01 一番じょうずに甘やかすひと


 最近、高橋が不機嫌だ。
 ……というか、素っ気無い。
 羽田に散々からかわれた付き合い出した7月から、彼女が「つまらない」と言う程何事もなく安定していた私達の付き合い。夏の間は高橋は何時も通り部活に忙しかったけれど、全国5位という快挙を成し遂げたインターハイの後、夏休みの後半は海水浴やプールに出かけたり、夏祭りに行ったりとそれなりにデートも楽しんだ。9月に入って新学期が始まると、3年生のほとんど抜けたバスケ部の副部長となった高橋はそれまでに増して部活に夢中だったけれど、それでもメールや電話は頻繁にしていた。
 ――そのメールが10月に入った頃から、ひどく素っ気無い。
【明日のお弁当、何がいい?】
 週の1日は皆で食べるお昼、2日は高橋と、もう1日は従兄弟の雪と食べる。高橋と食べる日だけ、私は自分の分と高橋の分のお弁当を作るようになっていた。
 だから、何時ものように二人での昼食を翌日に控えた夜、私は高橋にメールを送った。
 相変らず私はメールが苦手だったけれど、それは高橋も同じで、お互いのメールを見返すと殺伐としている。デコレーションや絵文字を使わないから、本文は何時も一色。短い文章のやりとりをして、しばらくするとメールが面倒になって電話してしまう。それが私達の連絡の取り方。
 お弁当の中身に対しては、ほとんど一人暮らしに近い高橋は食事が偏ってしまいがちだったから、アレが食べたいコレが食べたいとリクエストしてくる。この時だけは絵文字を使う事もあったし、『にくじゃが』『ポテトサラダ』『たこウィンナー』などの端的なものではあったが、文字数が半端なく多くなる事もある。
 それなのに先程送ったメールの返信は
【何でも】
と、これだけだった。
 ディスプレイを見ながら、私は固まってしまう。
 時々、何でもいいと言われる事はあった。でもそういう時のメールは【何でもいい】と返ってくる。【何でも】だけじゃなくて、【いい】までついてくる。そんな些細な違いなのだけれど、最近の高橋の態度を考えると、この【何でも】という4文字を普通に受け止められない私がいた。
 私にとってのこのお弁当要望メールは、いわば切欠に過ぎない。高橋の好きな料理をなるべく作ってあげたいという気持ちはあるけれど、その後に会話を続けたいが為の、電話に持っていく為の、手段でしかない。それは高橋も分かっているのか、料理の要望の後に【今何してんの?】だとか、【部活疲れたー】だとか、こちらが返信し易い話を振ってくれる。
 それがここ最近、けしてメールを無視されるわけではないけれど、ちっとも話を膨らます気の無いような短文しか返ってこないのだ。
 そして、電話も。かければ出てくれるのに、あちらからかけて来る事が無い。出たら出たで、テンションが低い。相槌は適当だし、不機嫌だ。バスケの話を振ればもういいよってくらい次から次へと話題を展開してくる筈の高橋が、その話にも食いつかない。
 お昼の時間だって、一緒に並んで取っていても、会話が続かなくて無言になる事が多い。
 目が合うと、不機嫌そうに逸らされる。
 やたらと舌打ちをする。
 見るに明らかな不機嫌さに、私はやたらと居心地が悪い。

 ――原因が私にあるからこそ、殊更に。

 原因が分かっているならそれを取り除けばいい、という話だけれど、私はどうしてもそれが出来ないでいた。
 他人から見たら酷く簡単で、容易に取り除ける事。
 誰かに相談してみても「何それ」と呆れられる事が分かっているから、誰にも言えないでいる。
 私だって本当は、高橋の機嫌が直るなら、そうしたい。
 でも、どうしても、【ソレ】が出来ないでいた。

 携帯のキーボードを叩いて、文字を打ったり消したり。せわしなく動くのは指だけで、送信ボタンが中々押せない。
【ごめんね】
 の一言では解決しない。
 分かっているから、ため息しか吐き出せない。
 結局私はその後に返信する事が出来なくて、携帯を折りたたんでベッドの上に放り投げた。羽毛の上でバウンドした携帯は、布団に沈むようにして視界から消える。
 何度目か知れない嘆息。
 その日、の出来事を思い返してみる。
 部活帰りの高橋を待って、スーパーで食材を買って、高橋のマンションへ向かった日。ご飯を作って、二人で食べて、リビングでお笑い番組を見て、笑っていた。
