ただ、何時も 6





「……好きだよ」
 そう言って疲れきってぐったりした俺の、眦にたまった涙を舐め取りながら、俺を抱き締めたままの朋樹が小さく、けれど優しい声音で言った。
 俺が不意を突かれて目を見開くと、甘いマスクが更に甘ったるく微笑んだ。
「鈍感なお前でももう分ってると思うけど、家族のそれじゃなくて、好きだ」
 俺を見つめてくる瞳に浮かんだ感情は、多分きっと愛しさの表れなんだと思う。切なくって悲しげで。
「男相手で、しかもそれが双子の兄貴なんて不毛過ぎるよな」
 自嘲気味に笑う朋樹に何も言えずに俯く。
「気付いたのは、親父達が海外行くってなった時。親父が前のマンションで二人で暮らすかって言って来て、俺冗談じゃねーと思ったよ。一緒になんて居られるかって、そう思った時の感情が何のなのかすぐ分って、戸惑った。あほらしいって思って気のせいだって思って、でもやっぱ――お前と居ると苦しくって、錯覚でも何でも無いんだって思い知らされた」
 訥々と語られる台詞。朋樹の態度がおかしいと感じ出した時期だ。
「でも兄弟じゃん? 家族じゃん? だからさ、我慢してれば何時か消えてくれると思ったんだよ。……でも、駄目だった。誰と遊んでてもお前の顔がチラついて、このままじゃ俺が駄目んくなるって思った。 だから無理やり距離でも取んなきゃ、俺、絶対お前に手出す自信あったし」
「……自信持つとこ違うだろ……」
「こちとら健全な青少年だぞ」
 軽く突っ込んでやれば、ほっとした様なため息交じりに朋樹が言う。話の内容にさえ目を瞑れば、昔の自分達の関係が戻った様な、極自然の流れだった。
「でも離れてみても、何処でだってお前の話題には事欠かないワケ。学校行くのウザくなってフケてみても、時間がありゃお前の事考えちまう。俺よりマシだろって思って今まで遮断してきたヤツらも放置してみたって、やっぱお前に近付いてる男がいんだと思うと苛立つし、ムカつくしで、何しても結局どうにもなんねーから……すっげぇ、多分、追い詰められてたんだと思うんだよな」
 暗がりの中頭を掻いて、「でも」と朋樹は続けた。
「それが言い訳になんねぇのは分ってる。どんな理由でも、こんな事しちまってイイいい訳にはなんねぇ。――でも、分って。だから俺は、お前とは一緒にいらんねぇよ」
 立ち上がった朋樹が頭上で苦笑する。どうしていいか分んなくて俯いたままの俺の感情なんて、ばればれの様だ。膝を折って今度は、朋樹の顔が下の位置に来て逆に見上げられる。ベンチに腰掛けてる俺のほうが上にあるのは道理だ。
 朋樹は躊躇いがちに俺の両手を握って、自分の額に当てた。俺の手を握る指が微かに震えている。
「ごめんな。お前が傷ついてるって分ってた。好きな相手、傷付けたくはねぇのにな……それがお前なら尚の事、」
 優しい声が逆に痛い。その気持ちが本物なんだって、冗談にして逃げるなんて出来ないって、良く分った。
 分ってしまったら自分の子供っぽい執着心で一緒に居たいんだなんて主張出来る筈が無かった。
 昨日、不動に言われた言葉をふいに思い出す。「いい加減解放してやれ」っていうのは、こういう事だったんだ。
「お前の事ガキだガキだ馬鹿にしたけど、結局のトコ、俺のほうがガキなんだよな」
 何時に無く饒舌な朋樹。それが決別の為なんだと思うと、俺の心は張り裂けそうになった。
 知らず流れ出す涙を、伸ばした朋樹の指が拭う。
「だからさ、きっと――元に戻れるから。大人になれば、お前の事、ちゃんと兄貴だって言えるようになる。……お前が許してくれるなら、家族に戻れる日がぜってぇ来るから」
「……許す」
「あ?」
「許すよ」
「即答かよ」
 朋樹に握られた手を握り返しながら、やっとで朋樹の顔を見る。朧な視界の中で、朋樹が満面に笑みを浮かべた。
「いや、嬉しいけどよ。お前その考え足らずで発言するクセ、直せよな。今までは何とかなったけど、お前の不用意な発言がとんでも無いこと引き起こしても、これからは俺何もしてやれねーから」
 何気ない筈の、もう当たり前の筈のその言葉に、一気に血の気が引くのが分った。
 ――今までは?
 頭では分っていた筈のその事実に、頭が冷える。
 ――だってもう、一緒に居られない。朋樹の気持ちが落ち着くまで。
 ――それって、何時? 何時まで?
 微かに震え出した俺に、指の先で朋樹が首を傾げた。
「ひろ?」
 ――何時まで?
