優しい時間 2






 ドアをノックする音で、裕貴は目を覚ました。
 控えめ、とは程多く、急いた調子のノックだった。
 何事だろうとは思いながらも、裕貴は目を擦りながら枕元の携帯に目をやった。チカチカと点滅するイルミネーションは着信かメールを告げているようだったが、まずは時間を確かめようとサブディスプレイに目をやる。
「――」
 目覚ましの音さえ鳴らない様な時刻だ。寮は学園の敷地内にあるから、徒歩でも十分で着いてしまうような距離だ。部活動に勤しむ生徒達とは違って、裕貴などは八時過ぎまで惰眠を貪るのが常である。同室の大和は授業に間に合うギリギリまで寝ている性質だ。
 携帯の時計は六時少し過ぎを指していて、裕貴はそこでやっとのろのろと布団から這い出た。火災や地震などの災害時には非常ベルがけたたましく鳴り響く事になっているので、そういった非常事態で無い事だけは分っている。
 けれどそんな風に裕貴が黙考している間も、ノックは絶え間なく続いていた。
 眠そうに欠伸をかみ殺し、緩慢な動作でドアまで歩いていく。相手を確認する事もなく鍵を開け、目を擦りながら――
「……はい?」
 ドアを開けた瞬間に、押し戻された。
「はよ」
 耳元で囁かれた言葉と、抱き締めてくる相手の体温に、裕貴は目を見開いた。
「と、朋樹!?」
 しっかりと制服を着込み、髪まで整えた、朝だと言うのに気だるげな印象を一つも感じさせない爽やかな笑顔を浮かべた朋樹その人が、そこに居た。
「起こして悪い。一応メールしたんだけど」
 身体を離して苦笑する身勝手な訪問者は、
「居ても経ってもいらんなくて、来ちまった」
 蕩けそうな笑みを浮かべて裕貴の額に唇を押し付けた。
 固まったまま目をぱちくりとさせて、裕貴はただ朋樹を見上げた。
 まだ覚醒していない上に、頭の回転は早く無い裕貴である。昨日恋人同士になったという記憶は勿論あったが、だからと言って目の前の男が自分の知る朋樹とはかけ離れた行動を起こすものだから、何か悪いものでも食べたのか!?という考えの方が先に浮かんでしまったくらいだった。
 どちらかと言うと裕貴の知る朋樹は大和と同じように、授業ギリギリまで――というよりは殆ど昼過ぎまで、授業をサボる事も厭わず寝入っているような性格だったのだ。それにプラスして、見兼ねた裕貴が無理矢理にでも起こそうとすれば、間違いなく鉄拳が飛んでくるような酷い低血圧を持っていた。
 その男が、だ。
 王子のような爽やかさで、不機嫌の欠片も無く、ただ裕貴に笑いかけている。
 まだ自分は夢の中なのだろうか、などと不安に思いながらも、相変わらず裕貴を見下ろし続けてくる優しい瞳を見返した。
 朋樹の目に映る自分は、猛獣に射竦められた小動物さながらに落ち着きが無い。
(うわ、それよりも酷い寝癖)
 朋樹の瞳を鏡代わりにそんな事を思っていると、ふいに朋樹の瞳が近付いてきた。
 ――と思ったら、そのまま頭の後ろを掴まれ、唇を奪われる。
「んぅ?」
 驚いた顔の裕貴が、朋樹の閉じられた瞼の奥に消える。間髪居れずに差し込まれた舌が、裕貴の舌を絡め取った。
 突然のキスに目を見開いたままの裕貴にお構いなく、朋樹は存分にその口内を荒らしている。
「んぅ、ん……んっ」
 しばらくの間そうやってされるがままになっていた裕貴が、やっと唇を解放された時。
「……エロイ顔……」
 唇の端を垂れた唾液を舌先で舐め取りながら、朋樹はにやりと笑ってみせた。
 その顔のほうが何倍もエロくて、裕貴の顔に一気に熱が上った。きっと真っ赤になっているであろうその顔を至近距離で見られる事に抵抗があって、裕貴は乱暴に朋樹の身体を押しやると、距離を取った。
 濡れた唇を手の甲で拭って、
「な、何なんだよ朝っぱらから!」
 大和を慮ってか、小さく怒鳴る。
「誘ったお前が悪い」
「! さ、誘ってない!」
 どんな思考回路をしているのか、肩を竦めた朋樹は悪びれる様子も無い。
 その兄と弟の間のものでは無い独特の空気に、裕貴は戸惑いを隠せない。
 そんなにすぐに切り替えられる程、裕貴の中では単純な問題では無かった。
 勿論想いが通じ合った事は単純に嬉しいし幸せだ。けれど昨日と今日とでいきなりそんな風に恋人然とされてしまうと、経験値の低い裕貴は抵抗ばかりが先に出る。
 ――それはつまり、羞恥心というやつだ。
「っていうか、こんな朝早くに何しに来たの!?」
 恥ずかしさのあまりどうしてもつっけんどんな態度になってしまうのは否めない。
「迎えに行くってメールしたじゃん」
 相変わらず部屋の入り口に突っ立ったままの朋樹が、若干傷付いたように苦笑した。
 ああ、携帯の点滅はそういうわけかと思いながらも、
「見てない! っていうか早いから!」
素直に喜べない天邪鬼な自分を、裕貴には止める事が出来ない。
 昨日の夜はあんなにも蜜月を楽しめたというのに、やっぱりメールは偉大だと完全に思考は明後日の方向へ向かいだしていた。
「会いたかったからだろ」
「それでも常識的に無いから!」
「お前も素直に喜べよ」
「俺は別にっ!!」

