03 指が肌をすべる感触 01


 好きだよ、と告げれば、梓は不本意そうに唇を尖らす。
 愛してる、と囁けば、そっぽを向いて聞かなかった振りをする。
 梓、と呼んでも、眉を顰めて何とも言えない顔を見せる。
 そんな梓が日常になり始めていたけれど。
 何時しか梓は、うろたえる素振りも見せず「聞き飽きた」と、僕の告白を一蹴するようになった。
 笑って欲しくて与えたスイーツやプレゼントの数々も、拒否する事が無くなったかわりに、心を動かす事自体が無くなってしまったようだ。

「梓、高校どうするの?」
 千佳さんが、リビングで正月番組を見ている梓に、何となく、といった感じで声をかけた。
 受験のお守りを買う学生達が、テレビに映っていたせいだろう。
 梓はホットカーペットの上に寝そべり、煎餅を齧りながら「は?」と素っ頓狂な声を上げた。
「まだ何も考えて無い」
 素直な梓は、言う。別に行きたい高校も無いし。バスケ部? 高校では部活入る気無い。
 それなりの設計図は描けているらしい。
「近いし、竜胆かなとは思うけど」
「そうなの」
 聞いた千佳さんもそれ程興味は無かったのか、それでも梓の成績を思い返して「竜胆入れるかしら?」なんて言ってる。
「入れるよ。アタシ別にそこまで馬鹿じゃないし」
 竜胆高校というのは、二駅先にある、至って平凡な普通高校だ。学校で真ん中当たりの成績である梓でも、少し受験勉強をすれば入れるのでは無いだろうか。
 何て事を考えながら、親娘の会話を聞く。
 幾ら家族同然と言っても、梓の受験にまで口を挟める立場に、今の僕は無い。
 番組の合間のニュースが終わり、梓の大好きなお笑い芸人が司会をするバラエティ番組が再開すれば、親娘は何事も無かった顔で笑い出す。
 その様を、どこか遠い事のように見つめる。
 どうしてだろう。
 こんなに近くに居るのに、何故こんなにも遠いのだろう。
 強引に梓の全てを奪って手に入れた気になっても、本当に欲しいものはこの手に無い。
 梓の身体を征服しても、その分だけ心は遠ざかる。
 それでも、分かっていても、傍に居れば触れたい。そんな欲求ばかりが勝る。
 触れて感触を確かめていなければ、この腕の中に囲っておかなければ、梓が何所かに行きそうで怖かった。
 笑顔の梓が振り返って、千佳さんと楽しげに会話をする。ふ、と僕の視線に気付いたのか、動いた目線が僕と交わる。その瞬間に、可愛らしい顔から失せる笑み。
 諦めと失望、そんなものが潜んだ大きな瞳。
 泣きたいような、怒りたいような、複雑に引き結ばれた唇。
 ――そんな顔をさせているのは自分なのに、そんな風にでも、梓の気を一瞬でも引ける事が、嬉しい。
 どんな感情でも、その時は、僕の事を考えていてくれる。
「梓、初詣行く?」
「……面倒だからヤダ」
「あら、良いじゃない。行って来たら?」
「……人混みウザイし」
 千佳さんの援護射撃も仏頂面で無視する梓だが、
「でも、初詣って屋台も出てるし」
食い気の多い彼女は、息を詰めて葛藤を見せた。

