02 今、舌舐りしたでしょう 01


 目覚めると、見知った男の寝顔が傍らにある、という現実が、不本意ながら日常になりつつあった。頭の下には、枕とは違うけれどそれなりに心地良い固い感触がある。緩く抱きしめられていると窮屈だが、それが安心する温もりでもある。
 健やかな寝息や、伸び始めた髭が作る影。そんなものを感じる朝。
 中学二年生の秋には、羞恥の類はもう浮かばなくなっていた。
 春先にアメリカから帰国した大樹に、告白めいた事をされて、ディープなファーストキスを奪われた後、あれよあれよという間にこんな関係に落ち着いてしまった。そりゃあ友達の間に既に経験済みの子なんてのもチラホラいるような時勢とはいえ十も離れた相手に躊躇う素振りもなかった大樹に、それを推奨するような両親――そんな協力体制の中で、長く抗える筈も無かった。
 過剰なスキンシップは次第に不穏なものに変わり、絶対的に経験不足のあたしは、流されるように脱・処女を果たしてしまった。
 何より大樹は、あたし以上にあたしの扱いが巧い。あたしを篭絡するのなんて、朝飯前だっただろう。
 緊張なんて感じる暇も無く、大樹のキスに溺れ、肌を滑る手に性感を刺激され、それがとても気持ちよいものだと知ってしまったら――その先に進む躊躇いなんて、霧散されてしまったのだ。
 大樹は昔から、優しい。大樹の言う事に、間違いは無い。あたしの嫌がる事はしないし、あたしを傷付ける事をしない。
 そんな存在だったから、未知の世界に飛び込む前に「大丈夫」の一言をもらっただけで、あたしは簡単に流されたのだ。
 しかしあれは頂けない。どんなに馴らされても、痛いものは痛かったのだ。
 大体大樹のモノは凶悪だった。知識として男のソレがどうなると知っていて、その行為がどんなものか理解していたつもりでも、どこからどう見てもあたしを壊す凶器にしか思えなかった。火照った身体は急激に冷えたし、甘い雰囲気に酔っている場合じゃなかった。
 大樹は優しかった、と思う。丁寧だった、とも思う。
 だけどそれとこれとは別で、身体の中らから引き裂かれていくようなあの痛みの事だけは、多分一生恨み言を吐く位に忘れられない。
 そう言うと何故だか大樹は嬉しそうに笑うので不気味だ。
 その、もう絶対にしない、と誓った行為さえ、今は両手の指じゃ足りないくらいの数をこなしてしまっているわけだけど。
 大樹を『彼氏』だと認めるだけの勇気は、あたしにはまだ無い。

 昨日の夜は、致さなかった。大樹が何時帰って来て――と言っても、彼の家はウチでは無い。二駅先の分譲マンションにお住まいだが、帰国してから先、そっちには数える程度しか帰って居ない筈だ――何時ベッドに潜り込んだのかは知れない。恐らく午前様だったのでは無いだろうか。
 当たり前のようにウチに居ついている大樹を、誰も咎めたりしない。むしろウチの両親は大喜び。
 五年程前までは実際ウチで暮らしていたし、両親にとっても息子同然というか、息子なのだ。だからウチに帰って来て当たり前、そんな意識。
 だからといって愛娘との同衾まで笑って許すし、不埒な行為まで寛容だ。
 声までは両親に聞こえて居ないと思いたい。怖いので確認した事は無いし、両親の営みの様子にアタシが気付いた事も無いのだから、防音はしっかりした造りの家の筈だ、ウチは。そうでなければ死ねる。
 そんな事を中学二年生の身分で考えるようになるとは、半年前のあたしは露とも思っていなかった。
 だからこそ、大樹が恨めしい。
 正直、彼が帰って来て、傍にいてくれるのは本当に嬉しいんだけど――一度良く分からないまま切り捨てられた身としては、だからこそ素直になれない。
 大樹の気持ちに追随している本能と、幼い感情が噛み合わないまま。
 アタシは、訳も分からぬまま訪れた別れを、まだ巧く嚥下出来ていないのだ。
 何食わぬ顔で傍に居ないで欲しい。何も無かったように笑わないで欲しい。それでも、もう何処にも行かないで欲しい。
 そんな事を、素直に言って泣けない。縋れない。
 アタシの感情の出口なんて、大樹の寝顔からは見つけられないのに、あたしはただ、閉じた瞳をずっと眺めていた。

