09 秘めて隠して、押し殺して


 生理二日目。今日もやっぱり生理痛は酷かった。今後もこういうのが続くのかと思うとうんざりして、菜穂が「もうこの痛みイヤー!」と癇癪を起こす理由が良く分かった。
 それでも昨日親に買って来てもらった薬を飲んで、半ば意地で登校した。
 遅刻も早退も、した事が無い。体調不良が理由でも休んだ事だって無い。だから、休む気にはなれなかった。
 でもやっぱり我慢が利かなくなって、登校しただけで保健室に直行した。鞄を持ったまま。
 担任には花ちゃんが連絡してくれると言うのでお願いして、そのままベッドで休んだ。昨日のサボリの君は今日はやってこなかった。
 当たり前の事にほっとする。
 昨日が特別だったと花ちゃんは言ったから。
 三時間目まで休んで、結局早退する事になった。家に連絡をしたらママが迎えに来てくれるという。
 駐車場に着いたら連絡をくれるというのでそのまま待機して、四時間目がもう十五分程で終わろうとする頃、携帯に着信が入った。
「送ろうか?」
と言ってくれた花ちゃんに丁重にお断りを入れ、
「病気じゃないから大丈夫ー」
と笑ったら、「病気よ、立派な」と苦笑された。
 でも兎に角歩けない程じゃないし、逆にそれくらいの方がじっとしているより痛みも紛れる。
「失礼しましたー」
 休んだからか、痛みに慣れたのか、昨日よりは余裕を持って笑う事も出来た。花ちゃんに軽く手を振って保健室を出る。
 それから昇降口へ向かって歩き出した時だった。
 向こう側――つまり昇降口側から、廊下を歩いて来る姿。
 俯いていて顔は見えない。白い体操服、下は膝まで捲った一学年の青ジャージ。

 高橋だった。

 顔を上げるまでも無く、気付いてしまった自分に苦笑して。
 跳ね上がった心臓をもてあます。
 保健室から二メートル程の距離で止まってしまった。
 廊下には他に誰の姿も無い。
 当たり前だ。まだ授業中なんだから。
 高橋は右腕を押さえながら歩いて来る。体操服の右側の部分が土埃で汚れて茶色くなってる。
 右腕から手が外れて、傷口が露になった。手首から肘までの、大きな擦り傷。血と埃で色が変わったそれが、遠目にも分かる。
 顔を前に向けた高橋と、目が、当然のように合ってしまった。

「……」

 三週間ぶりだ。あの気まずい噂に晒されて、不機嫌なまま無言で別れたあの朝以来。

「……」

 紺地のスクール鞄を両手で握って、それを膝の前に持っていったまま止まっている私。
 驚いた様に目を見開いた後、高橋が手を上げて。
「理子じゃん」
 何でも無いように名前を呼んできた。にこにこしたまま右手を上げて、痛みがぶり返したのかちょっと眉を顰める。
 今怪我してるの忘れてたでしょ、君。
 何時もだったら出る筈の軽口がまったく紡げない。私は奇妙な程固まったまま。
「久し振りじゃんね」
 三週間ぶり、あの気まずさがまるで無かったよう。でもそもそも、そこまで仲良い間柄でも無い。とか思ってるあたりが頭固いんだよね、私。
 すっきりしていた筈の思考がまたぐるぐるしだして、余裕の無い状態に戻ってしまった。
 昨日盗み見した寝顔を思い出す。
 昨日は閉じていた瞼の下の、黒くて鋭利な瞳が真っ直ぐ私を捉える。
 何も答えない私の前で、高橋が足を止めた。
「何、お前も保健室?」
 私の肩越しに、顎をしゃくって保健室を指す。
「……君は、何したの」
 体育の授業中に怪我をしたのは、もう見る限り分かるのに聞いてしまった。喉に張り付いたような低い声は抑揚が無い。怒ってるみたいな声になってしまった。
 でも高橋はそんな事を気にしない。
「見たまんまだろーが。こけたんだよ」
「ダサっ」
「後ろからスライディングしてくる馬鹿が、悪い」
 どうやら授業はサッカーだったらしい。
「部活、大丈夫なの」
 そこで彼がバスケ部だった事を思い出す。バスケって手を使う球技だ。当っても痛いし、腕を上げただけでも痛がってるようなのに。
 質問というより、詰問調の私の言葉。強張ったままの顔。
「平気平気。部活中はこんなん」
「ふーん」
「バスケって言えばさぁ!」
 まだ話を終わらせる気はないらしい。ママがもう待ってるんだけど、私も高橋を振り切る事が出来なくて。
 高橋の、ちょっと不機嫌そうに変わった声に小首を傾げた。
「前、試合来るっつってたのに来なかっただろ」
「……はぁ?」
「だから、先々週の日曜。俺、スタメンだって言ったべや」
 今更そんな話。
 喉元まで出掛かった言葉は、口に出来なかった。
 こちらはそれ所じゃなかった。行きたかったけど行けなかった。でも、そんな事高橋に言えない。
「行くなんて言ってないじゃん」
「言ったよ」
「行こうかなって言ったの」
「同じだよ」
 今更そんな話。
 高橋が舌打ちした。
 行きたかったよ、って言葉を飲み込む。
 拗ねたように尖らせた唇。
 対する私は怒りを押し殺したくぐもった笑い声を一緒に吐いて。
「悪かったわよ、用事があったの。でも、一杯応援来てたでしょ」
 血が。高橋の腕から赤い雫が垂れてる。
「勝ったって、聞いた。おめでとね」
 視線が床に滴った血の跡に奪われる。俯く形になりながら、「早く保健室行ってきな」って言った。
 それで、私は高橋の横を擦り抜ける。
「おいっ!」
「悪いけど私、体調不良で早退するとこなの」
 背中に高橋の声がかかったけど、私は振り返らずそれだけ言った。
「え、大丈夫なのかよ?」
 今更だ。
 本当に。
 瞬間心配そうに変わったその声には反応せず、私は歩調を速めた。



