恋は落ちるものらしい。 1


『学校は楽しくない?』
 なんて、ありきたりな質問で非行を責めてきたのは、担任の女教師。オペラでも目指してたんだか何だかしらないけれど、今じゃただの中年太りなその教師は、電話越しにそう聞いてきた。
 新年度が始まって、まだ一度も顔を出していない中学二年生の私は、曰く問題児の一人だった。
「……別に」
 電話を取ってしまった事を後悔しながらも、おなざりに返事を返す。午後五時から八時はこの担任から電話がかかってくる魔の時間帯だったけど、友人から電話がかかってくるのも同じ時間帯。携帯を持たない身分としては、友人との唯一ともいえる連絡手段を無視するわけにもいかないのだ。
 中学一年生の弟、健は、今日も部活。
『弟さんはちゃんと通ってるのに』
 電話口の教師の声が落胆に潜む。
 知ったことか、と思う。弟は弟、私は私。学校に行く必要があるのかと聞かれれば義務教育なのだから当然なのだろうけど、将来適当に結婚して子供を育てる程度の夢しか持たない私に、学校の授業は必要ない、と断言できる。そんな事を言えばなりたいものが出来た時に、知識はあった方が良いなんてこの教師は言うのだろう。
 沈黙を返答にすれば、今度は隠さないため息。
『とにかく、一度お父様とお話がしたいのだけど』
 母を早くに亡くして、うちは所謂片親だ。けれど父親は仕事人でほとんど家に居ず、親らしい事をしてもらった覚えは無い。小学生低学年頃は遊びにも連れていってくれない父親に不満を持ったものだけど、今はこの放任具合が心地良い。健が居れば、家庭も寂しくない。
 そんな父親だから連絡手段として携帯だったり会社の番号を教えてはいるのだろうけども、繋がらないのだと教師は嘆く。繋がったと思えば、「娘の意思に任せていますので」なんて、およそ父親らしくない言葉。
 そんな父親と話した所で、何が改善するわけでも無いだろうに。
『一度お時間を取ってもらって、ちゃんと直接お話をしたいの。三者面談みたいな形でね、』
 出席日数さえ稼げばいいだろうに、この教師は本当にしつこい。他の教師は半分諦めも入っているのに。
 私の通う中学校は、地域の中では一番不良が多い。同学年なんて半分はヤンキーだ。鞄に鉄板を仕込んだり、リーゼントヘアだったり、スカートの丈が踝まであったり、なんて時代錯誤な奴は流石にいないけれど、ギャル率よりヤンキー率の方が断然高い。大抵入学すれば、夜遊びの一つも経験する。
 そんな中でこの女教師は、五年間の間に何人かの生徒を更生させた実績があるらしいけれど、その意欲を私に発揮されるのは御免だ。
「そういう話は父にしてもらわないと。私、トイレに行きたいんでこれで」
 長くなりそうな教師の言葉を、私はそんな風に切った。受話器を置くまでまだ何だか言っている声が聞こえたけど、無視。
 五月蝿いんだよ、ババァと悪態をついて、自室に引き返す。
 連絡なんて取らなくてもうろついていれば友人達とは適当に合流出来るだろう。
 何だか色んな事が煩わしくて、準備もそこそこにマンションを飛び出た。
 置き抜けで化粧なんてしてなくても、母の置き土産な私達姉弟の顔は充分整っている。眉毛が短いのがたまに傷だけど、高校生に間違われる事もしばし。
 お財布と家の鍵をジャージのポケットに突っ込んで、まずは近所のセブンイレブンに行ってみる。近くに公共団地があるから、ここは一種のたまり場みたいになっている。もうちょっと時間が遅くなれば警察の見回りなんかがあるけれど、それにはまだ早い。
 案の定見慣れた顔がコンビニの駐車場に座り込んで、五月蝿く騒いでいた。店員は室内から何時も非難の視線をくれるけれど、直接注意してきた事は無い。アルバイトの身分で面倒ごとに首を突っ込みたくもないのだろう。今は大学生くらいの兄ちゃんと、主婦らしきおばちゃんの二人。店長らしき人は見た事がない。
 集団に近づいていけば、こちらに気付いた友人が手を上げてくる。
 人の手を無遠慮に取ったり肩を組んできたりする、一つ上の先輩。
「紀子、来たな」
なんて、煙草片手に擦り寄ってくる。
