はジーノの運転で出勤したルーカ、イジョールとの三人はジーノを待って一緒に帰る筈が、全員が着替えを終えても一向に立ち上がる気配を見せない。
 ルーカがお気に入りの毛糸の帽子を被りながら、
「帰るよー?」
と声をかけても、気の無い様子で顔を上げただけだ。
 そこにようやく仕事を終えたキッチンスタッフが並んで入ってくる。シェフは翌日の仕込みがあるので大抵最後の帰宅となるが、休日前とあって今日の上がりは大分早い。
 ジャンカルロを筆頭に疲れた様相のシェフの最後尾は、大柄ななシェフ長ニコルだ。
 ニコルは片手で首を揉みながら、入り口付近に待機しているルーカ等三人を横目で見て「お疲れ」と言った。それからソファに掛けたままのアーノンと、なんとはなしに視線を合わせる。
 そのまますぐに視線は逸れる筈だった。
「今日ニコルんとこ泊るから、ルーカ達帰っていいよ」
「――はいぃ?」
 しかしどういう経緯あってかそう語られるに至って、通り過ぎ様のニコルが大きく反転した。
 チョコレイト色の瞳を大きく見開くニコルにひたと視線を合わせて、アーノンは不機嫌に眉根を寄せた。
「何だよ、どうせ予定無いだろ?」
「どうせって――いや、ねぇけどよ」
「じゃ、いいじゃん」
 遊びに行く暇もねぇんだよ、と以外に多忙なシェフ長の身分を弁明しているニコルを無視して、アーノンは「そういう事で」とルーカに手を振っている。
 戸惑いを見せて三人は顔を見合わせたものの、ニコルが特別拒絶しないのを見て逡巡した後、「じゃあ……」と言って、ニコルを窺った。
 しかし腰に手を当てて嘆息するニコルが何も言わないと分かると、「お先に」と口にして部屋を出て行く。
 六つと年が離れているニコルとアーノンだったが、趣味が合うのか、アーノンが大人びすぎているのか、休日一緒に遊びに出掛けたという話も良く聞いていたし、ニコルのアパートに宿泊する事もあったくらいなので、誰もが急ではあっても特別な事とは認識しなかった。
 思ったとすればジャンカルロが、「また勝手言ってやがる。何様のつもりだ」と尊敬するニコルと、ソリの合わない同僚の組み合わせに否を唱えたくらいだろう。
「そうと決まったら、早く着替えて」
と尊大な態度のアーノンも何時もの事。
「はいはい」
 反目しても詮無い事と、ニコルはそう返事をして手早く私服に着替える。
 麻のシャツの上に黒革のライダースジャケットを羽織り、着古してただ擦り切れた、けれどお洒落感のある褪せた色のジーンズの後ろポケットに財布を捩じ込めば終わりだ。上着の胸ポケットに携帯電話が入っている事を確認し、ロッカーの中からヘルメットを取り出す。
 その間にカップを濯いでしまったアーノンに続いて部屋を出ようとし、扉を閉め様室内のスタッフへ
「お先な」
と告げて行った。
 一分もかからずそれだけの作業を終えて退室した二人に、だらけ切っていたスタッフは言葉を返す隙も無かった。

 スタッフ専用の駐車場に停められた銀色のハーレーは、ニコルが「シャム猫」と呼ぶように、デザイン性を重視したスレンダーな型だ。全身シルバー一色だが厳しいというより艶っぽいイメージのそれが、ニコルの愛機だ。
 同じ色のヘルメットをアーノンに投げ渡すと、ニコルはノーヘルのまま、【シャム猫】に跨った。
 ヘルメットを被ったアーノンは、ニコルの後に跨って彼の腹を抱き締める。
 当然の事ながら一人乗りのバイクであるから、常に携帯しているヘルメットは一つである。初めてニコルのバイクに乗った夜、その一つを自分にと宛がわれたアーノンは潔くヘルメットを被る事無く、拒否し続けた。自分は無理矢理乗せてもらうのであってバイクの持ち主たる運転手がヘルメットを被るのが当然だという主張のつもりだったが、「怪我でもされたら迷惑だ」と対するニコルも引かなかったので、最終的には結局ヘルメットはアーノンが被ることで落ち着いた。それ以降ニコルのバイクに乗せてもらう時は、ヘルメットはアーノンの頭に装着される。
何より長い髪が顔や首に纏わりつく様はあまり歓迎できない。冬場となれば冷たい風に凍る顔に、まるで鞭のように打ち付ける髪房は最悪だ。
 ニコルはアーノンの準備が整うと、すぐに発進した。



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  ニコルの部屋は1LDKの鉄筋コンクリートのアパートの一階だ。以外に綺麗好きの彼の部屋は常に程良く整頓されている。朝脱いだ寝巻きさえベッドの上に畳まれている。
 玄関で脱ぐ靴さえ揃えろと五月蝿い。
 途中24時間のモールで買い物をしてビールとツマミを買ってきたので、ニコルは冷蔵庫へ直行する。
