19 帰れ。



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 今宵の【ビアンコ】は、ゆったりと流れる店内の音楽に相応しい、喧騒とは程遠いしっとりとした雰囲気があった。
 辺りの観光期が過ぎた為、馴染み客や上質な客層がほとんどだ。
 そんな中、スタッフ達も周りに気を配る事だけは忘れずに、どこかのんびりとしたムードで働いていた。

「キミ――そこの、ソムリエ君」
「……お呼びでしょうか、お客様」
「今日のお勧めは、何かな?」
「今日のお客様のお料理には、カステル・デル・モンテがよろしいかと」
「詳しく説明してもらえるかい?」
「かしこまりました」
 アーノンは軽く一礼して、にっこりと優雅に笑みを浮かべた。
 ――例え、どんなに胸糞悪い客が相手でも、アーノンは接客の手を緩めない。ソムリエとしてビアンコに勤めるに当って科したその誓いは、相手が誰であっても、どんな時であっても、けして揺るがない。
 完璧な美貌が微笑めば、老若男女違わず魅了する。
 そして更に彼の勧めるワインを一口含めば、最早誰もがこのソムリエの虜だった。
 例え、誰が相手でも、アーノンは、けして。けっして、完璧な接客を覆さない。
「連れは酒に強くないので、彼にも一つ何か見繕ってもらおうか」
「それでしたら、本日入りました白ワインをお勧め致します。多少甘みがございますが、清廉な喉越しは渇きを癒して頂けるかと思います」
 連れ、と紹介された相手に視線をやると、彼はぼうっとアーノンを見つめてこくこくと頷いた。年齢はアーノンより数歳上だろうか、まるで子供のような仕草に少し心が解ける。
「それから、アーノン」
 しかし気安く名前を呼ばわった、恐らくこの青年然とした男の上司と思われる男に、浮き上がった心は再度沈んだ。
 一通り観察した所この場に慣れた男の連れは、店自体にもだが男と向かい合っている状態に酷く緊張しているように見えた。その青年は硬直してしまって、男がアーノンを呼び捨てた事に頓着した様子は無い。
 内心で舌打ちしながら、アーノンは男に目を向ける。
「何でしょうか、お客様」
「俺とお前の仲だろう? ヴィエリと呼んでくれ」
「かしこまりました、ヴィエリ様」
 唯一の抵抗とばかりにそう返すと、ヴィエリは満足そうに笑った。
 アーノンの胸の内、苛立ちばかりが増えていく。
 数日前の宣言通り、ヴィエリはビアンコに幾度と無く訪れた。予想に反して始めはただの客、とばかりに料理とワインを楽しんで行く普通の客だったが、回を重ねる毎にそれはアーノンに対してだけ一転するようになった。毎回毎回注文したワインの仔細を説明させられるだけならまだしも、会話の合間合間にベッドへの誘いを口にするようになり、執拗にそうする代わりに不躾な視線が、何時もアーノンを嘗め回すかのようについて来る。仕事中のアーノンが何時もの様に容赦無く拒絶しないと見ると、どんどんと要求がエスカレートした。時々こうやって仕事の部下や仲間らしき人物を連れて来て、微妙なラインで楽しむ事もし出した。
 アーノンにとって不愉快極まりない時間は、毎日のように訪れる。
「今夜は、俺の為に身体を開けてくれるか?」
「真に残念ですが、本日は先約がございます」
 顔だけは申し訳ないという表情を作って、アーノンは一礼した後踵を返す。会話を繋げる隙を与えず足早に去ると、背後からヴィエリの押し殺した笑い声が聞こえて、それが更にアーノンを不機嫌にするのだった。

 夫婦連れにワインを注いで、会釈してから席を離れる。
 フロアを見渡して、全席のグラスが満たされている事に満足すると、定位置に待機するルーカを確認してからアーノンは休憩に入った。
 隣接するキッチンに目をやって、幾分料理も落ち着いたのか手の空いたシェフ達が談笑する声を聞きながら、休憩室の扉を後ろ手に閉める。
 そうすると、店内のざわめきが遮断される。
 やっと一息つくと、ソファに寝そべって煙草を吸っていたクラウスが、顔を上げた。
「お、休憩か?」
 耳からずらしたヘッドフォンからは、大音量のロックが流れ出す。