 ウザイ、とは言えない。この人は暴走族の次期総長だ何だといわれている人の弟なのだ。兄貴から譲ってもらったというバイクを無免許で乗り回し、万引きなんてお手の物、警察沙汰ギリギリの騒ぎまで起す。
 こんな男が、今日のボス。早まったかもしれない。
「じゃあ行くかー」
なんて、私を待っていたみたいに言って、バイクに跨る。他の連中もそれに習えば、そいつは当たり前みたいに私を後部に誘う。
 まるで自分のオンナだと主張するような態度。他に屯し易い公園があるくせに、わざわざこんな所にやって来るのは、私を狙ってる故なのだろう。何て分かり易くて、浅はか。
 でも断わりはしない。世渡りは上手でなければ、非行だってままならない。
 落ちない程度に男の腰に腕を巻きつけて、出発を待つ。まだこいつは煙草を吸っているから、吸い終わって出発するのだろう。
 他の面々はすでに出発している。
 美味しそう煙を吸い込む、にきび面。髪の毛は脱色して金髪、ツンツンにおったててそれなり気取ってみても、ちっとも格好良くなんてないんだってば。
 これで私と釣り合おうなんて図々しいことこの上ない。
 それでも、そんな行動も表情も面に出さない。こいつには逆らわないでおこう、その方が旨味もある。そんな風に、打算交じりの付き合い。
 まだ煙草を吸い終わらないのか、吐き出される煙を何となく見上げている時だった。
 コンビニの自動ドアが開いて、「ありがとうございました」という店員の声が聞こえたと思うと、砂を踏む足音が鳴って、止まった。カチリ、ライターを点けたのだろうオレンジ色の光りが視界の隅で瞬いた。
 無意識に顔を向けた先、眼鏡をかけた男がこちらに視線をくれていた。先輩と同じ様に、煙草を吸い込み、深く吐き出す。
「高橋、紀子」
長い前髪と店内の光りを反射している眼鏡、それから煙草を吸うために顎を包むようにしている手のせいで、顔はちっとも分からない。
 それでも私の名前を呼んだその男を、私はちっとも知らなかった。
 怪訝に思う私同様、先輩もそうだったのだろう。
「何だ、てめぇ?」
 怒気を孕んだ声は、中々に貫禄がある。こいつは実際喧嘩の腕も立つし、兄貴のせいで強面と付き合う機会が多いから、こういう時だけは本当に頼もしい。
 けれど見知らぬ男は、怯みもしない。むしろ、笑ったように思えた。
「そっちの君は、知らないけども。未成年には違いなさそうだね」
「だったら何だ?」
「いや、別に。ただ、夜遊びも程ほどに」
 黒いティーシャツにジーンズ。引っ掛けているのはビーチサンダルか。隣近所の人間だとしても、記憶の網に引っかからない見知らぬ男。年頃は正確じゃないけど、二十歳は確実に越えていて、でも三十には届かない。そんな感じ。
 誰でもいい。ただ、フルネームを知られているのは気持ち悪い。
「あんた、誰よ」
 今にもバイクを降りて男に掴みかかりそうな先輩を押し留めるように、腰に抱きついたまま、私は男に質問を投げかけた。
 少し、顔を上げる男。煙草は銜えたままだけど、手はジーンズのポケットに移動したお蔭で、頬から顎までの綺麗なラインが姿を現す。
「副担任ノ顔グライ覚エテ下サイヨ」
 平坦な声でそう言って、鼻で笑う。煙草を落とさない為に口を開かなかっただけかもしれないけれど、感じが悪い。
 けれどそんな感想よりも、その男が教師だという事に驚いてしまった。
 担任であるオペラ歌手崩れは去年音楽の授業で顔を見たが、この男をちっとも思い出せない。新任なのか、はたまた移動して来たのか、それとも単に知らないだけか。
 何にせよそれだけ言って背を翻した男に、私も先輩も呆気に取られてしまって、ただその細長いシルエットが歩き去るのを見送ってしまった。
 あれが教師なら、世の中おかしい。未成年の喫煙も、担当生徒の非行も、関係無いとばかり。一応注意をしてみせたけど、本気で止めてかかろうとはしなかった。
「……っんだ、あれ」
「もういいよ、行こ。皆待ってるし」
「あー、だな」
 促せば、五月蝿い排気音を鳴らし、バイクはすぐに駐車場を抜け出す。

 あれが副担任だろうと何だろうと、どうでもいい。


 その時は、ただそう思った。






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