恋は落ちるものらしい。 2


 その日登校したのは登校日数を稼ぐ為で、やる事も無かったし天気が良かった、という些細な切欠の気紛れだった。なのに教室で私の姿を見つけるなり、太った女教師はまるで自分の功績だとばかりに胸を張り、
「やっと来たのね、高橋さん」
と朗々と言った。
 私はそんなご機嫌な教師の言葉なんて無視して窓の外を眺めていたけれど、太った身体を揺らして私の席までやって来た担任は、
「とりあえず職員室までいらっしゃい」
と有無を言わさず私を教室の外へ引っ張り出した。これから授業ですよ、と言えばそんな事は知っていると笑う。トイレに行ってから向かうと嘘ぶいて帰ってしまおうかと思えば、トイレの、しかも個室の前で待機までされてしまった。
 もう面倒臭い。この女教師がそれで満足するなら大人しく連行されてやろう、と思ったのは、問題を先延ばしした方がよっぽど面倒だと知っているからだ。
 女教師は私がそれに従うと更に気を良くして、隣で五月蝿く喋り続けた。
「お父様も忙しいと思うのだけれど、子供に寂しい思いをさせるのは頂けないわね」とか「お母様が居なくても、貴方が非行に走る理由にはならないわよ」とか、もっともらしい事を言っているけど、こちらにはちっとも響かない。余計なお世話でしかない。母親が居た所で非行に走る時は走るし、髪の毛を染めたりミニスカートにしたり化粧をしたりなんていうのは、片親のせいでもなければ父親に放任されているからでも無い。
 この人が根気強く説得して幾人かが更生したなんて言われているのは、嘘だと本気で思う。そいつらが更生したのは、きっと本人達の意識が変ったのだ。
 心中でうんざりため息をついている間に、やっとで職員室に辿りついた。
 扉を開けて教師の後に続けば、職員室に居た教師達は一瞬驚いたようにこちらを見て、その内の何人かは「やっと来たのか」とかという声を掛けてきたけれどそれきりで、そんな事は大した事でも無いという風に、自分達のやるべき仕事に戻った。所詮そんなものだ。私の不登校や夜遊びなんて、警察沙汰にでもなって学校に迷惑が掛からない限り、担当教師以外は頓着しない。彼らだって生徒を更生させるのは自分達の評価を上下させない為なのだ。
 女教師は並べられたデスクの間を窮屈そうに歩きながら、職員室の奥へと向かう。私はただ、その後を無言で付いていく。
「菊池先生」
 女教師が声を掛けたのは、後ろ姿では男性という事くらしか分からない。細いシルエットと黒い髪。禁煙運動の激しくなってきた昨今、肩身が狭いであろうに、菊池先生とやらは堂々と煙草を吸っていた。
 煙草の灰を灰皿に落としながらゆっくりと振り返るその姿に、見覚えがある。あるのは長い前髪と、細いフレームの眼鏡にだったが。数日前の夜、コンビニ前で会った副担任と名乗った男。前髪をクリップで斜めに止めているおかげで広くも狭くも無い、額が見える。クリップは髪用のそれでなく、プリントなどを留める文房具の方だ。
 邪魔ならば前髪は切ってしまえばいいものを。
 あの夜はコンビニのライトのせいだったのか青光りして弱々しい雰囲気をしていた顔だが、明るい光の下で見るとそこまでか細い印象は無い。眼鏡の奥の黒い瞳は大きめで、目じりというよりは頬に近い所に黒子が二つ、ある。年齢は二十歳中頃、だろうか。高校生と言っても通用するし、大学を卒業したばかりの教師に成り立て、という風にも見えるが、萎縮した様子が無いので、教師生活十年を迎えましたと言われても納得しそうだ。
 まあでも、その時はそんな風に余裕を持って観察している暇は無かった。これは後から菊池の顔を思い出して、抱いた感想。
 この時は、あの時の、という驚きがあっただけだ。
 菊池は「はい?」とすっ呆けた返事をしただけで、不登校からの脱却を果たした私の姿を見とめても、何の感慨もなさげだった。「おはよう」と型通りの挨拶をくれただけ。
「何でしょう」
と、煙草を方に挟んだまま、座ったままで、目上の女教師に問い掛けている。
 女教師も別段それに不快を示すわけでもなく、
「私はこれから授業がありますので、高橋さんへの指導、お願いできますね?」
と、私も菊池も驚く程、完結に丸投げした。女教師の説教タイムかと思えば、違うのか。
「……は?」
 菊池は眼鏡の奥で目をまん丸にして、女教師を見上げた。
「高橋さんの副担任はあなたでしょう? 指導、お願いしますよ」
 それを言うならあんたは担任だろう。しかも私を職員室に連行した張本人だ。
 彼女は信頼故なのかイジメなのか分からないが、私の処遇を菊池に一任して、時計を確認するなり「それじゃあ頼みましたよ」と背を翻す。
 ちょっと、待て!
 と、勿論私が呼び止めるわけもなく。呆けたままの菊池が、止める間も無く。
 放置された私達を職員室の誰もが気に留めない。
「えーと? とりあえず、おはよう」
「……それはさっきも聞きました」
 そんな中で菊池は気を取り直してもう一度朝の挨拶を告げて来たが、私は女教師を見送ったままの菊池に背を向けた姿勢で、心なし声音を低くして返した。
 副担任如きに、というか、先日のコンビニでの教師らしからぬ態度を見てしまった後になっては、菊池にどんな正論を言われようが聞く耳持てない。
 指導なんてちゃんちゃらおかしい。
「そうだね、言ったね。でも聞いてないよね」
「……」
 こんな奴、無視だ。無視に限る。
 背中越しだが、菊池が煙草を吸っている気配がする。息遣いと、時々強くなる煙草の匂い。
「教室、戻っていい?」
 菊池に敬語を使う気も失せてうんざりと言ってみたが、やはり菊池は何処吹く風だった。それ所か、会話を無視ときた。
 自分がするのは良いけど、人にされるのは腹が立つ。
「じゃ、指導室行こうか」
 一人で行け!!

