04 手を繋いで隣を歩けるだけで



 私と健の間の何とも言えない気まずさは、羽田の恋愛事情の前に霧散していた。
 どちらからともなく手を重ね、どちらからともなく駅への道を歩き出す。
「羽田の彼氏、どっかの坊ちゃん? どこで見つけてきたんだ、アレ」
 荷物は全部羽田に用意され、考える暇もなく車に押し込まれてしまった私は、手袋をしていない。健は元々手袋なんてしない主義。だけどお互い先程まで暖かい場所に居たから、繋いだ手は温い。反対の手は、鋭い寒さに容赦なく冷え始めていたけれど。
「従兄弟、なんだって」
 羽田のお陰で会話も尽きない。
「って事は、羽田ももしかして金持ち、とか?」
 何てったって、あのドレスだ。私達の年代には縁の無さそうな高級感のあるドレスを難なく着こなしていた。ベンツに恐々と乗っていた私と違って、羽田の様子はそれにも慣れきっていた。
「前に羽田の家に遊びに行ったけど、普通の一軒家だったから……良く、分かんない」
「ふーん……。あいつって、つくづく謎な」
 性格も意味わかんねぇし、と悪態を吐くように呟いた健に、思わず笑ってしまう。心なしか背を丸めて、空いている方の手をダウンコートのポケットに突っ込んでいる健は、睨むようにして私を見下ろした。
「お前、メシ食った?」
「食べた」
 先程羽田を乗せたベンツが通り過ぎていった交差点に出る。奥まった道路からそこに出ると、辺りが一気に華やかになった。もう一本向こうが駅前通りになり、こちらの道は居酒屋が犇いている。もうほとんどが店の中なのだろう、人影は少ない。ただ店のロゴの入った看板を持った店員らしい男の人がちらほら立って、時々誰かしらに声を掛けている。クリスマスっぽく彩られた外装が、眩しく映る。
 それを横目に見ながら、私達は信号を渡って駅前通りに向かう。
「羽田ね、」
 私はなんとなく、話を戻す。
「高校卒業したら、結婚するんだって」
「――はぁ!? 何で?」
 私にとっても衝撃的過ぎた話は、健にとってもそのようだ。驚きと疑いの混ざった瞳が、見開かれる。
 自室で羽田に聞いた話を、私は自分の中でも咀嚼するように話し始めた。従兄弟であり婚約者である彼氏さんの事。卒業と共にアメリカに渡って、二人で結婚生活を送る事。何て事ないように話していた羽田を思い出しながら、「すごいね」という感想で締め括った。
「……ありえねぇ」
 渋面で唸る健が、彼氏は羽田でいいのか? なんて失礼な事を言っている。
 そんな健のお姉さんの紀子さんだって、9月の中頃に十八歳でありながら女の子を出産した。去年の今頃、既に妊娠していた紀子さん――一個上の彼女だから、つまり、今の自分の年で妊娠、結婚を経験しているのだ。そういう人が身近に居ながらも、羽田の話に実感が伴わない。
「羽田をよろしく、ってさっき彼氏さんに言われてね? ちょっとびっくりしちゃった。なんていうんだろう、もう彼氏なんて次元じゃなくて、立派に家族っていうか。勿論、保護者っていう意味じゃなくて……」
「羽田は一生独身っぽいイメージがあったぜ、俺」
「……」
 また失礼な事を飄々と言ってのけた健だったけど、私もそれは否定出来なかった。けして行き遅れそう、という事ではなくて、彼氏という存在を煩わしく感じてそうだったから。羽田なら一人でしっかり根を張って生きていきそうだな、とか思ってしまう。
「羽田と同じレベルの人だったら、彼氏でもおかしくないんだろうなって、私は思ってたな。でも、あの彼氏さんは羽田を越えるスペック持ってるよ」
「スペックって」
「でも、羽田の隣に制服着た彼氏って違和感無い? スーツの年上が彼氏って言われて、ちょっと別世界過ぎたけど、私は納得した」
「ああ、まあ確かに」
 実は先日、羽田に彼氏が居るという話を聞いた時には、その彼氏像がちっとも想像出来なかったのだ。まさか年上なんて――出会いの場もそうないわけだし――思わないわけで、必然的に想像上の彼氏は同じ高校だとか中学校の同級生だとか、同じ年代の高校生男子だった。それはそれはしっくり来ない組み合わせで。