「……五月蝿いんだけど」
 がなり倒すだけの意味の分からないボーカルの声に頭痛を誘われ、アーノンが呻くように言うと、クラウスは片眉を上げる。
「……吸うか?」
「吸わないよ」
 煙草を持ち上げる彼に、素気無く返す。
 アーノンが吸わないと分かっているのに、質が悪い。それともそんなに吸いたそうな顔でもしてるだろうか、とアーノンは少しだけ唇を噛んだ。
 ――煙草は舌の感覚を狂わせる。
 ソムリエとして生きると決めてから、アーノンは煙草をきっぱりと止めた。それまではクラウスまで、とは言わずとも結構なヘビースモーカーだったのだ。短気者だと自覚しているだけに、精神安定剤として愛煙していた煙草を止めるのはそうとう気が滅入るものだったが。それでも大人になって自制する方法を幾つも身につけてからは、クラウスを見ても吸いたい等と感じる事は無かった。
 恨めしそうにクラウスの手元を見つめていると、背後の扉が開いてがやがやと五月蝿いスタッフ達が入ってきた。
 扉の前で突っ立つアーノンに「早く入れよ」と文句を言うのは先頭の、可愛くないスーシェフ・ジャンカルロ――通称ジャンだ。その後には噂好きなカメリエーレ・マリオ。
 マリオはアーノンの姿を見つけると、にたり、と笑った。
「今日も来てるな、あの客」
 細まる緑黄石の瞳は、子供のような悪戯っぽい光を纏う。
 うんざりと溜息を吐いて、アーノンは一人用のソファに腰掛けた。
「だから、何」
「いやぁ、今日もすんごい数のご指名だったなぁと思ってさ」
からかう色の強い言葉は、核心には触れずに。だからこそアーノンを苛立たせる。
 ジャンカルロは興味無いと言いたげに、際奥のソファに掛けて雑誌を広げた。
「あの人、お前の昔の知り合いなんだろ? どういう仲なわけ」
「ただのストーカー」
 アーノンの代わりにクラウスが答えれば、マリオは可笑しそうに声を立てた。
 それがある意味その通りの返しだったので、アーノンは押し黙る。確かに雑誌で見て思い出した、にしては酷い執着心だ。十年も前の愛情を今更持ってきて、こんな遠くまでやってくるなんて頭がどうかしてるとしか思えない。
「でもあの人、何やってル客? 今日来てたのヴァレンティノのスーツでショ?」
 もう一人、一緒に部屋に入ってきたカメリエーレのエンリコはスペイン訛のある口調で話に入る。彼は流行に敏感で、「それどこ」と耳慣れない【ヴァレンティノ】の名前に首を傾げたマリオに最近店舗を拡大している男性服のブランドだと教えてくれる。店すら高級感の漂う外観で、入り鼻を挫かれるとエンリコは言う。ヴィエリの着ていたそれは恐らく百万はするスーツだという。
「スーツ如きに百万!?」
 と驚くマリオに少しムッとしながらエンリコが返す。
「お前にはあれの良さが分かんないってノ?」
「それだけ羽振りがいいって事だろ」
それに、何の感慨も含まないクラウスの言葉が続く。
 どうりで触れたら十万といったアーノンに怯まなかったわけだ。何の仕事をしているのかは知らないが、成功はしているのだろう。その所為で更に自信をつけたのなら更に嫌悪する。
「連れが着てたノも、ブランドのスーツだヨ。まァ、あっちはスーツに着られてタ感ガあったケド」
「ふーん。部下も金持ってんなら、相当儲かってる仕事なんだろうなぁ」
 いいなあと言いながらも卑屈な色が微塵も無いのは、マリオ自身今の仕事に満足がいっている証拠だろう。けして羨ましい、と相手を思わないのは――金より価値のある今の仕事を、気に入っているから。流行を追い何時だって金欠だと騒いでいるエンリコでさえ、今より給金の高い仕事に着きたい、などとは嘘でも言わない。
「そんなら、アーノン、高いワイン勧めちゃえば?」
「……それ、いいね」
 そんな軽口の応酬に気持ちが和らいだからか、アーノンも少しだけ笑んで答える事が出来た。
 実際には、料理に合わないワインは誰が相手でも勧められるものでは無いのだが。料理に合えば最上品を出してもいいかもな、なんて心中で頷く。
 そんな風に冗談を言って笑いあっていた時。
 またしても、休憩室の扉が開いた。