 調度CMになった時にテーブルに出しっぱなしだった食器を片付けようと立ち上がった私の手首を、高橋が掴んだ。ドキリとして振り返れば、眉間をきゅっと寄せた高橋の顔。「何?」と聞く前に、高橋が口を開いた。
「なあ」
 さっきまで気持ち良く笑っていた筈の高橋が、若干不機嫌で困惑した。更に続いた言葉に、戸惑った。
「俺は何時まで高橋なの?」
「……え?」
「だから、呼び方。いい加減名前で呼ばない?」
 まさか下の名前知らないとか言わないよな? 嘲笑するようでもあり、寂しそうでもあり。片頬を上げて笑う何時もの皮肉口調が苛立ったものにかわる。
「知ってる、よ」
「じゃあ呼んでみろよ」
 手首にかかる力が強くなって痛んだ。無骨な指が食い込む気がした。
 逃さないように真っ直ぐに見つめてくる瞳を、私は逸らしてしまう。
 高橋健。健康のケン。その名前を呼び捨てる事は、特別の証の気がした。
「……呼ばない」
 動揺を隠す為に引き結んだ唇から、飛び出た声は抑揚が無い。
「……何で」
 倣うように高橋の声も無機質だった。私が黙ったままでいたら、高橋が焦れたようにもう一度、「なあ、何で」と聞いてきた。
 私は答えられない。
「……何でも」
 手首を引っ張られて高橋の隣に座らされながら、ぽそり、呟く。何時の間にか再開していたテレビの画面では笑い声が響いているのに、その外側には重苦しい空気が漂っていた。
 高橋の凝視を頬に受けながら、俯いてしまう。
「……あっそ」
 つかまれたままだった手が離されて、そうさせたのは自分のくせに、胸がツキリと痛んだ。細い針で心臓を直接刺されたみたいで、鋭い痛みの後に思わず涙が出そうになってしまった。
 私達は極端に言葉が足りない。それに納得してないくせに、納得した振りして引き下がったりして。引き下がったものの不愉快を隠す事もなく態度に出してしまって、相手を苛立たせる。そう分かっているのに、相手の言葉を邪推して勝手に怒ったり悲しんだり、付き合う前からそうだった態度を変えられないでいる。
 もう少し問い質してくれたら、理由を話せるかもしれないのに、なんて、明後日の方向に向きをかえてしまった高橋の背中を見ながら思った。
 自分勝手でどうしようもない考えだ。
 けして呼びたくないわけでは無い。
 なのに呼べないのは、どうしようも無い事に執着しているせいだ。
 特別の証を、自分だけのものに出来ないのが、悔しくて遣る瀬無い。「ケン」と彼を呼ぶ対象が、自分だけで無いのが切ない。そんなどうしようもない事を気にしてしまう私がおかしくて、でも私は頑固だから、出来ないと思ってしまったらそれを覆せない。
 そんなしょうもない理由を、高橋に言うのも躊躇われた。
 馬鹿みたい。
 全く、その言葉に尽きる。
 ――そんなこんながあってから、高橋はずっと機嫌が悪い。
 明日の昼食を憂鬱に思う権利なんて私には無い筈なのに、そんな気分を抱いて、私はまたため息を落とした。



 お昼休みの廊下をとぼとぼと歩く。手には二つのお弁当箱が入ったミニバックを提げている。
 高橋とのお昼は、体育館裏で取るようにしている。そろそろ外気が厳しいのでもう暫く外で取ったら教室なり体育館の中でとるのだろうと漠然と考えている。
 重い足取りで目的の場所に辿りつくと、すでに高橋の姿。こちらに気付くと仏頂面ながらも頷いて、隣の空いたスペースに彼が買っておいてくれた紙パックのジュースを置いた。教室からここまでに自動販売機が設置されているから、飲み物を買うのは高橋の役目なのだ。私のフルーツジュースと、高橋は炭酸飲料。
 促されて隣に座って、お弁当を渡す。奇妙な沈黙の中、お弁当箱が開かれる。
「いただきます」
って、どんな時だって口にする高橋に、仄かな緊張感が霧散して思わず微笑んでしまった。こういうちょっとした礼儀みたいなのが身についている高橋が、とても好きだ。
「いただきます」
 続いて、私もお弁当に手を出す。
 卵焼きに、鳥のから揚げ、煮豆のサラダとオーソドックスなものと、高橋の好きなシャケの焼き魚。それから海苔を乗せた白いご飯。次々と高橋の口の中に消えていくそれらを見て、ホッとする。
 会話がないせいで、食事のペースだけが早い。ものの数分で全てを平らげた高橋が、両手を合わせた。
「ごっそーさん」
 こちらがまだ半分も終わっていないのに、お弁当箱を片してパックジュースをぐしゃ、と潰して、片付けに入っている。それからすぐ裏にある体育館の扉を開けて、靴を脱いで上がってしまう。
 いつ用意したのか、転がっていたバスケットボールを手に、いそいそと練習に入ってしまう高橋を呆気なく見送った。