 なんて事を話していたら、あと数十メートル先がもう駅だった。ロータリーの垣根に、申し訳程度のイルミネーションランプが飾られているだけの、小さな駅だ。右手に無人の交番、左手はコンビニと学習塾の入ったビル。
 繋いでいた手をいったん離し、健はカード型のスイカを、私は携帯電話を取り出す。私のスイカは携帯の電子マネーを利用しているのだ。
 改札を通り抜けて、また自然に手を繋ぐ。
「理子、下りの駅のさ、駅前の巨大ツリー見た?」
 健の手に引かれるままに、私達は下りのホームへ向かう。羽田に車で送ってもらってきたので、実は駅につくまでここが何市なのかも分からなかった。普段使わない駅からは、私の家も健の家も下りの電車だ。私は二つ下った後、別の路線に乗り換える。
 当然のように普段利用しない路線上の駅なんて見ているわけがない。私は「ううん」と首を振った。
「来る時電車ん中から見てさ。ビルの二階分くらいあるツリーと、通りのクリスマスイルミネーションがすごかったんだわ。時間あるなら、見てく?」
 散々クリスマスのデートを拒否していた私だけど、悩む暇もなく頷いていた。首肯してから、これってデートみたいじゃないか、と少しだけ怯んだ。今日はそういうつもりも無かったし、何もしなくていいと念を押していた手前、ばつが悪い。
 羽田に乗せられる形であったものの、なんだかんだ自分は気合の入った勝負服になっているし、今更ではあるけれどクリスマスイブという日に今こうしているのが気恥ずかしく感じてしまった。
 隣を見上げてみれば、健は何時もの顔で進行方向を見据えている。額から高い鼻梁、白い息を吐き出す薄い唇、顎までの綺麗なラインをした横顔は、ともすれば不機嫌にしか見えない何時もの無表情。
 まるで最初からデートの約束をしていたかのように、突然の来訪もあっさりと受け入れ、クリスマスの雰囲気を一緒に味わおうとしてくれている。
 何もしなくていい、会えなくて構わない、そんな風に、拒絶した日。
 それは本音ではあったが、半分以上はただの意地だった。やっぱり初めてのクリスマスはそれなりに楽しみで、特別な事など何もない普通のデートで構わないから、一緒に居たいと思った。
 でもそれを言葉にしなかったのは自分で。
 健の性格を言い訳にしてただ安穏と当日を待とうとした結果、部活の事情に邪魔をされ、勝手に拗ねたのも自分で。
 少しでも時間を作ってくれようとした健を、拒絶したのも自分だった。
 結局のところ私は、クリスマスイブという日に過度の期待をしていたのだ。それが、特別でなくなってしまう事が――中途半端になってしまう事が、どうしても許せなかった。
 結局特別なことなんて何もなくて、クリスマスイブももう二時間程で終わってしまう、という状態にあっても、こうやって健が隣に居てくれる状況が、嬉しい。
 何だかんだ言いながらそう思ってしまっているから、なにやら恥ずかしくもあるのだ。
「でも、バスケ部の方大丈夫だったの?」
 権が隣に居てくれる、という状況に、ふつふつと心の底から沸きあがって来るのは喜悦だ。我知らずにやけだす顔を隠す為に、私は話題を捻り出す。
「あー。なんか邪魔者扱いされたわ」
「え?」
「何時までいんの、とか。菅野さんいいんですか、とか……あの酔っ払い共、好き勝手言いやがって」
「えぇ?」
「自分らで引っ張って来たくせに、っつーんだよ。ぜってぇ明日の部活で仕返ししてやる」
 憎々しげに歪む健の唇を見ながら、それがどこまで真実なのか考えてみたけど、その場に居なかった私には想像及ばない事だった。
「そういや、あの店さ」
「うん?」
 健の表情は、くるくる変わると思う。以前なら区別出来ない程の、微妙な変化。不機嫌そうに寄せられる眉は恐らく癖にでもなってしまっているのだろう、それは何時も変わらないのだけれど、器用に動く唇とか表情豊かな瞳だとかが、くるくると変化する。先程まで怒気を湛えていた茶けた瞳は、今は面白そうな色を帯びていた。
 困った事に、見惚れる瞬間が増えていて、戸惑う。
「今日、借りてた店。日向の先輩の店だって、この前言ったじゃん?」
「ああ、言ってたっけね。日向君の中学校の時の先輩、なんだっけ?」
