優しい時間 1






「おかえり」

 日付はとっくに変わっていて、何時もなら大和は眠りの淵を彷徨っていておかしく無い時間だった。日頃から睡眠欲の強い奴で、こっちが相談事してようが何しようが自分が眠くなってくるとお構い無しに布団に入ってしまうような男だったから、その日彼が起きていた事にはびっくりしてしまった。
 寮であるから当然それなりに厳しい規則があって、夜の点呼は惰性にはなっているけど存在する。何時もその時間にはきっちり寮にいる俺で、大和とは同室になって日が浅いとは言え、連絡無く部屋に戻らないとなれば確かに心配はかけるだろう、とは思っていた。今では携帯なんて便利な道具があるけれど、朋樹を探すのに必死でメールの返事さえ返さない有様だった。
 勘の良い大和の事だから、適当に理由をつけて点呼をやり過ごして、窓くらい開けてくれているだろうとは思っていたのだが。帰ってくるとやはり窓のカギは開いていて、ただ中で煌々と灯りが点っていた事には、おやとは思った。
 部屋の外まで律儀に送ってくれた朋樹に戸惑いつつも、多分そっちの幸せの方が大きくて。鼻歌でも出そうな勢いで部屋に入って、そこでソファに腰掛けている大和に驚いた。
 窓枠を跨ぐ姿勢のままで固まる俺に、大和は何時もの無表情で言った。
「いちお、心配したんだよ」
 責める口調では無いようで、俺に手を差し伸べて部屋に招き入れてくれる。その手を素直に取りながら、
「ごめん、ただいま。ありがと」
「その様子じゃ上手くまとまったんだな」
 相変わらずの無表情が、欠伸を一つ。
「え」
「不動からも聞いてて、一応予想はね。しかもその顔だし」
 指摘された顔は自分でも自覚があったので、う、と呻く。大和の勘が良いだけでなくて、自分の顔が感情を素直に浮かべてしまう様だという事は、もう大概気付いている。大和と同室になる経緯を、最初の日見事に当てられたのも自分の表情を読み取られたからだし、その後も何かと見抜かれてきたが、全てその表情に起因する事が大きかった。
 それこそ見なかった事にして欲しいものだが、大和は余計な事まで口にしてしまう性質であるからして、それを求めるのは間違いという所だろう。
 そもそも今まで心配やら迷惑をかけてきて、避けて通れない問答ではあったけれど。内容が内容なので、あまり諸手を上げて報告も出来ないとは思っている。
「ん、それ正しい」
 また俺の表情を読んで、大和が呟いた。――会話の成立が言葉と顔で出来るっておかしい。
「俺は、偏見ないけど。で、ここは往々にしてその手の話には寛容だけどさ。お前達の関係は倫理的に言ってもオカシイからね」
 ずばり、核心を突いてくる。
「分ってる。努力はするよ」
「傷付くのはお前だし、それで困るのはきっと朋樹だよ」
「……うん」
 今更何を言われても、朋樹が傍に居ない苦しみに比べたらどうって事無いけれど、出来れば平和に過ごせた方が勿論良い。
「それでも気付く奴は気付くだろうけどね。特に嵐なんかは情報早いと思う。――ま、付き合うからにはある程度覚悟出来てんだろ?」
「うん」
 即答すると、大和が楽しそうに笑った。そういう表情は珍しいが、からかいを含んでるようで少し居心地が悪い。
「お前の場合想像力足りてないから、あくまでもある程度なんだろうけど」
「ほっとけ」
「うん、ほっとく。じゃ、もう寝る」
 もう一度大きく欠伸を落として、大和は二段ベッドの下、自分の定位置へと戻った。
 ベッドのカーテンを閉めると、すぐに寝入るような規則的な息遣いが聞こえ出す。それに苦笑しながら着替えて、ベッドを上る。
 その途中、大和が思い出した様に言った。
「おめでと」