 何時も、お昼休みの後半はこうだったけれど、それでも私が食べ終わるまでは待っていてくれたのに、と残念な気持ちが湧いてくる。
 それも、気まずいのも、全部自分のせいだって分かってはいるけれど。
 コンクリートの段差に斜めにかけながら、リングにボールを放る高橋の背中を、眺めていた。途中で暑くなったのだろう、上着を脱いで袖まくりした男が、飽きもせず何度も何度もシュートを繰り返す。綺麗な曲線を描いてリングを通過するボールが、ネットを揺らしてバウンドする。
 拾って、シュートの繰り返し。
 食事を終えても、私は動けないし、話しかけられない。ただ、体育館の中の高橋を蚊帳の外で見つめているだけだ。
 その内戻ってきた高橋と一緒に教室に戻る。
 高橋は何も言わない。ただジャケットを肩に羽織って一歩前を行く。
 何時か呆れられてしまうんじゃないか。沈黙に不安を感じて、渡り廊下を歩く高橋の背中を見ながら、私は小さく言葉を投げる。
「あの、さ」
 高橋、と呼ぶのは極力避けるようにしていた。高橋、と呼ぶ度に端正な顔を歪めるから、それが怖くて。
「何」
 振り返らない高橋の、冷たい声。無視されないだけ嬉しくてほっと一息。
「今日、一緒に帰れる?」
 一緒に居れば居るで、気まずい空気に堪えられなくなる。だけど、一緒に居られないのは寂しいし辛かった。
「部活」
 素っ気無い一言だけが返ってきて、私の心臓が絞られる。
「待ってる、から」
 窮屈な胸に、我知らず手を当てる。ブラウスがくしゃりと歪んで、温もりと一緒に自分の心臓の音を拳に感じた。
 俯いた私の前方から、小さくため息。
「別に、いいけど」
 それが肯定なのか、否定なのか分からなかった。待たなくて【いい】のか、待って【いい】のか、すぐに判断が出来なくて何度か瞬く私の前で、ゆっくり振り返った高橋が、困ったように項を掻いた。
「教室で、待ってる?」
「……うん」
 振り子の人形のように、こくこくと頷くと高橋が喉の奥で笑って、それから右手を差し出してきた。ジャケットを持つのとは反対の手。
 その意味に気付いておずおずと手を差し伸べると、焦れた高橋が動いて、私の手を自分のそれで握りこんだ。引っ張られたそのままに、隣に並ばされる。
 見下ろしてくる高橋の眉間に、皺は無い。機嫌が直ったわけでもないのだろうけど、空気が緩くなった。そんな少しの変化に、ほっとしてしまう。
 付き合いだしてからの臆病な自分が、情けない。
「理子さ、」
 つり上がった目が若干細まる。言いよどむようにいったん視線を外してから、苦笑した高橋。
「俺の事、好きだよな?」
「っ!」
 まさかこのタイミングで聞かれるとは思わなくて、目を見開いた。どちらかと言うと私が確認したいくらいだ。「まだ私の事好き」かと。
 もう一度、こくこくと頷く。頬に熱が集まるのを自覚した。
「じゃあ、いいや」
 何がいいのか分からないけれど、歩き出した高橋に引っ張られるようにして私の足も動き出す。
 それで、すぐに雰囲気が好転するわけではない。結局無言のまま階段を上がっていく高橋。それでも握ったままの手が、私を嬉しくさせた。
 そのまま私のペースに合わせるようにして廊下を歩いていた途中、前方から高橋に声がかかった。恐らくクラスメートなのだろう、「お」と私達に気付いて手を上げた後、
「次、移動だぞ」
 繋いだ手と私達を交互に見ながら、ニヤニヤとそう言った。対する高橋はちっとも変わらない。
「分かってる」
「先行ってんぞ」
「おー」
 付き合って何度かこういう事があったが、からかわれるのに慣れていない私は、彼らと視線を合わせないように必死になってしまう。直接言及して来ないからこそ、こちらもどういう態度をしていいのか困ってしまう。普通にしていればいいのだろうけど、居心地が悪くなってしまう。
 そもそも学校で手を繋ぐという行為を高橋は気にしないようだが、私にとっては恥ずかしい。
 まだ予鈴にも時間があるが、廊下には高橋のクラスメートが何人か出てきている。彼らと別れた後、また高橋のクラスメートである女の子が私達に気付いた。
 思わず、繋いだ手に力を入れてしまう。
 彼女もまた指先を唇に当ててにやつきながら、「おぉー」等とからかいの声を上げた。
「ケンったら、また見せ付けてー」
 懐っこい明るい笑顔で、彼女は私にも声をかけてくる。「理子ちゃんヤッホー」と手を振ってくるのに応えて、私も空いている右手を振った。腕に提げたミニバックの中で、お弁当箱が音を立てた。
