01 始まりのくちづけ 02


「大樹……」
 ぽかんとした顔の中で、蕾のような唇が僕の名前を呼んだ。ドキリ、と胸が高鳴る。
 昔は、大樹ニィと軽やかに紡いだそれが何故だか不穏なものに映る。
 どうかしてる、と分かっていても。
「帰って来たんだ……」
 感動に乏しい声音。すぐに思い出したように靴を脱ぎきって。
 おかえり、と歓迎されるものと信じていた。走りよって抱きつく、なんていうのは小学校で卒業していたとしても。
「もう一年経つんだったね、そういえば」
 何でも無い事。もしくは、玄関に置いてある観葉植物でも見るような、冷め切った視線。
 温度差に戸惑う僕の横を通り過ぎて、リビングに入っていった梓に、千佳さんが話しかけているのが聞こえた。
「おかえり、大樹ちゃんは?」
「玄関」
 素っ気無いにも程があった。
 濃紺のセーラー服に、だぼだぼのルーズソックス。耳にはピアスが輝いてはいなかっただろうか。
 まさかの不良化? ギャル化? 反抗期か?
 中々戻らない僕に痺れを切らしたのか、リビングから顔を出した千佳さんが、振り返った状態のままの僕を見て、首を傾げた。
「そこで、何してるの?」
 千佳さんは梓の変化を何とも思っていないのだろうか。
 何、とも返せずに、僕は曖昧に笑って千佳さんの手招きに応えてリビングに戻った。
 そこで、またもや。後方から勢い良く頭をどつかれたような衝撃。
 梓はダイニングテーブルの椅子の上で胡坐をかいて、パックから直接牛乳を飲んでいる所だった。
 これにも、千佳さんは何て事ない顔。
「……何よ?」
 僕の凝視を煩わしそうに、顔を顰めて梓が言う。これまた、何とも返せない。
「えーと……」
 視線を泳がせて、かわりになる言葉を捜す。それはダイニングテーブルの上で見つかった。
「それ、お土産」
 梓の好きそうな、お菓子。チョコレート。くまのぬいぐるみは些か子供過ぎただろうか。それでも和成叔父さん向けの酒瓶と、千佳さん向けの香水以外は全部全部、梓の好みを思って買った。
 これには喜んでくれるだろうか、と期待した。
 少なくとも、僕の知っていた梓は、大手を上げて喜んだだろう。「大樹ニィ、大好き」って抱きついてくるオマケ付きで。
 梓はそれらを一瞥して、興味がなさげに「ああ」と言っただけ。触れる事も確かめる事もせず、ただ眺めた。それだけ。
 牛乳を飲み干した梓は、カウンターキッチンで夕食の用意をしている千佳さんに、
「母さん」
と声を掛けた。記憶の中の梓なら、ママと呼んだ。
「なぁに?」
「着替えてくるから、飯になったら呼んで」
メシ。女の子の口からメシ。とてもじゃないけれど、許容出来ない変化だった。一応社長という身分の親を持つ僕は、礼儀作法はしっかり教え込まれていて、梓に対してもそういう風に教育した筈だった。女の子だから、というわけではないけれど、言葉遣いは丁寧に、と。
 呆然と突っ立った僕の横をまたもや無表情で通り過ぎて、梓は階段を上って自室に入っていく。
「千佳さん……」
 毀れた声は情けない程。
「なぁに?」
「……アズコ、どうしちゃったの?」
「どうしちゃったって、」
 不思議そうに瞬きを繰り返す千佳さんが、続けた。
「あの子なりに、大樹ちゃんの居ない生活に慣れた結果じゃない」
当たり前の事のように言われても、納得できない。
「義姉さんは、大樹ちゃんの居ない生活に梓があっさり慣れた、なんて言ってたけどねぇ。大好きな大樹ちゃんに置いてかれて、あの子ったら酷いもんだったのよ、最初。頑張った結果が、あれくらいのぐれ方だったら許容範囲よぉ」
あ、やっぱりグレてるんだ、あれ。
 髪の毛染めたり、化粧しだしたり。時には夜遊びしたり、学校の授業をさぼったり。飛び出てくるそれらは、寝耳に水だ。誰の報告でもそんな事は聞いていない。千佳さんはそれらを、僕への当て付け、反抗だと言ってのけた。あえて僕の教えに背こうとしているのだ、なんて。
「寂しい?」
「――寂しいに決まってる」
「大樹ちゃんが一年も放っとくから悪いのよ」
「……ほっとかれたの、僕でしょう」
 先程まで梓の座っていた椅子に腰掛け大きなため息をつく僕の前に、移動して来た千佳さん。フリルのついたエプロンで両手を拭きながら、おかしな事を言ってくるから僕は目を瞬かせながら否定した。
 それに千佳さんは面白そうな笑顔を浮かべて、首を振る。
「ほっといたのは、大樹ちゃんよ。梓に全然連絡もくれないし」
「っそれは!」
「まあね、原因はママにもあるんだけど。毎日電話したら大樹ちゃんに迷惑でしょ、なんて言ったら、あの子素直なものだから……」
「千佳さんの所為だったの?」
「あら、だって。大樹ちゃんも梓離れしたいって話だったし」
「それはそうだけど、」
 矛盾した事をのたまって、千佳さんはまたキッチンに戻っていく。
「お互い自立した結果なんだから、受け止めてくれないとー」
 でも千佳さんの言う通りだったから、俺は二の句を告げずに黙った。
 僕が望んでいたのは、突き詰めていけば確かに、こういう関係。“普通”の、従兄弟としての関係だ。
 何時いかなる時も梓優先で生きてきた自分を、変えたかった。そうして普通に恋をして、結婚をして、自分の家庭を持つ――その為には、梓離れが必要だった。
 だから海外へ赴任して、梓の居ない生活を送る事にしたのだ。
 その結果が梓のあの態度なら、僕の計画は成功したと言って良いだろう。
 十も離れた従兄弟同士なら、価値観も違う、共通の話題も少ない。毎日一緒に暮らすような家族であっても、十も離れた兄弟であれば同じ筈だ。
 それでもこれがあるべき姿と受け止められないのは僕の勝手で、梓には全く非は無い。
 ――無いのだ。
 梓は僕の目標通りに、僕の手を離れて自分の人生を歩き出した。
 僕の居ない、僕の必要のない人生を。
 それが悲しい、寂しいなんて、どの口で言えるのか。
 結局一年を異国で過ごした僕は、梓の居ない生活に慣れる事なんて出来なくて、それ所か益々状況を悪化させただけだというのに。
 陰鬱な気分でため息を吐くと、食事の用意を再開した千佳さんはしたり顔で笑った。
「無駄な足掻きはよした方がいいと思うのよね」
 着々と食卓に並べられていく料理は、豪華だ。
 それをなんとはなしに眺めていた僕だけど、
「大樹ちゃんもいい大人なんだから、いい加減現実を受け止めてくれないと――さ、もうご飯だから、梓を呼んで来て?」
千佳さんに促されて立ち上がる。
 若干時差ボケのある感の僕を容赦なく使い走りにする千佳さんに全く異存は無いが、梓のブリザード級の冷たい視線をまた喰らうのかと思うと、動きは鈍くなる。
 むしろ視線すらくれないかも、と脳裏に浮かんだ考えが笑えたけれど、口元に刻んだ笑みは引き攣っていた。





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