優しい時間 3






 放課後、フォローのつもりで朋樹の教室まで迎えに行くと、クラスメートの一人がこう言った。
「朋樹? ああ、アイツ帰ったよ」
 当然と言わんばかりの返答に、裕貴は唖然として「そう」とだけしか答えられなかった。
 クラスメートにとっても朋樹自身にとっても、早退自体は特別珍しい事でも無い。元々学校に来る事自体が稀だったのだ。けれど今日の朋樹は朝から裕貴を迎えに来る献身ぶりで、裕貴の予想では帰りも裕貴を迎えに教室にやってくるだろうと思っていたのだ。なのでクラスメートと談笑に耽っていたのだが、その朋樹が一向にやって来ないのでこうやって迎えに来た次第なのである。
 ところが既に帰った後だという事は――恐らく、昼の事を根に持っているのだろう。
 素直に帰路につきながら、裕貴は大きくため息をついた。
(何だかなぁ……)
今までいじけるのは裕貴の専売特許であったから、朋樹が拗ねる様を見て、戸惑いつつも可愛いとさえ思えてしまう。
 というのも、である。
 恋人という関係に成り代わって初めての昼休み、当然の如く一緒に昼食をと迎えに来た朋樹に連れ出されて、二人は教室とは別棟にある移動教室へと向かった。昼休みとあって授業の一つも行われていないそこは静まり返っていて、裕貴自身は戸惑った。朋樹は慣れた様子で、
「この教室カギ壊れてんの」
 と、普段は移動教室として使われる空き部屋に入り込んだ。
「あんま使われねーし、俺もたまたま気付いただけだから、かなりいいスポット。昼寝に最適」
 日当たり良好、と言いながら笑った朋樹に、(ああ、ここでさぼってるわけね)と裕貴は呆れながら思ったものだ。
 兎にも角にもそうやって二人きりで取った昼食の時間、ものの五分で買ってきた弁当を平らげた朋樹が、まだ半分以上も残った昼食と格闘していた裕貴を見やりながら話を投げてきた。
「部屋の件だけど」
「ん?」
 口に放り込んだ肉団子を租借しながら、裕貴も朋樹を見返した。緩んだ表情で見下ろしてくる彼に、慣れず裕貴はドギマギしてしまう。
「お前からも不津に言っといてよ。アイツ、俺の言葉なんざ聞きもしねぇし」
「……ああ、うん……」
朝の遣り取りを思い出しながらも、裕貴は気の無い返事を返してしまった。実際には返答に困ったというのが正しい。「うん、分った」と言い切れないのは、大和への恩義も手伝って。散々迷惑をかけて、散々相談に乗ってもらって、用が済んだらハイさようなら、というような――そんな不義理な真似は出来ないという気持ちも大きかった。
 それでも上手くかわす事も、誤魔化す事も苦手な裕貴は、朋樹に対しても曖昧に答える事しか出来なくて。
 その結果は案の定、朋樹を不機嫌顔にする。
「うん、って、何それ」
「何って」
「お前は部屋別でも良いわけ」
「良い、わけじゃないけど、」
「けど?」