 大樹の腕から抜け出して、母の用意してくれた朝食を何食わぬ顔で食べる。お代わりを強請れば応じてくれる母親は、何時だって温和に笑っている。父もほのぼのとした人で、両親は花畑の住人のようだ、とアタシは思う。
 頭の螺子が幾らか外れていなければ、娘と従兄弟の逸脱した関係を寛容に認める事など出来ないだろう。
「大樹ちゃん、昨日も遅かったみたいよ?」
 聞いても居ないのにそんな情報をくれる母親に、何を思えばいいのか。分からないまま素っ気無く「そう」とだけ答える。
「お仕事忙しいみたいねぇ。大和さんも須磨子さんも、最近遊びに来てくれないし淋しいわ」
 大樹の両親は、それぞれ会社の取締役だ。海外を飛び交うアグレッシブな職業で、前に会ったのは確か、大樹が帰国したばかりに両家でとった食事会じゃなかっただろうか。
 その時もアタシに纏わりつくような大樹を呆れ顔で見ていた大和伯父さんと、愉しそうに眺めていた須磨子伯母さん。帰り際、須磨子伯母さんには「ちゃんと避妊はさせるのよ?」なんてとんでもない事を言われてしまった。まだそんな関係でも無かったというのに。
 須磨子伯母さんは昔からぶっ飛んでいる人だったけど、大和伯父さんの方は常識人だと記憶している。伯父さんの方はこの状況をどう思っているのだろう、とは思うけど、知りたくは無い。
 三杯目の白米を咀嚼しながら、父とは正反対の厳しい顔をした大和伯父さんを思い出して、低く唸る。
「なあに、御飯美味しくない?」
「ウマイ」
「なら良かった」
 ふわ、と優しく綻ぶ母親の顔は、時々、無性に羨ましくなる。
 アタシは、あんな風には笑えない。
 伸びて来た手がアタシの空になった器を浚って、御飯をよそっていく。アタシは、自分で御飯をよそったりしない、物ぐさな娘だ。だから何時だって、御飯を母親によそってもらう。面倒じゃないのか、と言って、大きな茶碗に変えてもらおうと思った事があったけれど、母は何度もよそうからいいのよ、と穏やかに笑った。
 母さん、と無意識に口をついた。
「なあに?」
 でも、続く言葉を持たないから。
「……大盛りにしてね」
 空腹を装って、アタシは思考に蓋をした。



 授業をサボる場所は、幾つかある。
 空き教室であったり、階段の踊り場であったり、トイレであったり。
 でも何所も何時教師がやって来るか知れないから、逃げ回ったり息を潜めたり、中々に落ち着かない。
 誰とも一緒に居たくない時や、物思いに耽りたい時は屋上に行く。
 屋上が格好のサボリ場になると知っているのは、恐らくアタシともう一人だけだ。
 ゆっくりとノブに手をかければ、閉まっている筈の鍵は開いている。そんな時だけ、アタシは屋上に逃げ込む。
 そこには、常に屋上をサボリ場所として使う、もう一人が居る。
 屋上の鍵は、職員室にしか無い。生徒がスペアキーを持っているという話は聞かない。だから、誰も利用する筈の無い場所。
 それでも、もう一人――日向獅子という、不可思議な名前がチラホラ居るこのご時勢でも際立った名前を持つ男子生徒は、時々屋上に居た。彼も勿論、鍵等持ってない。ただ、ヘアピン一つで鍵を開けてしまえるつわものなのだ。
 彼が屋上に居る時だけ、アタシも便乗させて頂く。
 ドアを開けた瞬間、ぶわっと吹き過ぎる風。
 小さな建物をぐるり回り込めば、反対側に件の男が居る。
「よっ」
 と小さく声をかげれば、煙草を持った手を上げて答えてくれる。
 その男は、脱色した金髪の持ち主。にも関わらず、学校での評価はダントツにいい。
 それもその筈、こいつはとんでも無い猫被りなのだ。
 普段は真面目に授業を受ける成績優秀な優等生で、所属しているバスケットボール部でも、今年部長になったという。目立つ色の髪の毛は鬘で隠し、飄々と優等生の演技をしている。
 そんな男の本性は、偶然夜遊び仲間として出会って知った。
 無免許でバイクを乗り回した、ライオンなんてあだ名されてた男。顔を見ても、学校での日向とは別人としか思えなかった。相手が声をかけて名乗るまでは、すごいのが居るな程度。
 何故日向がアタシに名乗る気になったのかは、知らない。
 ただ、これは二人の共通の秘密だった。
 吸う? と差し出された煙草ケースに、首を振る。何時も断わっているというのに、日向は毎回こうだ。学習能力が無いわけではないだろうが、何の意味があるのかは良く分からないし興味が無い。
 アタシは煙草の代わりに、持ち込んだお菓子を頬張るのみだ。
「ヒナ」
 と呼ぶようになったのは、夜遊び仲間の先輩の影響。ただ一人、日向をヒナと呼ぶ女は、アタシを可愛がってくれている。雛鳥のヒナ、というのが、何とも似合わなくて気に入ったのだ。
 そう言ったら、日向は面白そうに笑って、それから、この屋上の事を「内緒だぞ」と言いながら教えてくれたのだ。
 お互いに好意を持っているわけで無いのは明白。
 多分、波長が合った。
 呼びかけた後、何も言わずに奥へ詰めてくれるのも、その証拠みたいなもの。何も言わなくても、通じる事が多々ある。
 沈黙も、気詰まりでは無い。お互い居ないものとして、ただ空を仰ぐ。
 アンタが彼氏だったら良かった、と言った事が一度、ある。大樹を彼氏だと認めていない、と言いながら。
 何で、と返した日向は穏やかだった。
 大樹とは違う意味で空気のようで、楽で、そんな事が理由で。でも大樹とは違って、苦しくも、辛くも無い、そんな理由で。
 ふっと口元を綻ばせた男は、達観したような、皮肉るような笑みを浮かべて、馬鹿だなぁと続けた。
『彼氏の事、すごく好きなくせに?』
 その声がひどく穏やかだったから、アタシはつい、事の成り行きを喋ってしまっていたのだ。
 好きとかそんなのじゃない。ただそこに居るのが当たり前なだけだ。
『究極じゃん』
 なんて、言われてしまえば。
 涙が出てしまった。
 何時か居なくなるのが分かってるから。また、居なくなるのが分かってるから。
 そんな風に弱味を見せてしまった日向に、取り繕う必要なんて、もう無かった。





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