01 始まりのくちづけ 03


 梓が目を合わせてくれるかどうかを不安に思う以前の問題だった。
 一年振りに訪ねた梓の部屋には、その頃には無かった内鍵が設置され、完全に僕は拒絶されていた。
 ガチャリ、と回したノブは動作途中で止まり、僕の思考は一瞬停止した。勝手ながら、梓に拒絶されるというのは相当堪える。
 仕方なしにノックで梓の反応を待つけれど、中からの反応は全く無い。
「……アズコ?」
 呼んでみても沈黙。
「……梓ー?」
 少し声を大きくしても同じ。
「……梓? あーずーさーちゃーん?」
 媚びるような声になってしまうのは、無意識だ。十も年下の子供のご機嫌を必死で取ろうとする僕は傍から見たら滑稽に違いないが、そんな事には頓着していられないのが僕の現状だ。
 千佳さんに言われた通り現実を受け止めてみれば、そうなる。
 結局僕は梓離れなんて出来やしないのだから。
 梓は僕の大切な、可愛いお姫様。それは昔から、そしてこの先も、変ることは無いだろう。
 例え梓が僕の想像と真逆の方向へ成長しようと、変らない。
「……ご飯出来たってよ?」
 再三の呼びかけを無視されていじけ気味に呟く。
 きっと声の大きさ等関係ない。梓は僕が居ると知って無視しているのだから。
 予想通り、ご飯の二文字を口にした瞬間、部屋の中の住人はしっかり動き出した。すぐさまに鍵を開けて、仏頂面の梓が顔を出す。
「それを先に言えっつーの」
 食い意地が張っていると言っては年頃の娘に失礼かも知れないが、梓は昔から食べる事が大好きだった。何かしら食べ物を与えて置けば、何時でもにこにことご機嫌で、学業の都合で梓と遊ぶ約束を反故にした事が間々あった学生時代には、スイーツの類を買って帰る事でチャラにしてもらった。
 そんな梓の変らない一面にほっとしたのも束の間。
 梓は僕の脇をすり抜けてさっさと階下へ向かおうとしていて、振り返った時には既に階段に一歩を踏み出していた。
 僕は思わず、その背に手を伸ばす。
「ちょ――」
 すんでの所で梓の肩に手をかけ、強引に階段から二階の廊下へと引っ張り上げる。
「――と待った、梓」
 どうやら力加減を誤ったらしい。梓を引き止める事には成功したが、梓は態勢を崩し、抗議の声を上げる間も無く僕の胸の中に倒れこんできた。二周りは小さな体が、僕の身体に衝突する。
 その状態で、梓も僕も固まってしまった。
 まるで後ろから梓を抱きしめているような体勢だった。咄嗟に梓を受け止めようとした腕は間に合わずに、どうしてよいのか分からずに彷徨った筈だった。
 けれど今、触れる温もりを確かめるように、意識するよりも早く、僕の身体は梓をぎゅっと抱きしめている。
 その瞬間細い身体は強張り、梓は僕の腕の中から逃れようと身を捩り出した。
「っ何のつもり、」
 梓の抵抗を戒めるのは造作も無い。
「離せ、ばか! 大樹!」
 抗う腕ごとホールドする。
 小さな梓を膝に乗せて、絵本を読んでやっていたのは遠い昔。疲れたとごねる梓をおんぶして移動していたのも。怖い夢を見た、と布団に潜り込んできた温もりを抱きしめて宥めてやったのも。
 人肌に触れるのが久し振りなわけじゃ無い。
 ただ、梓をこうやって抱きしめる事は、彼女の成長につれ何時しかなくなった。
 懐かしい温もりに、心中に浮かぶのは安堵と。少しの――。
 必死に抵抗する身体を強く抱きしめ、囀る唇を胸で受け止める。
 その瞬間、まるで欠けていたピースがかちりと嵌ったような、奇妙な充足感が胸の内に広がった。

 梓だ。

 この腕の中に居るのは、他の誰でもない梓なのだ。
 僕の小さなお姫様。
 誰よりも大事な。誰よりも、愛しい。

「っいい加減にしろっ!!」
 力が緩んだのを好機と見たのか。僕の胸を押し返しながら抗議の声を上げた梓の、怒りによって紅潮した顔が上向いた。
 考えるよりも早く、その頬を両手で掴んでしまっていた。身体を開放した代わりに、戒めた小さな頭。
 背を屈めた後、許しもなく梓の唇を奪っていると自覚したのは、驚きに見張られた梓の大きな瞳が暗闇に消え、シャツが鷲掴みにされる感覚を首に感じたからだった。
 衝動的な行動だったけれど、それを過ちだなんてちっとも思わなかった。
 触れただけのキスに脳に甘い痺れが走って、こんな幼稚な接触にさえ、魂が歓喜に震えるのが分かる。
 驚愕したままの梓の口腔に舌を差し込んで、奥の奥まで彷徨いこむ。唾液さえ甘い蜜のよう。
 上顎を撫でると、梓の身体がびくりと跳ねる。
 必死で逃げる幼い少女の舌を、容赦なく絡め取って刺激する。
 罪悪感なんてこれっぽっちも浮かばない。
 不思議な程に高揚した脳が導き出した答えに、僕はただ満足していた。

 くたり、と弛緩した身体は、拘束を外すと重力に従ったまま、床にへたりこんでしまった。
 その顔を覗き込むように座り込めば、潤んだ瞳に睨まれる。酸欠なのだろう、乱れた呼吸はうまく言葉を紡がないけれど、その視線だけで非難と怒りは伝わってくる。
 でも、そんな表情は逆効果でしかない。
 思う存分貪った唇は赤く熟れて、仄かに汗ばんだ頬は薔薇色をしている。幼さの中から色気を引き出したのが自分である事に満足すると同時、その無意識の誘惑に屈しそうになってしまう。
 もうとっくに食欲より性欲の方が上回ってしまっているのに。
 呼吸を整えようと開閉する唇の奥、蠢く舌をもう一度絡め取ってしまいたい。
 そんな思いを隠すように、僕は口を開く。
「ただいま」
「……」
 場違いな一言に、梓の細い眉が目一杯顰められる。
 思い出の中の幼い少女が、少し擦れた現実の梓に塗り潰されていく。それは、甘美な、心地良い欲望と共に。
「僕の愛しいお姫様」
 顔を寄せて囁けば、耳元で梓が息を飲む。跳ね返った吐息が思った以上に熱くて、笑えてしまう。
 きっと意味なんて通じて居ない。ただ戸惑って、混乱した思考を繋ぎ止めるのに必死なのだろう。
 それでも梓という人間は、
「っの、変態っ!!!」
 手加減の無い張り手を僕の頬に炸裂させた。
 アメリカで一年を過ごした僕もびっくりするスラングを吐き出して階下に降りていく梓は、それでもやっぱり、


 ――僕の可愛い、お姫様。





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