 ――とは言え、学校で、しかも職員室で立場が弱いのが生徒だ。こんな所で悪態でもつこうものなら、馬鹿を見るのは自分だった。
 吐き出しかけた言葉をぐっと飲み込んで、とりあえず職員室から出たら逃げようと考えた、のに。
 菊池は私を逃がさないように、手首を――というよりは、拳を作っていた手を握ってきた。流石男という事か、私の掌すらすっぽりと包んでしまう大きな手だ。
 セクハラだ、と叫ぼうにも、この程度をセクハラと認めてくれるような人間は、授業が始まってしまったらしい今、職員室前の廊下になんて居ない。
 必死で振り解こうとしても、力では敵わない。
「放してよっ!」
「だめ。指導室までお手々繋いで行きましょうね」
 わけのわからない子ども扱いにもイラっとする。
「汗がキモイんだけど!」
「人間は汗を掻く生物だから。後で手を石鹸で洗えば解決するよ」
と痛くも無い風にあしらわれて、またイラっとする。
 何だこいつ。意味不明!
 コンビニの時もそうだったし、職員室の中でもそうだった。何でもかんでも泰然と受け入れて、気後れもせずに余裕綽綽、といった感じ。
 喧嘩になったら明らかに負けそうなのに、すごんだ先輩を前にしても怯まなかった。上司に対しても新任の教師らしい緊張感も皆無。
 生徒に悪態を吐かれても、タメ口で話されても、注意すらしない。
「手を離せよ、セクハラ野郎!」
「これは幼稚園児を引率するのと同じ」
「淫行教師!!」
「この程度で淫行なんて、意外にウブなのかな、紀子チャンは」
「紀子チャン呼ぶなよっ」
「じゃあ紀子」
「なんで呼び捨てだよ! っていうか、名前で呼ぶなっつーの」
「僕の名前はね、悠。悠久の悠って言って、紀チャンには通じるかな?」
 もうどこに突っ込んで良いのかも分からないが、ひたすらに腹が立つ。
 マイペースな菊池の言動にわざわざ反応する必要も無かったのに、一々癇に障るから、どうしても思うより早く口が出てしまう。

 そんなやり取りの最中、菊池の表情が奇妙に綻んでいたなんて、菊池の背中しか見えない私が気付く筈も無かった。






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