「……なんだよアイツ、感じわりぃ……」
 廊下を曲がっていってしまった理子に、釈然としないまま呟いて。
 チャイムが鳴り出したので、慌てて保健室へ向かった。昼休みが短くなるのは困る。貴重な練習時間だ。
 それでも、久し振りに喋った理子の態度に無性に腹を立てた。
 あいつの愛想が悪いのも、悪態をつくのも、煩わしそうな態度とか面倒臭そうな口調とか、それは別段今に始まった事では無い。
 親友・佐久間の彼女と共に昼飯を食うようになってから、あいつの態度は大抵そうだった。隣のクラスの控えめ美人・文学系美少女っていう触れ込みは嘘だったのかと思ったけど、今まで周りに居ないタイプの女で新鮮だった。
 佐久間から一緒に飯を食おうと言われた時は、誰が女なんかとと思って思いっきり拒否した。佐久間の彼女は天然系のぽやぽやした女で、何が楽しくてカップルと相席しなきゃいけないんだと思って。
「理子サンも一緒じゃなきゃ嫌っていうんだよ。頼むよオレ、理子サンいたら緊張して困る」
って佐久間が言い出した時はアホかと思った。大体その理子ってのは誰だと俺が聞いた所、隣のクラスの美人さんと答えが返ってきて、更に滅入った。往々にして美人という人種は自分に無駄に自信があって、我儘だったり、自分勝手だったりするもんだという偏見があったし。
 大体何故佐久間がその理子って奴に対して緊張するんだ。じゃあご遠慮願えばいいだろうって。したらしたで佐久間は「理子サンって格好良いんだよ。だから一緒に話したりはしたい」とか何とか言うんで更にわけわかんねぇし。
 佐久間がその彼女にほれ込んでいて、どうしてもと五月蝿いから、じゃあ最初の内だけだと承諾したんだ。
 そうしたら噂の美人は変な奴で、こっちがちょっとキツイ事言っても泣いたりなんてしないし、むしろ倍くらい辛辣な返しがくるし、たまに褒めると嫌そうな顔をするしで面白い奴だった。サバサバした、男友達みたいな感じだ。大分好感触で、絶対すぐに抜けてやると思っていた一緒の昼食が、意外に楽しかった。
 とんでも無い噂が立つまで、あいつが女だって事を分かってたようで忘れてた。ああ、だから女っていうのと関わるとろくな事にならないと。
 そう思って、その後その煩わしさから特に関わろうとしなかったんだよな。
 でも、やっぱり。見かけたら声かけるくらいは、するだろう。

「しっかし今日はとんでも無く機嫌悪かったな……」
 保険医の治療を受けながら呟くと、花藤は聞きとがめたのか「何が?」と聞いてくる。
 この眼鏡の女は俺が部屋に入るなり「またか」って言いやがった。確かに昨日さぼったのは俺で、それを見逃してくれたのはありがたいけど、その顔はひどいだろって表情だった。
 俺は肩を竦めただけ。花藤も別段答えに期待してなかったのだろう、包帯を巻いた腕を放しながら、
「はい、終わり。じゃ、利用者ノート書いて帰っていいわよ」
「利き手怪我してんだけど」
「甘ったれるんじゃない、男の子でしょ」
 渋々ノートを受け取って、ページを開いた。
 空欄を探す。昨日のページは終わってて、次のページに目をやる。
 最後の欄は、菅野理子。意外に綺麗な字で、へぇって呟いて、何とはなしに症状に目をやった。――腹痛。
「さっき理子早退してたけど、そんな酷いの腹痛」
「理子? ああ、菅野さん? そうねぇ、今回は酷いらしいわ。まあ最近色々あるみたいだし」
 今回はって。しかも最近って?
 溜息混じりの花藤が、遠くを見る。
「ああ、生理痛?」
 思いついたまま言葉にしたら、「デリカシーが無い」と後頭部を叩かれた。っていうか既に答え言ってたようなもんだろーが。
「だから機嫌悪かったのか?」
 頭を摩りながら呟くと、もう一度花藤が、今度は深く息を吐き出して。
「あのねぇ、高橋君」
「は?」
「……あたしがこういう事いうのアレなんだけど、貴方はもう少し周りの状況把握しなさいね。菅野さんの件は、貴方にも原因あるでしょ」

 ――その後聞かされたことは、寝耳に水だった。





BACK  TOP  NEXT



Copyright(c)09/06/03. nachi All rights reserved.