 けして狭くは無い休憩室だが、流石に営業中に休憩が取れる人数じゃなくなるだろ、と開けきらない扉を見つめながら、実際には一秒にも満たない間に考えた。
「あ、アーノン」
 入ってきたのは、その最たるルーカだった。
 アーノンが休憩に入っている今、ソムリエは彼だけだ。
「ルーカ!?」
それを何のこのこ休憩に入ってんだと怒鳴ろうとした矢先、
「ねーヴィエリが呼んでるけどどうする?」
 空気の読めない彼は、阿呆な質問を馬鹿みたいな笑顔で吐き出した。
「っアホ、お前が相手しろよっ! わざわざそんな事で呼びに来るな!」
 一番事情を知っている筈の弟のお伺いに、アーノンは思わず怒鳴ってしまう。よっぽどの顔だったのか、エンリコとマリオは腹を抱えて笑い出す。
「わかったー」
 ルーカは「だよねー」と頷いて、あっさりと扉を閉めた。
 最早爆笑の渦と化した室内で、アーノンは疲れ切った溜息を吐いた。



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 就業後店内の後片付けを終え、アーノンは強張った肩を叩きながら帰り支度を始めた。ヴィエリの来る日は何時にもまして疲労感を抱える羽目になる。
 明日は定休日だから、丸一日は会わないで済むと思うと清々する。
 まだ誰も来ないロッカールームで手早く着替えを済ます。アーノンやルーカは街の外にある、元アルテジオ・ロッティの別荘、現フレンツォ・ロッティの居住に世話になっている身であったから、同じように居候であるジーノやイジョールとは大抵一緒に通っている。彼らを待つ間コーヒーでも飲もうかと湯を沸かしていると、奥のオーナールームからフレンツォが顔を出した。
「アーノン、調度良かった」
 言いながら手招いてくるフレンツォに、アーノンは火を止めてから従った。
「何か用?」
 聞けば、フレンツォは何故か一枚の名詞を手渡してくる。裏面が上になっていたから裏返して、何気なくその名前に目を落とす。
「今日いらっしゃってたお客様にね、ご丁寧にもご挨拶頂いたの」
 視線を落としたまま固まるアーノンに、フレンツォが躊躇いがちに続ける。
「それで、マリオがね。あんたの知り合いらしいって、そう言うわけよ。お客様があんたを良く指名してるんだって?」
「ああ、それは……」
「ハバロ関連の人?」
 緊張した面持ちのフレンツォを見つめる。動揺を隠す為に、アーノンは皮肉げに笑んだ。自分が予想外の言葉を耳にした時、無意識に作っているというその顔を、自覚して浮かべた。
「違うけど」
 実際には、という言葉を飲み込んで言うと、フレンツォが明らかにほっとした。握り締めていた拳を解き、
「なら、いいの」
 と微笑む顔には安堵。アーノンの言葉を一分も疑わないのは、それこそが信頼の証だ。
 フレンツォとの間に刻んできた時は、それを可能にした。アーノンが否と答えれば、それが真実になる。
「そうよね、だってちっともそれっぽく無いし」
 素直に笑顔を返してくるフレンツォに心苦しくもあったが、アーノンは首肯して嘘を通す。
「知り合いっていうか、顔見知り程度だよ。あの人、雑誌で見て懐かしくなったって、仕事でこっち来るついでだって言ってたし。そんで懐かしさからからんでくるだけ。気安い人だし」
 間違った事は言って無い。ただ少し言葉を変えただけで。
 一気にそれだけ言い終えると、フレンツォはもう一度
「ならいいのよ。時間、取らせたわね」
 そう言って、アーノンが返した名詞を胸ポケットにしまい込んだ。
「それにしても、何でわざわざ挨拶なんか」
 何気なく、ただの興味本位だと言いたげに小首を傾げつつ、五月蝿い心臓を自制する。
「この方、アントニオの仕事相手なんですって」
 一際跳ねた心臓を、背を向けて隠す。
「ふーん」
 声は、震えなかっただろうか。
 踵を返して、アーノンは部屋を出た。

 再び一人になったロッカールームで、アーノンはコーヒーの準備を再会した。
 慣れた手つきでカップを用意し、豆を挽いて備える。
 平静そうに見えるその顔の中で唯一、瞳だけが揺らぎを見せている。
”アントニオの仕事相手なんですって”
”ハバロ関係の人?”