 アーノンは勝手知ったる様子で続き間のベッドに荷物を放ると、ベッドサイドで閉じられたノートパソコンに電源を入れる。
 そのまま寝転がったままパソコンの起動画面を見つめていると、ニコルが顔を覗かせた。
「パスタ作るけど、食う?」
「いんね」
「了解」
 深夜を過ぎようという時間にしっかりとした食事は入らないのが常のアーノンと違って、その体格を作った旺盛な食欲を持つニコルは時間帯気にせず兎に角腹が空けば相当の量を食べる。自分の分だけで三人分ほどのパスタを茹でようと鍋に湯を沸かせている。
「何か調べもんか?」
 キッチンからニコルの声が飛んでくる。
「まーねー」
 単調にキーボードを打つ音が微かに響く。
「家じゃ調べらんねぇ事なわけ?」
「そういう事ー」
 合間にうざったるい髪の毛をポニーテールに結わえて、インターネットブラウザを開く。すぐに表示される検索画面に、幾つかの候補を入れていく。
 資産家ロッティ家にはパソコンルームがあり、十数台のパソコンが備えられている。時々フレンツォが仕事に使ったり、ルーカがゲームに夢中になったり、というぐらいの用途には勿体無い程の設備だ。セキュリティ面も万全で、普段であればアーノンも調べ物となれば利便的にそちらを使う所だが、アクセスログが取得されているのが厄介だ。殆ど何事もなければ解析などされないが、本日の調べ物は彼らに知られたくない内容だった。
 知ればフレンツォがいぶかしむ。
 ――知りたいのは、ヴィエリの事だった。
 ヴィエリの名前とその会社で検索をかければ、一番に会社のホームページが浮上する。
 名刺に記載されていた通りの、不動産と建造業。抱える技師は数多、設立から五年でかなりの量の仕事を手がけている。土地運用からデザイン、著名なデザイナーの仲介業。世界的に有名な建造物の修復作業も行っているようだ。
 とするとアントニオは新しい店だかビルだかを作るつもりだろうか。アントニオ自らが動いているとなるとかなり大規模なものだと考えられる。
 ホームページをざっと見てから、今度はアントニオが経営する会社の名前を検索対象に入れると、ニュース記事の一面がヒットした。
”ヴェラニチオ・グループの新事業、海上都市ブラスカにも展開”
 でかでかと表示される見出し。二年後を目処に海上に作られるブラスカは経済の拠点にもなると言われている。古代ローマをテーマにする優美な浮島、参入する会社は有名所がわんさか。その一角は既にヴィエリの会社が買い取っているようだ。
 ブラスカでの事業が成功すれば利益は何倍にも膨れ上がるだろう。
 嫌悪する相手がそこまで登り詰めたと思うと、益々面白く無い。
 彼の自信を裏付けするには、相当過ぎるといえたが、過去を知るだけに今がどうであれ――アーノンには俄かに受け入れ難い話だった。
「……何難しい顔してんだ」
 何時の間にかリビングで山盛りのパスタを頬張っていたニコルが、目線だけをアーノンに向けて問い掛けてきた。
 山盛りのそれに大量にかかった真っ赤なトマトソース――見ているだけで気持ちが悪くなる。
 げっと呻いてから、アーノンはパソコンの電源を切った。
「もういいのか?」
「ああ、もう十分」
 知りたい事は分かったからな、と心中で頷いて、アーノンはニコルの向かいのソファに移動する。
 カウチソファに胡坐を掻いてその上で頬杖をつく。おいしそうにパスタにがっつくニコルを呆れ顔で見つめて、思い出したように冷蔵庫からビールを取り出して来た。
 ちびちびとそれに口をつけながら、ニコルの食事が終わるのを待って一気に飲み干す。
「ニコルさ」
 彼が一息ついたところで、アーノンは躊躇いがちに口を開いた。
 ツマミのチーズを口に放り込みながら、ニコルが視線で次の言葉を促してくる。
「……最近良く来てる客、知ってる?」
「ああ、お前にご執心の?」
 からかう口調にむっと顔を顰めてから、否定できない話である事に思い至って大きく溜息をついて湧き出た怒りを押さえ込む。
「まあ、そうだね」
 錆びた鉄色の瞳は、どこか気遣わしげにも見えた。
 アーノンの過去の知り合いといえば、スタッフは大抵同じ所に行き着くだろう。つまりは、アーノンの情事の相手である、という。
 アーノンが男娼をしていた事も、その後の恋愛事情も、大体筒抜けだ。決まった恋人を作らず次々に遊び相手を代えている、という事も。
 ヴィエリもその一人だという予想は、全員ついている事だろう。その相手が別れた後も突っかかってこようが、自業自得で「ご愁傷様」とからかえる程度の話になる。ジャンカルロ辺りは「てめぇが悪いんだろ」と嫌悪露に吐き捨てる事請け合いだ。
