05 お手上げです、きみには敵いません。 前編



 私には健の行動のほとんどが理解不能。
 電車を降りて駅を出てからも、健はほとんど何も言わなかった。言った事といえば、「どこ行くの?」と聞いた私に端的に「家」と答えて、「乗って」と自転車の荷台を指差したくらい。あとはこちらが荷台に跨ったのを見て、「飛ばすぞ」と言ったきり。
 何で、とかどうしたの、なんていう私の問い掛けは無視で、言った通りかなりのスピードで健の家のマンションまで辿り着いた。普段自転車で二十分かかる道が、十分だ。
 自転車置き場で乱暴にも思える動作で鍵をかけると、私の手首を引っ張って、エレベーターに乗り込み、七階へ。
 うろたえるしかない私の顔さえ見ない。
 なのに、家に入った途端。

 ――何がどうなったのか、本当に、理解不能。

 背中に固い感触。玄関のドアに押し付けられた後頭部から、じわじわと悪寒が這い登る。
 一度目も二度目も、その接触はわけがわからないままに、覚悟も出来ないままに、始まっていた。それは今も同じだったけれど、唇に触れた温もりをしっかり自覚出来る程、今度のキスは長かった。
 強く押し付けられて自分の唇に歯の感触が伝わる。
「ん」
 いきなり塞がれた唇に息が苦しくなって、鼻から抜けるような声が漏れた。
 その瞬間、下唇を歯噛みされる。ゆるく引っ張るようにして、口がこじ開けられる気がした。
 眼前には健の長くて繊細な睫と、整えられた眉のラインが暗い室内でも分かるくらい近くにある。鼻と鼻が触れ合って、外の空気に冷えたそれがひどく存在感を持って、今度こそ本当に、夢でも妄想でもなくて、ちゃんとキスを交わしているんだって。
 そう思ったら、心臓が大きく跳ねた。
 両手首は健の両手で掴まれていて、お互いの胸の間で強張っている。急速に働き出した脳が、その手に指示を送ったのだろう、思うより早く健の身体を押し返そうとしていた。
 けれど健の身体を引き剥がす所か、両手を肩の横に固定されて、更に身体が密着した。
 コート越しに心臓が圧迫されるぐらい、温もりも感触も伝わってはこないけれど、確かにそこに健の身体を感じる。
「んぅっ」
 ぬるりとしたものが唇を撫でて、驚く程熱いそれが隙間を縫って入り込むと、堪える力なんてあっさり無視して歯列が割られた。
ぐっと手首に力が入るのが早かっただろうか、舌が捕まるのが早かっただろうか。
 逃げるように巻いていた舌の裏を、健のそれが撫で上げると背筋にびりっと何かが走った。背を逸らしてみても背中は一ミリもドアから離れなくて、代わりに腰を突き出すような格好になる。ドアと腰の開いた隙間に、待ってましたとばかりに健の右手が滑り込む。
 腰を抱えられて更に密着する。
 空いた左手を抗議の為に健の肩にやったって、押し返そうと力を入れたって、男の力には敵わない。
「っ……んっ」
 反対の手も同じ。
 完全に健に抱きしめられながら、キスはどんどん深く激しくなる。
 唾液が混ざりあい、舌が絡み、口内で立つ音が耳に直接響く。
 顔が火照って行くのが分かる。
 角度を変える度、どちらの口からも荒い吐息が漏れ出て、もう何が何だか分からなくなってくる。
 脳内はパニックで、キスを気持ちよいと感じている私と抗おうとする私とが同時に叫んでいるよう。駄目、だとか、何でだとか、という声を凌駕するように、健の名が脳内を侵食していく。
 健とのキスは三度目。二度目はつい最近、それこそ挨拶みたいな――とはいえ、挨拶でキスする習慣なんて持ち合わせていないけれど――手を繋ぐ、の延長上のような、あっさりとしたもので。
 昨日まで、ううん、さっきまで。
 クリスマスというイベントに乗っても、考えられなかったような、恋人同士のキスが私と健の間で繰り広げられるなんて、想像もしてなかった。
 そんな雰囲気が生まれる日が果たしてやってくるのか、という疑問には、やってこないだろうと言い切れる程度に、私達の関係は進展を見せなくて。
 何時の間にか私の手は健の背中に回り、しっかりキスに応えている。
 身体は正直で、戸惑う気持ちなんてあっさり持っていかれる。
 どれくらいそうしていたのか、やっとで唇が離れた時には、口の中が奇妙に痺れて、至近距離にある健の唇はてらてらと光っていた。細い唾液の糸が、撓んで切れる。小さく、健の口角が上がった。
 頬に上がっていた健の手が、指先で私のそれを撫でる。
「……」
 温度差で吐き出した息は白く跡を残し、お互いの間で霞むように消えていく。その繰り返し。
 ごくり、と、喉を鳴らす音と一緒に、目の先で健の喉仏が動いた。
「理子、さ」
 掠れた声が、無駄に色っぽく感じるのは何でだろう。気分だろうか、空気だろうか。
「ああいう所で、ああいう事言うの反則」
「……え?」
「……可愛すぎ」
 健の親指が私の上唇を掠めて、まるで猫にするように顎を撫でていく。
 びくり、と大袈裟に肩が震えた。
 またくすり、健が笑う。
「思わず連れ帰っちまったじゃん」
 これは、健だろうか。私の知っている、健だろうか。
 何ていうか、非常に、似つかわしくない言葉を吐いている気がする。
「俺はさ、手を繋いでいるだけじゃ満足できません」
 大仰に肩を竦めてみせて、何故か敬語。揶揄するような言葉に、自分が駅で口にした恥ずかしい言葉を思い出して、羞恥に顔が燃えた。自分でも、まさかあんな事を言うとは思わなかった。考えているなんて、知らなかった。
「だって、」
 思わず言ってみても、続く言葉が無い。私自身衝撃的だったのだ。あんな、私にだって似合わない乙女思考。
「もっと、」
 私の言葉を遮って、健が顔を寄せる。
 余裕綽々、という感じの健が憎らしい。キス、というだけでも高いと感じていた壁を簡単に乗り越えて、当然と受け止めてしまっているような。
「触れたい」
 耳元で、囁かれてしまった。