 顔が引きつらない様に精一杯。
 高橋が女子にも優しくなった、という話の後、友人候補の筆頭に上がっていた彼女は、すぐに高橋の友人に納まった。誰にでも気安くて明るくて、話し易いと高橋も絶賛するような女の子だ。彼女の存在に気付いた時には、すでに彼女は高橋を「ケン」と呼び捨てていて、誰も別段それを気にしてもいなかった。
 友達同士名前で呼び合うなんて今時珍しい事ではない。
 ――とは、分かっているものの。
「ラブラブでいいですなぁ」
「うっせーぞ、佐藤」
 高橋が彼女の名前を呼び捨てないだけまだマシだった。だから笑みを浮かべる余裕がある。
 授業までに余裕があるからか、佐藤さんは中々離れようとしない。一緒に居る女の子と一緒になって高橋をからかう態勢に入ったようだ。もう一人の女の子も同様に、
「いいなぁ、ケン達はぁ」
なんて甘えるような間延びした声を上げながら、高橋の肩に手を置いたりする。こっちの子は明らかに高橋狙い、という感じで、胸が騒がしくなる。
 どんだけ嫉妬深いのだ、私は。
 さり気無いボディータッチも、気軽く高橋を呼び捨てる事も、して欲しくない。
「わたしもケンみたいな彼氏が欲しいー」
高橋のジャケットの裾を引っ張るようにして上目遣いで高橋を見る目。佐藤さんほど好感触をもてない彼女の手は、高橋が振り解く。
「離せ」
 こっちの子は、高橋にとってはクラスメート以下、という感じだろう。高橋が一番嫌いなタイプだって、それぐらいは分かる。
 それでもケン、ケンと簡単に呼ばないで欲しい。
 その度に私の頬が引きつる。上手く笑えない。握った手に力が入る。
 楽しそうに話している高橋と佐藤さんを横目に、早く行ってくれないものかと念じている私の心の狭さが浮き彫りになる。
 たかが数分を疎外感を持ちながら待っていると、タイミングが良いのか悪いのか予鈴が鳴り出す。
「やば、行こう」
 佐藤さんがもう一人を引っ張って、私にもう一度手を振った。これで終わりだと、手を振り返しながら息を吐き出す、瞬間。
「ケンも早くしなよねー」
「っぁ」
 ケンを待つぅと猫なで声の友人をまさに引っ張っていた佐藤さんの言葉に、弛緩しかけていた身体が再度強張って、奇妙な声を上げてしまった。
「……理子?」
 不思議そうに投げかけられた高橋の言葉に、びくっと肩が揺れた。注がれる視線を、恐る恐る見上げる。
 怪訝な高橋の瞳が、何かを思い至ったように見開かれた。
「――佐藤!!」
 と思ったら、私から視線を外して佐藤さんを呼び止める。
 足を止めた二人に向かって、高橋は躊躇しない。
「お前ら、俺ん事ケンって呼ぶの禁止な!!」
「……はぁ!?」
 廊下に居るのは、私たちだけじゃない。高橋のクラスメートがぞろぞろと出てきて、背後にも居る。そこに、高橋は更に言い募る。
「お前らも!」
「……なんでよぉ!?」
 納得がいかないと声を上げるのは背後の女生徒。
 思考が置いてけぼりにされた私は、呆気にとられて固まる事しか出来なかった。
「拗ねる奴がいるから!」
 嬉しそうに跳ねる声に負けないくらいの満面の笑顔で、高橋が私を見下ろした。
「〜〜〜!!」
 声にならない声が、私の喉を飛び出た。顔が、先程の比じゃないくらいに熱くなる。突然言い当てられて、恥ずかしいとか情けないなんてものじゃない。
「あーはいはい。了解……」
 乾いた佐藤さんの声。状況を思い出して高橋の手を自分の手から引っぺがした私は、あまりの恥ずかしさにその場に蹲ってしまった。
 心臓の音が五月蝿くて、首周りの髪をぐしゃっと潰しながら顔を隠す。
 頭上から、高橋の笑い声。ぺたぺた、何か言いながら通り過ぎていく高橋のクラスメート達の足音。それを右から左に聞き流しながら、唇をかみ締めて心の中で身悶える。
 今すぐにこの場から消え去りたいのに、高橋がそれをさせてくれない。
 笑い声が近くなったと思って顔を上げれば、腰を折った高橋が楽しそうに相好を崩していた。
「そういうわけだから、」
 まるで子供にするようにして頭を撫でられる。
「思う存分ケンって呼んでいいぜ?」
 全てを見透かした表情で、私を甘やかす人。
「うー……っ」
 言葉なく唸って、私は高橋を突き飛ばした後、逃げるように廊下を走り出した。





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