02 幸福なくちびるの持ち主 前編


 健と彼氏彼女のお付き合いをするようになってから、実家で夕飯を摂る事が少なくなっていた。お姉さんが結婚してからの健は、仕事人間の父親と二人暮らし。だけどまあ仕事第一主義のそのお父さんが家に帰るのは、うちと同じ様に深夜である事がほとんどで、そうすると健はほぼ一人暮らしと変わらない状態になっている。
 健と付き合いだした、とうちのママに知れたのは夏休み直後の事。学校帰りに送ってくれた健を無理矢理引っ張り込んだママは、その勢いで無理矢理に夕食をご馳走し、健の家の事情を聞くなりこうのたまった。
「あら、じゃあ理子、ご飯作りに行ってあげなさいよ」
 普通はうちの夕食に招待するものじゃないか、と、言われた私は呆気に取られながらそんな事を思った。一応は年頃の娘を持つ母親として、そうホイホイ男の家に行かせるものでもない、のじゃないか、とか。
「ケン君、部活で毎日帰り遅いんでしょう? ご飯だって遅くなっちゃうじゃない」
 まだ私が健の事をケン、と呼ぶ事が出来ずに居た頃。簡単に健の下の名前を呼ぶママが羨ましくもあり、若干恨めしくもあった。
 兎に角そんな風に提案された健の方も、箸が止まっていた。
「時間は、まあ、しょうがないっすね。学校帰りに腹が空いちゃうんで、大抵コンビニか外食になっちゃいますし」
「それじゃあ栄養偏っちゃうでしょ?」
 駄目よ、成長期の男の子が、と、同じ年の頃の兄貴の外食込みの夜遊びには文句一つ言わなかった人の言葉とは思えない。
「いいじゃない、作りに行ってあげれば。新婚気分で、楽しいかもよ!?」
 キャー、と何故か興奮し始めたママを私は慌てて止めたけれど、ママの妄想は果てしなかった。
「ママ、若いおばあちゃんになるのが夢なのよねぇ」
 飛躍し過ぎだし、言われているこちらは恥ずかしいを通り越して突拍子も無さ過ぎて、反応出来ない。絶対おばあちゃんなんて呼ばせない、栄子さんって呼ばせるんだ、とか。男の子もいいけど、女の子も捨て難いわぁ、とか。そんな孫談義に一人花を咲かせていた頃に健のお姉さんがもうすぐ出産、という話を思い出して、生まれたらママにも写真を見せてねぇ、と話が別の方向に流れた。何時もの私とのご飯中はローテンションなくせに、と悪態を吐きながも、自分達から話が離れてくれて良かった、と食事を再開したのだけれど。
 またしても、振り出しに戻る。
「ケン君、好き嫌いあるの?」
「いえ、特に……」
「あらぁ、じゃあ作り甲斐があっていいわね。ねっ理子!!」
「――っていうか、高橋にも迷惑でしょーが! 大体、私が作りに行っても、ご飯食べる時間は遅いし、意味ない!」
「じゃあうちに呼びなさい」
 この時、この人に何を言っても無駄だと思ったのは、私と健共通しての想いだったと思う。目配せし合った私達は、この会話を終える為に団結した。
「まあそれだったら……」
「じゃあたまには、ご馳走になっていいっすか」
「勿論」
 上機嫌に笑うママを見て、安堵の吐息をついてみても、話には続きがあった。
「たまになんて言わないで、毎日でもいいわよ。理子が腕を振るうからね!」
 別に作らない、というわけではないけれど。
「はあ!? 何で私?」
「だってママ、理子とのご飯飽きちゃった」
「意味分かんないよ!?」
 脈絡の無いママとの会話に、ヒートアップする私。目を見開いて固まる健。拗ねたように唇を尖らす、いい大人のママ。
「だからぁ、ケン君がうちにご飯食べにくるでしょ? で、理子がご飯を作るじゃない? 若い二人がイチャイチャしている間に、ママもパパとイチャイチャしてくるの」
 仕事人間のパパは残業続きの午前様な毎日。家に居る時間より会社に居る時間の方が長くて、夕飯に間に合えた事なんて皆無。会社に泊まる事だって少なくない。自分も結婚前は仕事大好きのキャリアウーマンだったママはそんなパパにも寛容で、普通だったら離婚していてもおかしくない家庭状況もあまり気にしていない。だからといってお互いに対する愛情が薄いわけでも無いママとパパは、「子供が成人したらパパも仕事をやめて、二人でのんびり過ごす」っていう――決定事項がある。その為の蓄えも十分と言う話だ。
 そんな状態であるから、私が健と食事を取ってくれれば、ママも気にせずパパと夕食を取りに行ける、という主張。会社の近くであれば数時間抜けて食事も出来る、という事みたい。
 言われた当初はママの勝手な妄想、と切り捨てていたのだけど、私自身が家で夕飯を食べる事もまちまちになってきて、結局ママは結構な頻度でパパとご飯を食べる習慣が出来ていた。
