03 指が肌をすべる感触 02


 癇癪を起こしたアタシを宥める為のキス、だった筈だ。
 初詣で賑わう往来で、アタシを黙らせるように唇を塞いだ大樹に、あっという間に陥落させられた。
 アタシの頭を抱え込み抱き上げたまま、大樹は人混みを抜け出して――どうしてか、大樹のマンションの部屋に連れ込まれていた。
 鍵を開けるなり、壁に押し付けられて唇を奪われる。
 外は容赦の無い寒さだったというのに、吹き込まれる息は熱くて、蠢く舌に火傷するんじゃないかなんて感想を持った。
 大樹の両手が、服の下に潜り込んでくる。
 触れた指先だけが、微かに冷たい。
 肌を滑っていくその冷たさがリアルで、でもそれはやがて、アタシの体温に溶けるように熱を帯びた。
「たい、きっ」
 非難を込めて呼んだ筈のアタシの声は、とろけたように甘い。
 けれど羞恥を感じながらアタシは、大樹にキスを強請っていた。
 大樹の分厚いコート越しの背中に抱きついて、性急な愛撫に声を噛み殺す。
 身体の中心が、はしたなく蜜を溢れさせているのが分かる。
 名前を呼べば、同じ音色で呼び返される。
 それが、とてもとても、心地良くて。
 アタシはわけも分からず涙を流しながら、大樹を受け入れた。

 ベッドに移動してからも、アタシ達は言葉無く互いを貪り合った。
 普段であれば絶対にしない筈なのに、脳のどこかが焼き切れてしまったアタシは、大樹の服を剥ぎ取って肌を合わせる事に躍起になった。
 上に跨って腰を振って、もっともっとと求めてしまった。
 ――何て事だ。
 今までだって、快感を感じていなかったわけじゃない。
 大樹に慣らされて、疼く身体を知って、身体を重ねる喜びを知って。
 ――でも、残った理性で、アタシは何とか矜持を保ってきたのだ。
 この行為を望んでいるわけではない。ただ、流されてそうなったのだ、と。
 そう思わなければ、アタシはただ傷だらけになる一方だと分かっていたから。
 アメリカから帰って来てからの大樹の瞳の中に、今までとは違う愛情が宿っている事も、告げられる愛の言葉に嘘が無い事も、本当は知っているのだ。
 だけど、それを単純に受け入れる事は出来なかった。
 大樹の事が、好きだ。きっと物凄く、好きだ。
 だけどそう言ってしまったら、絶対的に変わってしまう。後戻りが出来ない。
 大樹の優しさに甘えて、もう取り返しがつかない所へ行き着いてしまってから、また切り捨てられたら――そう思うと、心が竦んでしまう。
 なのにアタシは。
 弱いアタシは。
 幼いアタシは。
 大樹の昔の彼女に再会しただけで、醜い嫉妬心を剥き出してしまった。
 もう既に終わっている関係の、過ぎ去った日の、その残骸すら、許容出来なかった。
 この男は自分のものだ、と、叫んだ心があった。
 見上げた先で目を細める大樹が、優しくアタシの髪を梳かしている。
 アタシは猫のように満足げに喉を鳴らして、目を閉じた。



 アタシの絶対が大樹だった頃。
 愛とか恋なんて分からない、幼いアタシの世界の全ては、大樹が優しく守ってくれていた。
 時には厳しくアタシの行動を諌めたけれど、大樹はアタシの絶対的な味方だったのだ。
 そしてアタシは、そんな大樹に甘えていた。
 だからその分、突然の別離が何よりも痛かったのだ。
 渡米する少し前から、何と無く違和感があった。伸ばされた手が躊躇いがちに下ろされる事も暫しあれば、何だか困ったように苦笑する事が多くなった。呼べば応えてくれる。何時も通りに言いたい放題のアタシを、その我侭を、黙って受け入れてくれた。
 なのにどうしてだろう。
 広い背中に抱きついて、あれやこれを強請るのが躊躇された。
 一歩分、たったの一歩分開かれた距離を、詰める事が怖かった。
 突然離れて行った大樹を、わけが分からないまま必死に繋ぎ止めようとした。行かないでと泣いて、側に居てと喚いて、それでも大樹は行ってしまった。毎日の電話に心無い相槌を返された時、心臓が凍り付いて、痛かった。
 中学生になろうとするアタシは、もう二人の関係が兄妹のそれでは無かった事にくらい気付いていたし、大樹が立派な大人だという事も分かっていたけれど。
 どうしても、変わり行こうとする変化を、許容する事が出来なかった。
 大樹が何を思い悩んで、どんな葛藤を抱えて、アタシを切り捨てたのか。
 今では何と無く理解出来るそれらが、あの頃には全く理解出来なかった。
 仕方の無い事だったのだ、と頭では分かったつもりになれても、心の底では納得出来ないまま――アタシは新しい二人の関係に、足を突っ込んだ。
 その事を大樹は分かっていて、分かっているから、どこか余所余所しい。
 アタシが大樹に向ける視線の中に戸惑いや怒りや懐疑心を浮かべている事に気付いて、申し訳なさそうに、痛みを堪えるように笑う度――アタシの心が悲鳴を上げる。
 幸せとは程遠い。
 側に居たいと願っていても、お互いに刺さった棘を抜く事なんて、永遠に出来ないのだ。
 ――アタシ達はもうとっくに、終わっている。
 こんな関係、とっくに――破綻している。
 





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