 布団に入ったものの、その夜は中々寝付けなかった。
 布団に入った瞬間、今日の(もう昨日だが)事が思い出されて、知らず知らずニヤケてしまう。
 朋樹が好きなんだと自覚した途端、これまでの寂しさとか悲しさとか痛みなんて全部吹っ飛んで、幸せな気分で満たされていた。
 恋人、と呼んでいいのだろうか。この場合、朋樹が彼氏って事になるんだろう――あまりにもすんなりと受け入れてしまっているのが、おかしいけど――明確にそうやって線引きしてみれば、朋樹はよくよくいい男だった。思わずどきっとしてしまうような柔らかい微笑み、優しい掌、歩調を合わせてくれる気遣い、そのどれもが、自分を大切にしてくれている様子がありありと感じられて、嬉しい。
 それまでは兄弟として過ごして来て、兄弟であった時には有り得ない行動ばかりであるにも関わらず、違和感無く、まるで今までもそうであった様に自然に恋人になった。
 同じ寮内で、学校の敷地だっていうのに、わざわざ部屋の近くまで送ってくれた朋樹。額にキスを落として「おやすみ」なんて囁いて来て、一体どこでそんな技覚えてきたんだかって感じなんだけれども、それが恥ずかしい程甘ったるくて幸せだ。
 これこそが本当の二人なんじゃないか、なんて思ってしまう程だ。
 自分の中にこんな乙女な感情があるなんて何だか納得出来ないけれど、でも朋樹がそれで笑ってくれるなら良い、なんて……もう認めるしか無い。俺はかなり朋樹が好きなんだ。
 数時間前まではそんな感情に気付きもしなかったくせに、都合の良い俺の頭と心はそんな風に朋樹の言葉や行動を反芻して。
 一人で身悶えていると、充電器に挿した携帯が激しく震えた。マナーモードにした携帯が布団の上で静かに明滅する。
 朋樹からのメールを告げる青いイルミネーション。メールなのに早く取らなきゃなんて慌てて携帯に手を伸ばして、開くと。
 題名には『今日の事』と記載されていて、本文には、
『夢じゃねーよな? 朝起きて夢だったらかなり泣けるんだけど』
言葉尻に泣き顔の絵文字をつけた何とも可愛らしい文面だ。普段の朋樹では考えられないそれも、蜜月ならではと言えるだろう。
 何とも言えないむず痒さに思わず枕に顔を埋めてしまう。その姿勢のままカタカタとボタンを押して返事を作る。
『夢じゃないよ』
 語尾にハートマークでも付けそうになって、それがあまりにも恥ずかし過ぎるので、素っ気無い一言になってしまう。
 送ってしまってから、簡単過ぎてやしないかなんて不安になっていたのだけれど、すぐに返事が返ってきた事にほっとした。

『俺、かなりキモイな。つうか、悪い。すっげぇハイになってる』
『多分、俺の方がキモチワルイよ。今も、女みたいに真っ赤になってる』
『お前の怒って真っ赤になった顔とか、泣き顔って、すっげぇ可愛いよ。めちゃめちゃ色っぽい』
『何、それ』
『どんな顔でも好きだって事』
『朋樹、キャラ違ってない?』
『俺も思う(笑)。必死になってお前に返事してるとこが、もう有り得ないな。でも今まで我慢して来たんだから、これぐらい許せ。今は思った事全部やらなきゃ気が済まねえ』
『だから嫌じゃないってば。恥ずかしいけど嬉しいし……何か、新鮮』
『本当は、いつだって優しくしてーんだけどな。余裕無い時は余裕無いから、お前泣かしたりしちまったし。その事は後悔してんだ。だからその分、これからは何だってしてやりてー』
 真面目な文面でこうも甘い言葉を返されると、俺はもう何だかどうしようも無く恥ずかしくって。顔を見て話してたら絶対言えない様な事も、携帯メールなら素直に言えた。天邪鬼で子供な俺にはとても便利だった。
『一緒に居られれば何だって良い。俺、それ以外何も望んでないよ』
『俺も』
 瞬間はにかんだ様な朋樹の爽やかな笑顔が思い出されて、俺は我慢できずに枕に拳を打ちつけた。
 思いの他、ベッドが軋んで揺れた。
「……うっさいんだけど」
 押し殺した、一瞬で空気を凍らせる呻きが階下から聞こえる。
「……ごめんなさい」
恐らくしばらくは、静かに身悶えていた俺の気配に耐えてくれていたのだろう大和の、冷然とした怒りの蓄積された声だった。俺は思わずベッドの上で正座をし、見られてもいないのにそこで深く頭を下げる。何時もであれば睡眠の邪魔をすれば不機嫌に「消えろ」なんて言ってくるような大和が、幸福という舞台で踊る俺を慮って、堪えてくれていたのが分った。気配に人一倍敏感な彼だったから、随分我慢を強いたのだろう。
 素直に謝ると、寝返りを打つ衣擦れの音が聞こえた。
 俺は必要以上に息を潜めて、これまた音が響かないように、ゆっくりと携帯のボタンを押す。それでもカチャカチャという機械音は静寂に包まれた部屋に、無意味に響いている気がする。
『ごめん、大和に怒られた』
『俺こそ遅くに悪ぃ。明日、またな』
『うん、おやすみ』
『おやすみ』
 その会話を最後に携帯を閉じる。今まで目に焼きついていた携帯の明りが消えた瞬間、どっと睡魔に襲われる。
 ふわぁと欠伸を漏らして、天井を見上げる。耳に、大和の規則的な寝息が響いて、それが更に眠気を誘った。

 携帯を胸の上で抱えて、その夜、俺は久しぶりに穏やかな気持ちで眠りに落ちた――。






 



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2008/09/03