08 触れたくて、でも触れたくなくて


 菜穂と二人きりに戻ったお昼休みだったけど、最近は羽田や真知子が良く混ざる。時々他のグループの子と大所帯になる事もあったけど、気詰まりだった私にとっては在り難かった。
 ただでさえ憂鬱な毎日が続いているのに、菜穂の申し訳無さそうな態度と接するのは精神的にきつかった。
「あたしが一緒にごはん食べようなんて言ったから」
 事ある毎にそう言ってすまなさそうにする菜穂に、時々鬱憤を晴らすように怒鳴りつけてやりたかった。彼女が悪いわけじゃない、そう分かってる。でも、笑って流そうとする私に更に謝ろうとする菜穂とのお昼にまいっていた。
 だから、羽田がそれに気付いてお昼を一緒にしてくれるようになってからは助かっている。菜穂が神妙な気配を作るとうまく話をそらしてくれる真知子にも、感謝している。
 それでも、時々突然。
「理子ちゃん、本当ごめんね……」
 私が呼び出された後なんかは特に。菜穂の中ではちっとも解決してくれないらしい。
 この日も脈絡もなくそう言ってきた菜穂に、私達は止まった。
「あー菜穂ー」
「もう、さぁ……過ぎた事じゃん?」
「でも!」
 羽田と真知子が苦笑して留めようとするのに、菜穂は引かない。
 ――勘弁して。
「もう、いいってば。何でもないよ、こんな事。それに、私もさぁ……はっきし言って」
 私も何とか笑い話にもっていこうとする。
「高橋人気がここまでとは思わなかったよ。あんな男がここまで信奉されるなんて、世も末」
 わざと呆れた顔を作って笑えば、羽田が乗ってくる。
「確かに、びっくりだよね。アタシらも、かなりなファンの自覚あるけどさ。流石にここまでは無いわ」
「ね。どこの王子様かっていう位の人気振りだよね。佐久間君も同じくらいなのに、菜穂にはちっとも実害なし! だし」
「やっぱり性格悪い男にくっつくファンってのも、性格崩壊してんのかね」
 明るく笑うも、菜穂の表情は晴れない。「でも……」と上目遣いに見やってくる愛くるしい瞳を、何時もは可愛いとしか思わないのに。
 ここまで来ると、うざいとしか感じられない。
「だからもう、この話はヤメヤメ。悪いと思ってるなら、お昼ぐらいその話題忘れさせてよー」
 空笑い。目が笑えてないのは、自覚してる。何とか体裁繕って、菜穂の頭をよしよし撫でてやる。
「でもせめて高橋君には言っておいた方が、」
「なーほ!!」
 羽田が止めに入ってくれる。それに、少しばかり余裕が出来る。うん、まだ大丈夫だ。
「だからそれ意味無いって。高橋がどうこうできるモンでもなし。大体大会近い奴ら煩わせて、万が一負けた時に私の所為にされても困るし」
 何度も繰り返し、菜穂に言い含めた言葉。
「もし佐久間君に話しでもしたら、そん時は絶交だからね」
 そう言って、無理矢理話を終わらせる事しか、今の私には出来ない。



 月に一度の乙女の日。
 菜穂が毎回辛い重いって言うのを大変そうに眺めている、私。憂鬱な気分にはなっても、菜穂程では無い私にとっては簡単に素通りしていく一週間。
 だけど今回は精神的な影響なのか、有り得ないくらいの鈍痛に襲われていた。薬を飲む、という概念が最初から無いので、そのうちよくなるだろうなんて思いながら登校した。ところが時間が経つにつれ、どんどん悪化した。
 英語の授業中あまりに蒼白な顔をしていたらしい私に、担当教諭は保健室に行くよう指示して、私は素直に従った。
 心配そうに眉を寄せ、口で大丈夫?と聞いてくる菜穂に頷いて、私は階下の保健室に向かった。
 自慢ではないが健康優良児の私は保健室をほとんど利用した事が無い。
「センセー」
 それでも、この保健室で最近は毎日、保健教諭の花藤京子――通称花ちゃんセンセイとは顔を合わせていた。荷物避難所、として。
 授業中に現れるとは思っていなかったのだろう、花ちゃんは私を見るなり眼鏡の奥の双眸を見開いた。
「あら、どうしたの。菅野さん、すっごい顔色悪いわよ?」
「どうやら生理痛みたいでー」
 そう言って花ちゃんに縋りつくと、若いのに「あらイヤだ」なんておばちゃんみたいな事を呟いて、早速私を椅子に座らせてくれた。
「何時も酷いんだっけ?」
「んーん、こんなの初めて……」
「そう。とりあえず薬出すわね」
 ナースシューズをパタパタさせて、独楽鼠の様に働き出す花ちゃんを、痛みから意識を外すために何となく追って。
 水と薬を手に戻った花ちゃんにお礼を言って、飲み下す。
 流石にすぐには良くならない。
「休んでく?」
「出来れば……」
 言ってから花ちゃんはちょっとだけ気まずそうに、チラと視線を逸らした。視線の先は、保健室に並ぶ三つのベッド。一つはカーテンが引かれていて、どうやら休んでいる人が居るらしい。
「あ、ごめん。誰かいたんだ」
思わず声を潜めると、
「良いのよ、どうせサボリの子だから」
なんて答えが返って来た。教師がサボリを容認してどうするんだ、と思ったら、花ちゃんは苦笑して。
「今回は特別」
 私は「ふーん」と相槌を打っただけ。誰が休んでようが、どんな理由があろうが興味は無い。
「じゃあベッドに……」
と促された丁度そのタイミングで。
 ピンポンパンポーンと、どこか音の外れた音がスピーカーから流れ出した。あれは一体何時まで直さないんだろう。それともあれが普通なのか。尻上がりに音が低くなっていくので、何だか情けない音なんだけれど。
【花藤先生、花藤先生。至急職員室までお願いします】
生真面目な声が二回繰り返す。これは教頭だ。
 顔を顰めた花ちゃんが、小首を傾げて「あらイヤだ」また言った。
 思わず噴出しそうになる。まだ二十代中頃だと聞くのに、言動が既におばちゃん化している。いい意味で、優しい子供の母親って感じ。
「教頭先生ったら、何時も内線使ってって言ってるのに……」
それは確かにそうだ。保健室には電話という代物があって、花ちゃんは校内であれば大抵保健室か職員室に居るのに。でも花ちゃん以外の先生の事も、教頭はよく放送で呼び出している気がする。
「ああ、教頭はね。この変な呼び出しの音楽がお気に入りなのよ」
 私の疑問に答える花ちゃん。
 ――教頭って変な人。
 そうぽつりと呟くと、花ちゃんは笑った。
「ってこうしてる場合じゃないわね。私行くけど、菅野さん平気?」
「あ、うん」
「じゃあ遠慮しないでゆっくり休んでいきなさい。どうしても駄目そうだったら、職員室に電話して? すぐ帰ってこれるとは思うけど。早退したっていいんだから」
 早口で捲くし立てる花ちゃんに頷くと、花ちゃんはにこりと笑って部屋を出ようとして、扉を閉め様
「あ、出来たら利用者ノートだけ書いてくれる?」
 私がもう一度頷くのを待って、出て行った。