 歯切れの悪い裕貴に詰め寄るようにして、朋樹の顔が近付いた。真っ直ぐに見つめられると、居心地が悪くなって裕貴は思わず顔を逸らした。
「悪くも無い、っていうか」
「……あっそ」
 不愉快そうに鼻を鳴らした朋樹にしまったと思っても、裕貴はその後の言葉を繋ぐ事が出来ない。
「だって、一緒にいようと思えば、何時でも、いられる……じゃん?」
 朋樹の顔を窺うように覗き見ても、その表情は一向に晴れず不機嫌を露にしている。裕貴にしてみれば、恋人になるまでの数ヶ月の隔たりを思えば、今の現状は限りなく幸福だ。
「お前は、俺が他の男と一緒の部屋でも平気なわけ」
「……うん」
 逡巡してから控えめに応える。
(だって不動だし)
 相手が相手なだけに、と思うと同時、朋樹の質問の意味が上手く飲み込めなかった裕貴に。
「あっそ」
 冷たい声でそれだけ言うと、朋樹は立ち上がって、乱暴に扉を開け閉めして教室を出ていってしまった。
「……え、」
 茫然とそれを見送ってしまった裕貴が、朋樹の質問の真意に今更気付いても、後の祭りというヤツだった。
 ――というのが、昼休みの事の顛末だ。
(まさかあそこまで怒るとは……)
 怒るというよりは、いじけるという感じだ。十六年一緒に過ごしてきて、そんな朋樹を見た事すら無かったから今だ信じられないが。
 昔から冷静沈着で、不良というレッテルは貼られていても売られた喧嘩は買っても自分から手を出すのは真情じゃ無いという様な性格で、親に対しても我侭一つ言った事が無い。親戚に会えば「朋樹クンはしっかりしているわねぇ。流石お兄ちゃん」というのが常套句になっている程で、「あ、お兄ちゃんは裕貴よ」と母親が突っ込みを入れるのも、最早何時もの事。だからこそ一緒にいると、裕貴の幼さが目立ってしまって。
(こういう時って、どうすればいいんだ……?)
 今までに無い状況に、裕貴は戸惑ってしまう。
 謝るべきなのか。放っておくべきなのか?
(謝るにしても、何を謝るんだ……?)
 朋樹の望む答えは、裕貴には返せない。どうあっても大和を不動の部屋に戻す事は出来ない。出来ない事に、幾ら朋樹のご機嫌を取る為と言って「分った、説得してみる」等とは言えない。逆にもし言った手前大和に説得を試みてみても、彼を不快にさせるだけだ。それならば最初から「出来ない」としか答えられない。
 裕貴にとっては、昼休みに告げた事が全てなのだ。
 部屋を戻す事は出来ない。朋樹が他の男と同室でも、それが不動だから心配なんてしてない。一緒にいる時間は何時でも作れるから、むしろもう幸せ過ぎるから、それ以上なんて望んでない。
 うんうん唸りながら歩いていたら、何時の間にか寮に帰り着いていた。
 結局何の答えも導き出せないまま、それでも朋樹を無視して置くことなんて出来ない裕貴は、そのまま足を朋樹の部屋に向けるのだった――。