 君は誰だっ!!

 って、脳内で冷静な自分が叫んだけど。
 言葉にする前に、再び唇が塞がれた。
 今度は、触れるだけ。感触を味わうように甘噛みされて、また離れて。
「なあ、今日、泊まっていって?」
 健のものとは思えない甘えた声音。ねだるようにしながら、拒絶を許さない心地よい低音。
 本当に、君は何者なんだ。
 善良とは言いがたいけれど、ストイックとも違うかもしれないけど、そんな事ちっとも興味がありませんって顔をしておきながら、それでもしっかり、男の人だ。
 それとも実は酔っていて、お酒の力でそんな言葉を紡いでいるのか。
 どちらにせよ、今目の前にいる健は普段の彼とは違う。
 そして私も、普段の私とは違う。
 ここにいるのは距離を掴みあぐねている二人じゃない。

 答えは、はっきりしている。

 傍に居られれば嬉しい。
 手を繋げれば幸せ。
 他愛も無い話をして、笑い合って、時には険悪になりながらも、一緒に居られればそれだけで。
 でも、でもね。
 私だって、もっともっと、触れたいと思うんだ。
 言葉にするのは恥ずかしいけれど、しょうがない。
 人を好きになるって、そういう事なのだ。
 頑固で天邪鬼な私だって、好きな人の前では素直でいたいって思う。
 私の苦手な恋愛漫画だって地でいっちゃう。

 私の動きを待ったままの健の首に、手を伸ばす。
 自分から健に抱きついて、それを答えにした。


――お手上げです、君には敵いません――





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