 相変わらずの鈍痛に苦しみながらも、私は利用者ノートを開いた。ページをパラパラ捲って、空白を探す。丸々空白のページの前、丁度最後の欄に一行空きがある。
 今日の日付が書かれている項目の下、恐らく今ベッドを使用している人だろう。右上がりの字。筆圧が強いらしく他の字よりもかなり濃い。欄からはみ出しかけた大きさで、存在を強調している。乱雑な、男の子っぽい字。
 時計をチラリと見てから、利用時間を記入。クラス、名前、症状を順に書く。生理痛とは書き辛いが、こういう時は何て書くものだろう。躊躇してから腹痛と書く。
 書き終わってから満足げに、開いたままのノートを立てた。
 ――そこで気がついた。
 私の上は。
「……高橋……」
 何ていう事だろう。あの、高橋か? 高橋なんて名前何人も居るし、と思っても、隣のクラスに高橋は一人しか居ない。
 右上がりの文字。大きく強調された名前。
 間違い無い。
 開いた唇が震えた。腹痛なんて吹っ飛んだ。

 音を立てないようにベッドに移動して、半信半疑で、ゆっくりとカーテンを引く。
 サボリの彼。
 高橋健。
 間違いなく本人が、すやすやと寝息を立てている。眉間に何時もの皺は無い。引き結んだ薄い唇。焼けた健康的な肌。額に張り付いた茶毛た髪。意志の強い黒い瞳は今は瞼の下だ。
 少しだけ斜めに傾いた顔、体は仰向け。布団からはみ出した片足が、ベッドの下に落ちている。
 何時もかかとを踏ん付けているのだろう室内履きの靴は意外にも揃えられていて。
 何となく、しゃがみ込んで。こちら側に向けられた顔を凝視してしまう。
 二週間、三週間ぶりになるのか?
 こちらの事情など知る由も無い、無防備な寝顔。
 ドキンと高鳴った胸が、一瞬後にツキンと小さな痛みに変わる。
 ニキビ一つ無い綺麗な肌。長い睫毛と高い鼻が影を作る。
 無意識にその頬へ伸ばしかけた、自分の手に驚く。
 何をやってるんだろう。
 伸ばして、触れようとでも?

 何故。

 私は君の所為で、君の浅はかな行動の所為ですんごい迷惑してます。どうしてくれるんですか。その所為でちょっと楽しくなってきたランチタイムはおじゃんだし、その後は憂鬱な日々なんですけど、とか。
 心の中で高橋に悪態をつく。
 会えて嬉しいとか、何で居るんだろうっていう疑問とか、君だけ無邪気でムカつくとか、色んな気持ち。
 でも兎に角、やるせない。
 伸ばした掌を、拳に変える。
 殴り飛ばしたい。思いっきり叩いて、怒鳴って。
 でもそれとは別に、ただ、触れたい。
 矛盾した気持ちが、胸の中で葛藤している。
 
 そのまま、数分。

 私は高橋の寝顔を見ていた。どうしたいかなんて分からずに、ただじっと凝視して。
 結局何もしないまま、カーテンを閉めた。
 とても隣で休める心境じゃなくて、机の上に花ちゃんへのメモを残して私は保健室を出る事にした。

【やっぱり、薬だけもらって戻ります。 菅野】

 教室には戻る気になれず、授業が終わるまでトイレに篭った。





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