 ■ ■ ■ ■ ■




「……えっと……」
 ベッドに寝転んだ朋樹を横目に見ながら、裕貴は居心地悪く身体を揺すった。
「……」
 部屋に通してくれたものの、朋樹は一度も口を開く事が無い。ただ雑誌に視線を落とし、裕貴なんて居ないも当然の態である。
「あの、さ……」
 しかし裕貴も裕貴で何て言っていいのか分らず、言葉は全て中途半端に消えて。
「あの、聞いてる……?」
「聞いてる」
 あまりの無反応振りに思わず問いかければ、間髪居れずに返答。
「あ、そっか……」
(うぅ、何なんだよ、もう……)
 いっそ泣き出そうか、キレようか。何時もの癇癪が飛び出そうになるのを必死に推し留めながら、裕貴は言葉を探した。
 相変わらず、不動は留守のようだ。自分の雑然とした部屋と比べて質素な室内を見回しながら、更に居た堪れない気分になる。他人の部屋がこれ程に落ち着かない空間だとは思わなかった。
「……とも?」
「何」
 もう一度問いかければ、やっぱりこちらも見ないで短い応えだけが返って。
「そんなに、怒らないでよ……」
 もうどうしたらいいのか分らなくなって、沈んだ面持ちで裕貴がうな垂れれば、今度はため息が一つ落とされる。
「怒ってないよ」
「怒ってるじゃん!!」
「……怒って、ない」
 もう一度大きく息を吐いてから、朋樹はやっと身体を起こして裕貴に向き直った。雑誌を枕元に畳むと、ベッドの縁に腰掛けて苦笑する。
「……そんな顔させたいんじゃねーよ」
 真っ直ぐに見つめてくる切れ長の瞳を、裕貴も見返す。どんな顔、と問いかけようと口を開きかけた裕貴を遮って、朋樹は裕貴の手を取った。そのまま引っ張られると、裕貴の身体は朋樹の足の間に膝をつく形になった。
「困らせたいわけじゃねー」
「……」
「ワリい」
 瞳を伏せる朋樹を、裕貴が覗き込む。
「朋樹?」
「お前がどうこうっていうんじゃなくて、俺がさ……何か、嫉妬とかしてるだけ」
 困ったように眇められる瞳に、困惑した顔の裕貴が映る。
「お前は一緒にいる時間は作れるっていうけどさ、そんなんしなくても何時も一緒にいたい。一分一秒が惜しい、俺は」
「……」
「一緒に居たいし、こうやって触れてたいし、」
「……」
「一緒に居られるだけで幸せ、とか……そんなんもう振り切れて」
 更に強い力で手首を引かれて、抱きしめられる。ふわっと朋樹の匂いが鼻を擽る。汗の混じった仄かな香水の匂い。
「もっと、近づきたい」
 耳元で囁かれた吐息交じりのそれに、裕貴の背中がびくっと震えた。遠回しに告がれたその真意に、いくら鈍い裕貴でも気がついた。朋樹の体は熱く、腰に回された腕は容赦が無い。
「待つとか言ったくせに、焦ってんだ」
肩口に乗せられた朋樹の額から、じんわりと熱が移って来るのを感じて、裕貴は戸惑った。
 どう応えていいのか、分らなくて唇を引き結ぶ。
「だから、怒ってるとかじゃなくて……」
 緩んだ腕に、裕貴の体は解放される。再び絡んだ朋樹の視線は、雄の昂ぶりを孕んでいた。
「……うん、」
 何だか分らないまま裕貴が頷くと、朋樹はクスリと笑みを零した。
「ワリい」
「……ううん」
 完全に離された手首を寂しく感じながら、その感情の出所に戸惑いながら、裕貴は朋樹の隣に移動する。
 肩が触れるか触れないかの微妙な位置に座って、向かいの壁を凝視しながら、二人はしばし沈黙した。
 しばらくは緊張した空気を感じたが、それも少しすると解けて、緩和した。
(そっか……)
 朋樹が言葉にしなかった、否、気付いていないのかもしれない――その奥の感情に、裕貴は気付いたのだ。
 不安だと、朋樹の瞳が、言葉が語る。裕貴がまだ夢現を彷徨っているように、朋樹もまた、まだ実感が薄いのだと。何時も一緒に居ないと、するりと離れて、また不安定な関係に戻ってしまうんじゃないかと、全てユメだったんじゃないかと、そんな不安が浮かぶ。
 好きなんて感情も言葉も、障害の前には酷く儚いものに感じられて。
 裕貴が朋樹の言葉や態度に、困惑しながら、その奥の感情を探っているように、朋樹もまた、裕貴の一挙一動に言い知れない不安を募らせている。
 もっと確かな、揺るがない答えが欲しい。
 今の二人が嘘じゃないと、信じられる確かな根拠が。
「朋樹」
 名を呼ぶと、落ち着いたのか、柔らかな瞳が裕貴に向き直った。小首を傾げて、次の言葉を待つ動作。
「好きだよ」
 言うと、驚いたように目を見開いて。
「朋樹が信じられるまで、何度だって言うから」
 だから、と続けて、裕貴は笑顔を浮かべた。
「不安になんてならなくていいよ」
 きょとんとした表情が、しばらくして綻んだ。
「流石、アニキ……」
 そう呟いて、朋樹の顔が近付いてくる。

 重なり合った唇は、優しい時間の始まりを二人に告げた――。




 



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2008/11/29