 ――もうどう修正したらいいのか分らなくなって、ただ声を大きくして反論していた裕貴の天の助けは、「五月蝿い!」という怒号と共に飛んできた枕だった。




 ■ ■ ■ ■ ■




 授業が始まるのは九時半。生徒のほとんどは、九時頃に登校してくる。
 八時半の通学路には生徒もまばらではあったが、だからこそ連れ立って歩く三人は目立った。
 裕貴がこの時間に登校するのは稀とは言っても、そこまで異様では無いが。その両脇を歩く二人は、終ぞ見えた事が無い。
 左側の大和は何時だって授業ギリギリの登校である。
 右側の朋樹は一時間目からの登校は愚か、授業に出ている事すら数える程度。その上裕貴とは兄弟喧嘩の真っ最中であるとの見解があった。
 そんな二人は仏頂面で、間に挟まれた裕貴は居心地が悪そうに俯いているという様子だったから、いっそう人目を引いた。
 それは教室に辿り着いてからも同様だった。
 机に突っ伏して寝に入った大和と、番犬よろしく裕貴の周りを威嚇するような朋樹と、やはり居心地が悪そうに俯く裕貴――気にはなっていても、近寄れない雰囲気を醸すその三人を、興味津々ながらも遠巻きにしている生徒達。
 その空気を物ともしないのは、情報屋という繊細な仕事には大よそ向かないようなお調子者、嵐だけだった。空気の読めない彼は、むしろ突撃リポーターの方が似合っている。緻密に情報を集めていく、というよりは、体当たりで情報を拾って来るという様な。
「何時の間に仲直りしたんだよ!!」
「えーっと……」
「何があったわけ? 昨日の今日で番犬復活どころか、朋樹のブラコン酷くなってない?」
「あー……」
「しかも大和まで連れてきちまって!!」
「あはは」
 歯切れ悪く苦笑するだけの裕貴に、嵐は次から次へと質問を投げ掛けて来る。
 友人の兄という立場の朋樹を呼び捨てにして、不良生徒と恐れられる彼をブラコン扱い出来るのは後にも先にも彼くらいのものだろう。誰も彼もが朋樹の番犬っぷりを行き過ぎではなかろうかと胸の中で疑問視するだけに納めていたというのに、と、その場で耳を欹てていたクラスメート達が命知らずの嵐に賞賛の拍手を送る――勿論心の中で。
 しかし回答を得られる前に、予想通りに大和と朋樹に「煩い」と怒鳴り散らされて、嵐はすごすごと引き下がった。
 去り際にいじけ顔の嵐に「ごめん」とフォローを入れて、裕貴は頭を掻いて今朝の事を思い返す。
 
 飛んできた枕は見事に裕貴にクリーンヒット。
 壁側のベッドの一階で、胡乱な瞳をした大和は枕を投げたままの姿勢。
「痴話喧嘩は外でやって」
思わず身震いしてしまうような冷たい視線は、彼の堪忍袋の緒が当に切れている事を物語るかのようだった。大体にして裕貴の同室になってから数週間、大和は兄弟喧嘩の弊害を大いに受けていたので、付き合い立てのカップルへの気遣いなんざこれっぽっちも持ち合わせていなかったのだろう。
 何より彼の睡眠を邪魔した事が大きい。
「ごめんなさい」
 枕を抱えたまま、裕貴はその凍る視線を見返す事が出来ずに目線をずらした。
 そしてため息交じりにまたベッドに戻ろうとした大和を、彼の怒りなど意にも介さぬ男は遮った。
「あ、調度良かった。オレ、不津に話あるんだわ」
 あっけらかんとした口調は、全く反省していない。そんな朋樹を無視してベッドのカーテンを引いた大和を、更にカーテンを開けなおして留める。
 不機嫌を露にした大和を真っ直ぐに見つめて、
「悪いんだけど」
そう前置きしながらも、ちっとも悪びれない態度で口を開いた朋樹に、唖然としたのは大和だけでは無く。
「部屋、戻してくんない?」
「はぁ!?」
 ――あんなにも不愉快そうに顔を歪めた大和は、きっと早々お目にかかれないだろう――一気にのけ者にされた裕貴は、混乱した態で二人の遣り取りを眺めながらそんな事を考えていたのだが。
 兎にも角にもそんな提案をした朋樹を、大和は嘲笑して切って捨てた。
「悪いんだけど、俺は不動から離れられて心底、心から、ほっとしてるわけ。この幸せを手放す気は毛頭無い」
 そうやって二人は、しばらく部屋替えについて討論を続けた。どちらも一歩も引かず収拾がつかない有様で、
「裕貴はどう思う!?」
息の合った調子で二人に同時に振り向かれた所で、
「とりあえず、学校行こうか」
裕貴はヒートアップした二人を宥めすかして連れ出したのだった。

 ――そんなわけだから、三人の間には不穏な空気が流れている。
 朋樹も大和もお互いに折れる気は更々無い様だ。裕貴としては元に戻りたい等と言うのは自分達の我侭でしか無いと分るし、大和が不動との同室を本当に嫌がっていると知ってしまうと、友人としても気が引けてしまう。勿論朋樹と同室に戻れるのなら嬉しいが、それはそれで不安な気がしている、というのも若干ある。
 朋樹との仲が修復した今となっては、別室であり別棟である事等大した問題では無いとも思う。
 そういった諸々の事情を踏まえておくと、裕貴の意見としては大和を支持する事になるだろう。
 けれど口に出すのが憚られる意見であるから、裕貴から言葉を紡ぐのにはかなりの勇気が必要で、殊更肩身の狭い思いを抱いて二人に挟まれている次第であった。



 



 PHOTO BY 05 free photo






back  novel  next
2008/09/22