 そんなこんなをして、健との付き合いが数ヶ月にもなると、お互いの家への行き来も普通になりだして。
 特別予定が無ければ、平日の夜は健がうちに寄っていくのが当然になっていた。
 この日も、そう。
 ママの居ない家に二人きり。寒くなってきたから、と鍋を囲んだ後、赤点常連の健の勉強を見ていた。テストが迫っているのだ。
 普段であればママが帰ってきてもおかしくない時間。帰ってくるのが当然と思っている私達は、だから時間の経過には無頓着だった。
「――ねぇ、九九からやり直す?」
 健の一番苦手な教科が数学で、これに関しては中学校レベルにも及ばない。問題集の途中で中々進まない筆に参考書を眺めていた私がふと手元に目をやれば、一応それなりに考えてます、といったような計算式が幾つか並んではいたのだけれども。「どうしたの」と聞いてみれば、「何度やってみても答えが違う」と頭を抱えている。つまりは解を求められている問題だったのだけれど、どの計算式でも答えが一致しないのだというのだ。それは当然、どの式も掛算、割り算の時点で間違っている。
 二年生の冬の時点で推薦で大学に進める事がほぼ決まっている健だけど、一応は来年受験生という括りに入る。それがこんな状態でいいのか、と驚いてしまう。そんな事を言ってしまえば「頭の作りが違う」と不機嫌になられてしまうから言わないけれど、進学校でもないうちの学校の授業はそう難しいものではないと私は思っていた。
「……休憩にしねぇ?」
 言い返す気力も無いのか、唸った健が机に突っ伏して言う。その様子が何時も自信満々な健と違って新鮮で、私は何時もついつい笑ってしまう。
 口元を綻ばせながら首肯して、何気なく時計に目をやった。
「――え?」
「うぉ、もうこんな時間!?」
 二人して驚いてしまった。勉強を始めてから、二時間が過ぎた夜の10時だ。終電には時間があるものの、9時には帰っているママが今日は何の連絡も寄越して来ない。時間よりもそちらが気になってしまった私と、健も一緒だったようだ。
「栄子サン、遅くね?」
 おばさん、とかお母さん、とか呼ばれる事を嫌うママが強要した結果、健も栄子サン呼びに慣れている。
「電話してみる」
 すぐさま携帯を手にしてリダイヤルからママに電話をかければ、健も耳を寄せてくる。プルル、と呼び出し音が鳴る事に安心しもし、不安にもなる。電波の繋がる状態で、電話が出来ない状況にあるのか、と。
 不安を煽るように呼び出し音は鳴り続ける。
 もしかして事故にでもあったのではないか、と表情が曇った。
『はい、もしもしー?』
 なのにやっとで繋がった電話口からは、ママの明るい声が返ってきた。
「ちょ、ママ?」
『あら、理子ー?』
 酔っ払っているようでもないけれど、奇妙なハイテンション。雑踏とも駅構内とも違う、どこかの店とも違う、背後の音は静か過ぎる程。
「今、何処にいるのよ?」
『え、パパの会社』
「何してんの?」
 意味が分からなくて、健と顔を見合わせて首を傾げた。健も健で状況が掴めていない、という顔。
『んー、ご飯の最中、パパが会社から呼び戻されてね? 至急帰って来いって何か焦ってたから、ママもついて来てみたんだけど』
 そこは気を利かせて帰ってこい!!
『トラブルがあったみたいで、大変そうだったから。ママ、お手伝いしてるのよ』
 一般会社と違って個人経営の会社だから部外者の出入りにはそこまで五月蝿くない。その上パパママ共通の知人が社長さんの会社で顔見知りだ。加えて言えば、ママはその会社の過去のエース。猫の手も借りたい程忙しい中にあって、アルバイトや新人よりもよっぽど役に立っている、とはママの言。
『久しぶりだから、ママ楽しくってー』
 通常の繁忙期でも無い、トラブルでてんやわんやの中、楽しいなんて言えるのはママくらいのものだろう。とりあえず事件や事故に巻き込まれたわけでもなく無事なのだと分かればほっとはするが、
「それならそれで電話の一本くらいくれないと心配するでしょー?」
『あらあら、良く言うわぁ。こんな時間まで気にもしなかったくせにー』
 まるでこちらの様子を覗いてでもいたような笑い声に、詰まってしまう。
『どうせケン君とイチャイチャしてたんでしょう?』
「してませんっ! 勉強してたの!!」
『あら、そ? ねぇ理子、ケン君そこに居るの?』
「え、居るけど?」
『代わって?』
 何この人、と呆れていいのか怒っていいのか悩んでいる間に、横合いから携帯を掻っ攫われる。ふ、と顔を上げれば神妙な顔の健が電話に出る。
「心配したんスよ」
って、今の今思い出したばかりだったけどね!