 フレンツォの言葉が、脳内で木魂する。
 目に焼きついた白い名刺が、目の端にチラつく。
 白い背景に銀色の社名。でかでかとした力強いヴィエリの名前。そしてその上の、代表取締役の文字。
 ロッティ家の次男坊・アントニオの事業は、手広い。貿易業の傍ら新事業に手を伸ばして、悉く成功を見せている。彼の成す事がそのまま、ロッティ家の財政に繋がるのだ。
 その相手に、ヴィエリの営む会社?
 アーノンがヴィエリを素気無く相手をした所為で、その事業が傾く――などという事は、多分有り得ない。万が一破綻した所で、ロッティ家の崩壊とまではならないだろう。手痛い結果が待っていようと、それはあのやり手の長兄・次兄が覆せないとは思えない。否、それすらも次のステップに繋げてしまうような人達だ。
 けれどヴィエリがロッティ家に関係しているのならば、アーノンは態度を改めざるを得ない。
 アーノンにとってロッティ家はどれだけ尽くしても返せない恩のある家だ。自分達に未来を与え、生きていく道標をくれた。誇りと、愛と、挫けない心を教えてくれた。今のアーノンがいるのは、ロッティ家のおかげだ。
 彼らはけして、アーノンを重荷とは感じない。家族の一員として慈しみ、大事にしてくれている。
 アーノンが何を仕出かしても、見捨てはしない。
 けれどアーノンは、それだからこそ、彼らの足を引っ張る行為だけは絶対にしたく無いのだ。
 フレンツォは優しい。ヴィエリとの関係を知れば、例え兄の事業が転覆しようとヴィエリをこの街から追い出すくらいはしそうだ。
 ヴィエリに目に入る実害が無いとしても。
 何より過去に末端と言えど籍を置いていたハバロ・ファミリーというマフィアに関連する事に対しては、フレンツォの過保護は一層酷くなる。昔その頃の気さくな上司が遊びに来た事があったが、その時フレンツォは良い顔はしなかった。自分はその時のツテでマフィアと関わりを持ち続けているというのに、けしてアーノンとルーカに関わらせようとはしなかった。
 二人が男娼時代を悔いてないのは理解している。それを汚いとも思っていない。ただ、あの頃二人を襲った恐怖と悲しみを思い起こさせたく無いのだというのは分かっている。
「あんた達はアタシの可愛い弟なんだから、心配でたまらないのよ」
 と、フレンツォはそう言った。
 確かに後悔してはいないとは言え、マフィアを抜けた数年は、アーノンとルーカにとって地獄だった。普段はいい。ただ時々夢に見る恐ろしい過去は、確かに二人にとってのトラウマだった。
 大人になって悪夢との付き合い方を知ってから、後悔していないと胸を張れるようになったけれど。
 そんな二人を近くで見てきたからこそ、ハバロの事となるとフレンツォは敏感になる。
 だからヴィエリがその頃の客だと知れたら、フレンツォが気に病む。
 あの優しい兄貴分が、もうこれ以上自分達の事で気を揉むのは――子供のような、とアーノンが感じるのは可笑しな話だが、純粋で明るくて茶目っ気たっぷりなあの笑顔が曇るのは見たくなかった。
 ならば、アーノンは一人で戦う。
 そんな大層な話じゃない。何をされたのでも無い。
 それでも、アーノンにとって戦場に立つのと等しい気概で。
 ヴィエリとの繋がりを断ち切る。








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2009/02/08