 ニコルにとっても「しょうがないな」と苦笑する話でしかない。
 しかしヴィエリはアーノンが選んで恋人にした相手ではない。むしろ恋人にもなり得ない対象だ。
「フレンツォには言うなよ」
 ニコルの口が固いのは知っているがそう釘を刺して、アーノンは続ける。
「あれね、男娼時代の客なんだよ」
 目の前で、面白いくらいにニコルの顔が固まった。ぽかんとだらしなく開いた口の中に、咀嚼途中のチーズが覗く。
「――そりゃ、また……」
 茫然としたまま、ニコルが無意識に呟く。
 それから指を使って何事かを数え出した。恐らく年数を遡っているのだろう。
「……十年越し? 相当な執着だな」
 恐ろしいな、と戸惑いながら同意を求めてくるニコルに、アーノンも大きく頷く。
「だろ。それも今頃になって」
 アーノンとルーカの行方など、ちょっと調べれば分かる話だ。ロッティ家は特に有名だし、そのツテで二人が街を去った事も簡単に調べがつく。ロッティ家を中心に調べればすぐに行き着くだろうし、ロッティ家の養子という位置づけにある双子が街を出た後学位を取得しソムリエ養成学校に入学した事も容易に知れる。
 何より隠している内容では無かったから、街を出た数年は男娼時代の客が身体を求めて訪れる事もしばしあった。マフィアの幹部が遊びに来た事もある。
 しかしそういった時期をすっ飛ばし、今更雑誌で見かけたからと言って会いに来る理由は分からない。
 今更アーノンの身体が恋しくなったとでも?
 それこそ笑い話だ。
「俺、あいつ大っっっっ嫌ぇなの」
 犬歯をむき出して、秀麗な面をこれまでかという程歪ませるアーノンの嫌悪も、ヴィエリの執着と同じくらい、ニコルには異常なものに映った。
「そこまでヤバイ男には見えなかったけどな」
 最も客席から呼び出されて賛辞の言葉を受けるたかだか数分しか相手をしていないニコルにとっては、見た目の印象しか無いのであるが。
「俺もそれは思うよ。でも昔から――生理的に駄目。だから客っつっても、ほとんどルーカをやってたんだ」
 上司から直接命令が下った数回以外は、ルーカに代行で相手をさせていた。見た目が同じなのだから、殆どの客はどちらでも構わないと言ったし、少しばかりアーノンを真似させればどちらがどちらか気付かない客ばなりの中で、ヴィエリだけは一目で二人を区別した。何もされずルーカが追い返される事もあった。仲間内でさえ二人を間違う事もあるというのに、だ。
「俺があいつを嫌ってんのは、本人も知っての事だしよ。でもあいつは――後から気付いたんだけど、逃げる相手に興奮するらしい」
「だからって、異常だろ」
「それに、別段あいつモテないタイプにも見えないだろ。今は会社経営してるほどの金持ちだし、金にもの言わせてどんな相手も買える筈だ」
 それこそアーノン程の美貌の相手も、簡単に手に入れられるだろう。
「そんな奴がどうしても手に入れたい、って程じゃねーだろ、俺」
 皮肉げに微笑を浮かべるアーノンを、ニコルは曖昧に肩を竦めた。
 アーノンの繊細な容貌は、保護欲をそそるものだとは思う。輝く銀糸の如き艶やかな長髪、白い肌理の細かい肢体、艶やかな美貌は彫刻のようだし、人目を引く容姿なのは言うまでも無い。何より魅力的なのは深い海のように煌めくその双眸だ。凄まじい吸引力を放つ藍色は、その奥に星の輝きを潜ませている。
 女共は王子様と呼んで憚らない。
 けれど口を開けば悪態ばかり、笑えば皮肉げ、性格は尊大でいて傍若無人とくるので、その魅力も半減する。
 手に入れたい、と渇望する気持ちはニコルにも容易に理解出来る。
「どんなに拒絶しても、全然痛くも痒くもねぇって感じでさ。――一晩相手すれば、満足するかもしんねぇってのは分かってんだ」
「……それすらも、嫌だってのか」
「可笑しいだろ」
 乾いた笑い声は、以外に真剣なニコルの表情の前に消えた。
 柔らかく細まる赤銅色の瞳は、逃げる言葉を許さない。
「――あいつだけは、嫌なんだ……」
 どんな相手にだって、差し出せる身体だ。これまでに何人何百人――数え切れない男に抱かれてきた。最初は暴力的なまでのそれ、その後は自分の意志に反して許して来た。汚れている、とは思わない。けれど今更、「好きな相手じゃなきゃ嫌だ」と駄々をこねるほどの純真無垢さも無い。大体が恋情すら知らないで、ただ欲求を満たす為に身体を重ねているような現状で――たった一晩、たった数時間の我慢も出来ないと、そう悲鳴を上げる心が不思議だ。
「……嫌なんだ」
 俯いた唇から、ただ拒絶だけが紡がれた。







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2009/03/08