02 幸福なくちびるの持ち主 後編


 別にそういう事に、遅いも早いも無いと思う。
 付き合って五ヶ月弱、下の名前で呼んでもらうにも苦労した。そりゃ、付き合う前に簡単にキスをしてしまった前科はあるが、それ以降は雰囲気次第という感じだった。
 「まだ!?」と友人連中に驚かれた所で、世間に流されてこなす事でも無いだろうと考えてもいた。
 勿論、機会があったらそれなりに、とは思うものの。二人きりの時間があろうと、お膳立てされようと、中々踏み込めない俺はへたれているのだろうか。
 やっとで出来たのが、ふいうちのキスだしな!!
 静かな住宅街の暗闇を歩きながら、マフラーに顔を埋める。等間隔に並んだ電柱と外灯。どっかの家から漏れる、テレビや歓談の音。外路に面した庭先で、時々飼い犬が吠える。たまに、チャリだかバイクだかが狭い道を通り過ぎていく。
 駅までの道のりは五分も無いだろう。何時か理子が痴漢にあったらしい道は、壁に「痴漢注意!」の褪せたポスターが貼られている。
 申し訳程度にブランコだけが設置された小さな公園を横切って、すぐに駅前の通りに出た。灯りの落ちたディスカウントショップやスーパーの中を、何となく見つめる。赤信号で止まった道の向うには、24時間営業のコンビニ。雑誌売り場にくたびれたサラリーマンが一人。ウィンドウ越しに奥の壁にかかった時計を確認する。
 もう覚えてしまった電車の発車時刻。調度いい時間に発車する電車がありそうだ。何時もだったら時間を確認して理子の家を出てくるのに、今日は気まず過ぎてそんな事まで気が回らなかった。
 付き合い始めた当初は気にもしなかった事が、今になって気にかかる。理子を女として好きだと気付いたのも突然だったし、好きだという自覚は確かにあったのだが、最初はかなり曖昧なものだったと思う。それが付き合いだして、理子を【彼女】として見てみると、意外に難しいものだった。
 例えば今までどうでもよかった些細な事が気になる。理子の肩や背中に無造作に触れる気安い友人達、好色な目で理子を見る高塚を含む友人や、街中でじっとりとした視線を理子に向けている赤の他人、ナンパ目的で話しかけてくる他校の男子学生、そんなものは今まで何度も目にした筈なのに、最近はそれらに苛立ってしまう。
 理子がよく見せるはにかんだ苦笑、耳に髪をかける仕草、短めのスカートで階段を昇る様子や、会話する度開閉する綺麗な色の唇に、ドキリ、とする。
 『好き』を自覚するだけで、そんなにも意識が変わるものとは知らなかったから、余計に戸惑う。
 これまでだったら欲求のままに突き進んでいただろう。
 今だって性的欲求は年頃だから、湧くは湧く。だけれど中々手が出せないのは、臆しているからだ。
 行為にではなく、理子がどう想い感じるかが予想出来ない。恐らく一歩踏み込めば、俺は止められない。別に今までが抑圧されていたというわけでも無いのだが、何日も腹を空かせた獅子が獲物に躊躇無く喰らいつくが如く、我慢できる気がしないのだ、情けない事に。そうしてしまった時の、理子の態度が今から気になる。
 泣かれたくない、嫌われたくない。怒ってもほしくない。
 だから栄子サンのお膳立てにも乗れず、こうやって敵前逃亡。
 信号機が赤から青に変わり、俺は歩き出す。
 ああ、理子にもこのシステムが分かり易い所についていればいいのに、と埒の無い事を考えて苦笑した。突き進んでいい時は青、手を出すなっていう時は赤――そういや俺が小学生か何かの時にイエス・ノー枕というのが流行っていた気がする。何時の間にか廃れているのだから、あれはあれで駄目だったのだろう。
 昔「お前の頭はそればっかりか」と高塚を嗤った事があったけれど、今の自分も相当キてる。朝から晩までずっと、という事は流石に無いつもりでも、気が付けばそればっかり。理子が隣にいれば顕著で、触れるタイミングを計っている。
 どこまでが許されるだろう。どこまでなら我慢がきくだろう。
 最近の俺はそんな事ばかりを考えて、考え過ぎて二の足を踏んでいる。
 理子の家を出てくる時に不意打ちで奪った唇は、ただの軽い触れ合い。あんなもので満足なんて出来ない。
 だから考える。考えている。
『雰囲気作りが大切だよ』
 と、女性のロマンチックな部分を大らかに受け入れられる佐久間は、迫り来るクリスマスの予定を話して聞かせてくれた。イルミネーション見て、観覧車からの夜景、ホテルでの食事――いっかいの高校生が易々と作り出せないロマンチックとやらを、きっと佐久間は素でやりやがる。恥ずかしげも無く島野を見つめて、砂を吐きそうな甘い言葉なんかを紡いだりするのだろう。
 容易にそんな想像が出来る佐久間のクリスマスデートプランは参考にならない。
 日向は年上の彼女とハワイへ行くとか。それも参考にならない。
 まあどちらにせよ、クリスマスというイベントに乗った所で甘い雰囲気なんて作れる気もしないのだが、それでも進展出来ない日には俺のへたれ具合を笑われても仕方ないと思う。
 そして、先ずは。
 近く行われるテストで赤点を取れば、冬休みはクリスマス当日まで補修で潰れてしまう。
 そんな事態だけは避けるべく、俺は乗り込んだ電車の中でも教科書を開いていた。
 けれど頭の中は別の思考がふんぞり返り、数式なぞ入ってくる気配も無かった――。





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