 最早、梓を釣るのは食い意地を刺激するしか無い。
 それを卑怯だとは思わない。
 渋々、といった態であったけれど、梓は境内に並んだ屋台を見た瞬間に、瞳をキラキラと輝かせてはしゃぎ出した。
「大樹、焼きそば食べたい」
 既にフランクフルトとたこ焼で両手が塞がっているくせに、僕のお姫様はそんな可愛い我侭を口にする。最も食欲旺盛な梓なら、並んでいる間に食べ終わってしまうのだろう。
「はいはい」
 たこ焼のパックを梓の変わりに持ちながら、行列に並ぶ。
 食べ物を与えておけば、今の梓もご機嫌だ。あつあつのたこ焼を頬張りながら、次の獲物を物色するように視線を彷徨わせている。
 可愛い可愛い、僕のお姫様。
 我知らず、頬が緩む。
 こんな風に、梓を見守っていたのが遠い昔のようだ。今はもう、その微笑み一つで、不穏な想いが首をもたげる。
 今すぐにでも連れ帰って、その身体を味わいたい。
 折角の梓の笑顔がすぐそこにあるのに、僕は梓を連れ出した事を後悔していた。
 こんな外では、触れる事も出来ない。
 手を繋ぐ事も許してくれない梓に、焦れる。
 ああ、早く梓の食欲を満たして、家に帰らなければ――そんな事を思いつつ、焼きそばを買い終えた時だった。
「……大樹?」
 名前を呼ばれて、梓に手渡した焼きそばから視線を上げる。
 怪訝そうに眉を寄せた、派手な着物を着た女。
「やっぱり。貴方、アメリカに行ったんじゃ無かったの?」
 大柄なスポーツマンタイプの男と腕を組んだその女の顔には、覚えがある。高校生時代に付き合っていた彼女だ。
「ああ、一年の予定だったから。帰ってきたんだ」
 久し振り、と笑う彼女に応える。
 隣の男の「誰」という質問に彼女は笑顔で「高校の同級生よ」と答えた。
「そうなの。……って、あら」
 その視線が、我関せず焼きそばを貪っていた梓に向かった。
「やだ、この子梓ちゃんじゃない?大きくなって」
 何だか親戚のおばさんみたいな感想だ、と思ったのは秘密にしておこう。一気にテンションが上がったらしい女の甲高い声に、梓が不快そうに目を細めた。
「……誰?」
 今度は梓が問う番だった。
「覚えて無い? もう五年以上かしら? 良く大樹と一緒に貴方を迎えに行ったりした……」
「さあ」
 梓は別段表情を変えず、素っ気無い態度。
 そんな梓を上から下まで見て、女はふっと笑った。
「やだ、反抗期? っていうか、まだ大樹、彼女のお守りしてるの?」
「いや、そういうわけじゃ無いけど」
「従妹でもブラコンって言うのかしら? 大樹も大変ねえ」
「……好きでしてる事だから」
 悪気があるのか、は定かでは無い。けれど隣の梓の纏う空気が、一気に冷えた。
「アンタ、何」
 不機嫌を隠さない、低い声音。
「余計なお世話なんだけど」
 言って、焼きそばのソースで汚れた口元を手の甲で拭いながら、何故か僕を睨み上げる。
「帰る」
 不愉快だ、と怒らせた顔が振り返る。
 梓は来た道を戻るようにして、人波に突入して行く。
「アズっ」
 慌ててその背を追う時には、昔の彼女の存在なんてすっかり忘れ去っていた。

 小さい者の利点なのか、梓はするりするりと人の波をすり抜けて、小走りするような速度で前へ前へ進んで行く。
 追う僕は、迷惑そうな顔に何度も謝りながら必死で梓を追った。
 名前を呼んでも、梓は振り返らない。
 鳥居を潜ってやっと、梓に追いついてその手を取った。
「アズ、」
「ウザイ!!」
 癇癪を起こした子供みたいに、梓が僕の手を振り解いて走り出す。
 けれど人垣が無ければ追いつくのは容易かった。
 再び手首を掴み、またそれを振り払われ、また腕を掴む、そんな事を繰り返し。振り上げられた梓の右手を避ければ、左足が蹴りを繰り出す――そんな慣れた攻防も、往来ですれば嫌でも目立つ。
 痴話喧嘩に見えていれば嬉しいのだが、生憎耳に飛び込んでくる会話は兄妹喧嘩を笑うものばかりだった。
 梓の不機嫌はとうにマックスだ。
「見てんじゃねぇよ!!」
 怒声を振り撒いて、周りの人間にまで牙を向く。
 流石に体裁が悪い。
 僕は思わず、梓の身体を抱き上げていた。
 殴られる前に、慌てて唇を塞いで、言葉さえも奪う。
 ――そんな僕が、体裁が悪いなんてどの口で言うのか。
 思いっきり辺りの視線を集めているし、ロリコンだなんだと囁かれているし。
 けれど、梓の暴走を止める事に成功したなら、それ以上の成果は無いのだ。
 抱き上げた身体から強張りが解け、必死に逃げ回っていた舌が力を無くした時、梓には既に何の抵抗力も無かった事だろう。
 僕は梓の顔を隠すように頭を抱きながら、野次馬の輪から抜け出した。





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