 ママのテンションが一気に急上昇したのが分かる、受話口から漏れる声の高音さ。
『ごめんなさいねぇ、ケン君。ママもケン君にすぐにでも会いたいんだけど!』
 娘に対してと態度が違いすぎませんか。いじけながらも、今度は私が健に寄り添って携帯に耳を近づける。
『……まあそんなわけで、ママ今日帰れないわぁ』
「「……は?」」
『良かったら、ケン君泊まってっちゃって。思う存分イチャイチャすれば良いわよー』
 毎回毎回イチャイチャイチャイチャうるさいママ。こちらをからかう下品なにやけ面が思い出されて顔を顰めた。何を言い出すんだ、って無駄に焦るのはこちら側だけ。こういう行き過ぎた会話はママの十八番みたいなもの。もう聞き慣れた事ではあるけれど、健と一緒に居る時は中々に危うくて反応に困る。
 目が合った瞬間、曖昧に笑いながらさり気なく視線を逸らす私と健。
 この、微妙な居心地の悪さ。非現実過ぎる会話でも、意識しないわけにもいかないのだ。
 恋人として隣に居る状態に慣れても、イチャイチャなんて夢のまた夢。
 こちらが無言でいたって、ママは気にしない。
『ママ、やっぱ女の子希望ー』
 って、好き勝手言って、返事を返す間も無く、ブツリ、と電話が切れた。
 一秒置いて健が携帯を返してくる。困ったように項を掻く何時もの癖。
「栄子サンはマジにぶっ飛んでんな」
 手渡された携帯を掌の中で転がしながら、私は俯いた。電話を聞くために寄り添った身体は、今となっては無駄な緊張を呼ぶものでしかない。
 勉強に戻る気にも、休憩を続ける気にもなれない、気まずい沈黙。
「あー……」
 会話が続かなくて困ったようにもう一度顔を見合わせた後は、やっぱりすぐに逸らして、お互いさり気なさを装って身体をずらす。勿論、さり気ないわけないんだけど。
「まあ、明日も学校だしな……」
 だから何とも言えない呟きに、応えられる筈が無い。そうだね、とも大丈夫だよ、とも言えない。どちらを口にしても、やはり気まずい。だからこそ、関係ない事を口にしたつもりだった。
「もう、勉強する感じじゃなくなったね」
 ああ、でもこれも考えようによっては先を促すような言葉だ。健が口を噤んで、お互い何となく顔を見れないまま。
 かちこち、時計の秒針が進む音だけが響く。それに重なるようにして、自分の心臓の音も聞こえる。
 意外とあっさり【手を繋ぐ】という行為は経験したけど、それ以上の進展がない私達。一緒に居る時間は長くても、毎日のように二人きりになっても、そこから先がお互いにとっては難関で。雰囲気もあるし、意気地が無いのもある。
 でもきっと、それだけじゃない。
 その件に関して、健がとう考えているのかは私には分からなかった。
 だってずっと、健は恋愛に疎いと思ってきた。気持ちがあるだけの、友達付き合いの延長なんじゃないかって、そんな予想があったから。
 だから夏祭りの夜、簡単に手を繋がれたのには驚いたし、海水浴場でナンパされた時に【俺の彼女に何か用】なんて言って退けてくれるとも思わなかったし。
 イベントで盛り上がるなんてベタな事も、あるんだか無いんだか分からない。
「あー……」
 身動ぎした健が、わざとらしく伸びをして。
「俺そろそろ帰っから、戸締りしっかりしろよ?」
 微かに笑ってみせた健が、テーブルの上に広げていた筆記用具と教科書類を鞄に仕舞い込むのを、安堵と残念な気持ちで見守る。
 ママの尻馬に乗ってイチャイチャするのは癪だけど、これはこれで寂しいなんて感じてしまう。
「うん」
 上手く笑い返せたかは分からない。健は片眉を上げて、もう一度項を掻いた。
 その後は、早い。寛げていた学ランを閉め、コートを羽織り、マフラーを巻いて玄関へ一直線。その半歩後を続きながら、玄関で靴を履く健の背中を見つめる。自分のそれとは違う広い背中を物悲しい気持ちで眺める。
「そんじゃ、」
 振り向いた健に、うんと頷いた。苦笑を交わして、ドアを開けていくのを見る――けれどそれが閉まった時、まだ健は玄関に居た。
 突然伸びてきた健の手が、私を上がり口のフローリングから玄関のタイルの上へ引き摺り下ろす。
 触れたのは一瞬。高橋の前髪が私の顔にかかって、すぐに離れた。
 何時かの屋上でのそれと同じ、覚悟も予想もしていない間にあっさりと触れただけの。
「……また、明日な」
 優しいキスをくれた男は、今度こそ身を翻した。





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