恋は落ちるものらしい。 3


 菊池に連れて行かれた指導室は、三畳程の手狭な空間に長テーブルとパイプ椅子が置かれているだけの部屋だ。
 多くの生徒がこの部屋で説教をくらったり、反省文を書かされたりする。
 結局最後まで私の手を離さなかった菊池は、部屋に入るなりおもむろに煙草を吸い出して、まるで私の存在なんて無いものだった。
 先程までの怒りも冷めない私は、気分に任せて教室を出てやろうと思っていたけど、生憎教室唯一の出入り口であるドアの前に菊池が立っているので、狭い部屋に煙が充満していくのを苦く見ている事しか出来なかった。
 抗議の声を上げるのも何故だか菊池に負けた気がして、私はただパイプ椅子に乱暴に座る事で怒りを示し、あとは我慢大会のように、授業終了のチャイムが鳴るまでの小一時間、お互いに沈黙を通した。

 そうして、初の一日は過ぎたけれど――それからも、素行を改めなかった私は何度か指導室で菊池と相対する羽目となった。
 勿論、指導室にお世話になるのは私だけではない。友人の何人かも同じ様に指導室行きとなって、しかし彼女達の中では、何故だか菊池の株が上がっているようで釈然としなかった。
 友人曰く、菊池は意外に格好良くて、聞き上手で、つまらない説教や薀蓄を聞かせない、話せる大人だというのだ。
 私の持つ菊池の印象と、随分違う。
 格好良いというのは――まあ、何ていうか、分からなくも無い。細身だが背も高く、どこぞの体育教師のように筋肉はついているけど汗臭くて短足、という事も無い。着ているワイシャツも、教師の月給で買える程度の、ブランドもののような気取った上品さは無いけれど何時も清潔感が漂って、染み付いた煙草臭は、いきがったどこぞの先輩のような違和感は無く漂ってくる。顔立ちも、眼鏡と長い前髪が邪魔だけれど、それなりに良いようには見える。
 ただ、私の弟の健が同じ年頃になれば倍は格好良いだろうと思う。
 まあ健の事は置いておいて――見た目だけを挙げれば、周りの中学生や高校生、勿論教師連中の中では、ダントツ、と言えなくもないのだろう。
 ただし、好感度を感じられる性格だとは、全く思えない。

 そんな菊池の指導を受けるようになって、五回目か、六回目。
 その頃には菊池の存在も長い沈黙も、大した事ではなくなって。
 私はテーブルに突っ伏して居眠りをする、というのが最早習慣のようになっていた。
 この日も指導室に連れて来られるなり寝に入った私は、チャイムの音に起された。何時もだったら菊池に起されるのに、とすぐに考え至ったわけじゃないが、ここはどこだろうと彷徨わせた視界に、ドアの前でパイプ椅子に座った菊池を見つけて、自分が何をしていたのかを思い出す。
 今鳴ったチャイムは、終了の合図かそれとも開始の合図か。
 何はともあれ、私同様菊池も眠ってしまったらしい。腕と足を組んだ姿勢で寝苦しくないのかと思うけど、そういう姿勢で眠っている人を電車なんかで目撃するから、問題無いのだろう。兎に角、菊池の方はチャイムの音にも気付かない位に熟睡してしまっているようだ。
 何となく眠る菊池を観察していたら、何時もかけている眼鏡が胸ポケットに収まっている事に気付いた。
 そうしたら、むくむくと好奇心が浮かんでしまって。
 普段長い前髪と、眼鏡に隠れている素顔。それなりに格好良いだろうと推測している顔。
 ちょっと見てやろうと思っただけだった。
 ゆっくりと近づいて、屈んでみる。下から見上げるアングルでは、良く分からない。中腰になって、邪魔な前髪を持ち上げてみる。
 広くも狭くも無い額。細い眉毛は整えている様子は無いのに、きりりとした印象をしている。男のくせに睫毛はえらく長い。何時か認識したように、頬に近い目のしたに小さな黒子が二つある。鼻筋は真っ直ぐに伸びていて、唇は薄い。年齢不詳ではあるが、やはり自分よりは随分大人に見える。
 規則的な寝息だけは幼い――寝息に幼さなんてあるのか分からないけど。
「ふーん」
 何だか良く分からない感想が口をつく。呟いてから、その意味不明さに驚く。
 指先で持ち上げていただけの前髪が、さらりと手の甲を流れて、幾房かが菊池の額に戻った時、菊池が小さく身じろいだ。
 それに何だか分からない、急激な疚しさが沸いてきて、私は衝動的に仰け反ってしまった。元々バランスの悪い姿勢で居たものだから、体が大きく傾いだ。
 こける、と思った瞬間に、背後の机に衝突して強かに頭を打つ。強烈な痛みとがんっという音が頭に響く。こけるのは免れたが、それが良いのか悪いのか。
「……何、してんの?」
 チャイムの音でも目覚めなかった男が、どうやら目覚めてしまったらしい。
 訝しげな声に、頭を抱えながらも顔をやる。
 言い訳は思いつかない。後頭部がズキズキと痛んで、目尻に涙まで浮かんでしまう。
 立ち上がった菊池が床に蹲って悶える私の前に屈みこんだと思ったら、
「何やってんの」
 と言葉とは異なった優しい声が振ってきて。それ以上に優しい手つきで、患部を押さえる私の手を撫でた。
「痛いの、痛いの、飛んでいけ」
 触るな、と跳ねのけようとした、のに。至近距離で見上げてしまった菊池の顔に。予想外の対応に、口をついたのは。
「……子ども扱い、しないでよ」
 自分でも情けなくなる程か弱い声。菊池が密やかに笑う。
「してないよ」
 と思ったら、今度はチュッというリップ音。患部に触れた感触とその音から導き出すに――いや、導きだす前に、私の口は勝手に動き出す。
「セクハラ!!」
 なのに菊池と来たら。
「最大限の愛情表現なのに」
 しれっと、そんな事を言うんだ。目と鼻の先に、知らない男の微笑み。微かな煙草の匂い。
「じゃあ、責任取るから」
 そうして更に近づく顔。
 二度目のリップ音に、後頭部の痛みなんてどっかに行ってしまった。さっきまで痛む患部に集まっていた血が、顔面に集束するのが分かる。
 拳の準備は出来ているのに、どうしてもそれを奮う気になれないなんて、馬鹿な話。
 授業は始まっているのだろうか。辺りはいやに静か。静か過ぎて、自分の心臓の音しか聞こえない。
 三度近づいた菊池の顔に、唇に触れる温もりに、抱きしめられる感触に、私は抗う事を忘れた。
 代りに、握り拳を解いて菊池の背中に腕を回す。
 良く出来ました、とでも言うように、頭を撫でられる。
 どうしてこうなったのか。どういうつもりなのか。そんな事は分からないし、知りたくもない。
 気紛れ。衝動。雰囲気。どれでもあって、どれでも無い。
 ただ、唇を離した後も額を合わせたまま、傍にある瞳が――満足そうに、嬉しそうに細まるから。だから、まあいいやなんて思ってしまったのだ。
 菊池の言う、責任とやらを取ってもらおう。
 そんな結論に落ち着いて、私も菊池に笑い返した。






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