「つーか、知り合い? どう見ても年の差が五つじゃきかねぇんだよな。それになんつーか、こう……貫禄があるっつーのか。なんか、ヤーさんみたいな雰囲気がなくもなかった」
「……は?」
「日向も謎なんだよな、色々」
 日向君にやくざの知り合いなんて、想像もつかない。幾らなんでも、それは誇張しすぎじゃないと笑えば、健の眉間が更に険しくなる。
「お前も会ってたら分かるっつーの」
 くすくす、笑い出したら止まらなくなってしまった。
「……何笑ってんだ」
「ううん」
 答えになっていない反応を返して、また一人、喉奥から笑いを繰り返す。
 突然、面白くなってしまった。
 出逢った頃は、こんな風に何気ない会話を続けられるとは思わなかった相手が、今隣に、当たり前のように居るのだ。人を馬鹿にするような笑い方、無駄に人を威嚇する鋭い目、何時も不機嫌に寄った眉、嫌みったらしい口調に揚げ足を取る言葉。言葉尻は何時も奇妙に跳ね上がる。そのどれもこれもがこちらを腹立たしくさせた。第一印象は、気の合わないむかつく男。絶対仲良くなれっこないって、思った。
 そんな相手が、今は自分の彼氏だ。
 あの頃の健の態度が、防波堤だったって今は分かる。女、というだけで、遠ざけていた頃の健。
 一度懐に入れてしまえば、際限なく優しい。友達の頃は友人に対してのそれ、彼氏になれば彼女に対してのそれ。
 こんな風に笑いあえるなんて、あの頃は一ミリたりとも思っていなかった。
 私は思ったままを素直に、健に告げる。
「最初はね、こんな風に一緒に居るなんて、想像も出来なかったから、」
「あ?」
 苛立った声に、やはり笑ってしまう。これは拗ねてるのだって分かってきた。
「健の言動は何時も腹立たしくって。むかつく反面、君の言葉ってストレートすぎて、やっぱり辛かったり悲しかったりもしたのね」
 どうでもいい、と思っている相手でも、言われる言葉の鋭さに傷ついた。だから尚更、好きになれなかった。
「それなのに、好きになって。今こうして一緒に居て。こうやって手を繋いで隣を歩けるだけで、幸せだなんて思ったり、」
 おかしいなって。最後は囁くような言葉になった。白い息と一緒に、電車の到着を告げるアナウンスが流れる構内に、淡く溶けた。
 目を見開いて固まる健に、自分から飛び出た素直な言葉に自分自身も驚いた。
 好き、とか。
 幸せ、とか。
 自分は何てこっぱずかしい事を言っているんだろう。
 誰が見てたり聞いてたりするわけでもないけれど、こんな場所で、自分は一体何を。
 菜穂じゃあるまいし。
「あ、の……」
 心臓が一際大きく高鳴って、そこから上へ熱が昇ってくるような気がした。首から頬、脳天へ、熱が駆け抜ける。恐らく自分の顔は今、この冷気の中異常な程に赤くなっているのじゃないだろうか。
 見下ろしてくる健の瞳は、瞬き一つしない。
「あの、そのね?」
 混乱してしまって、上手く言葉にならない。
 掌がじとり、汗ばんでくるのを感じる。
「っ、あの」
 酔っている、なんて言い訳は、今の自分には出来ない。
 手を繋いで隣を歩けるだけで幸せって、何だ。何て乙女な言動だ、自分!!
 健の向うから、速度を緩めた車両が目に入った。すぐに目の前に迫って、通り過ぎて、止まる。
 その瞬間、健の唇が動いたけれど、開閉音のせいで聞こえなかった。
 ぐいっと手を引かれ、車内に入り込むと電車独特の空気が肺に入り込む。空いている座席には座らず、迎いのドアに一直線する健を、戸惑いながら見つめる。
 健の目線は、絶えず前へ。
「……」
「理子」
 こちらを見ないまま、健が静かに呟いた。
「行き先変更な」
 そう言った後は、黙り込んでしまう。先程まで楽しく続けていた会話は、止まってしまった。
 いきなりの変化に、私は対応できない。自分の恥ずかしい言動を、健は一体どう取ったのか。きゅっと引き締まった健の表情からは何も分からない。
 私はただ焦るばかりの胸の内で、健の言葉の真意を探る事しか出来なくて。

 それから巨大ツリーは車内から覗き見るだけで終わって、結局下りたのは、健の家の最寄駅だった――。





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