 この手が無くなる。この声が聞けなくなる。独特なイントネーションで名前を呼ばれる事も。はにかんだ様な笑みも。不遜な態度も。馬鹿にする度に頭を撫でる掌も。
 クラスが違うとか。学校が違うとか。趣味が違うとか。過ごす時間が違うとか。そんな事じゃなくて。そんな一瞬の別離では無くて。
「……そこまで心配しなくても、大丈夫だよ。お前ほら、あの…同室になったヤツとか、後お前のクラスの小うるさい仲間とか、情報屋のやつとか、頼りになるヤツ一杯近くにいんだから。だけどまあ、用心しろよって話だ」
 青ざめた俺を慰めるような言葉。俺の顔色の理由はきっと上手く通じて無い。けれど言葉にはならなかった。自分でも良く分らないこの漠然とした不安を伝える術なんて、俺は持ってないから。ただ震える唇を動かして、何とか「分ってる」と言えただけ。
 ――何時まで、朋樹と離れてたらいい?
 それこそそんな我侭が口を付きそうになった。
 心配しているのは自分の身の事なんかでは無いのだ。何があったって、それが自分の所為ならそうだって割り切れる。例え後悔する事があっても、それはそれだ。問題ない。
 ただどうしようもなく怖いのは、その傍らに朋樹が存在しない事なのだ。自分の半身が何時帰ってくるのか分らないのが不安なのだ。そんな落ち着かない状況に耐えて、待ち続ける事が自分に出来るのだろうか?
 体の距離が離れるのはどうって事無い。寂しいと思う事だってあるけれど、慣れられる。でも、心の距離はどうだろう?
 たった数ヶ月、朋樹の心が見えないだけで情緒不安定であったのに、それが何時まで続くか分らない恐怖にこれ以上耐えられるのだろうか? それこそ、慣れる事があるのだろうか? 自分の一部を失って何も無かった様に過ごす事が、一体誰に出来る?
 強張りの解けない俺の手を、朋樹が引っ張って立たせてくれる。
「帰ろうぜ? お前の部屋、開いてる?」
「多分……大和が開けてくれてる」
「あっそ。一応連絡しておけよな」
 携帯で連絡しておくよう示唆して、朋樹の手が離れる。
 その消失感に、俺は思わず朋樹の腰にしがみ付いた。枯れたと思う程に流れた涙が、また盛り上がってくる。
「俺、やっぱヤだっ!!」
 じわり、と頬に触れる汗ばんだ熱が心地よい。ああ、やっぱり手放せやしないんだって実感する。失えない。例え少しの間でも。
「ひろ、分れよ」
 舌打ちして朋樹が俺の手を引っ剥がしに来るけど、俺は更に力を込めて、全身でぶつかるようにして早口に捲くし立てた。
「だってヤなもんはヤだ! 納得出来ない! なんで駄目なの? 何が駄目なの?」
「今まで通りじゃいらんねーんだよ!」
「今まで通りなんて言って無い! 何で一人で決めちまうんだよ、だって、俺……嫌だなんて言って無いだろっ!!」
 朋樹の顔が茫然として、力の入っていた体が不自然に固まった。その顔を見て、俺も唖然と口を噤む。
 でも、言った言葉に嘘は無かった。そうなのだ、と、とても自然に思う。
 半ば自分に言い聞かせるように、俺は頷いた。
「そうだよ、嫌だなんて思ってない。普通なら気持ち悪い筈なのに、さっきのキスだって嫌じゃなかった。……俺、正直言って恋だの愛だのわかんねーケド! でも俺、自分がお前以外の女とか男とかと一緒にいるとこ想像出来ないし、お前が昔女と付き合ってた時も! お前が、じゃなくて、女が羨ましく思えたり、もしたし……だから、多分。わかんねーケド、俺は、お前が」
「待て、都合良く解釈しちまうから、止まれ!」
「俺も、お前が好き」
 言ったらスッキリした。ああ、そうなんだって、そうだったんだってストンと言葉が落ちて来て、胸の中の感情に答えをくれる。
 一緒に居ると嬉しいし、楽しいし、幸せになる。触れる温もりにじんわりと暖かくなる。ホッとする。何時も朋樹の行動や気持ちが気になるし、不安にもなる。こんな感情、朋樹以外に感じない。他の、誰にも。
「この感情が愛じゃないなら、何なんだろ?」
 泣き笑いの顔で、もう一度朋樹の体にしがみ付いた。
「今だって、朋樹がもし他の誰かのものになったらって思うと、怖い。俺じゃない誰かと、キスとかするんだって思うと……心臓痛くなる」
 これはもう恋だろって。苦笑するように朋樹の顔を見上げると、朋樹が躊躇いがちに俺に手を伸ばしてきて、その手が肩の傍で所在無げに止まるのが見えた。
 その顔がもう堪らなく愛しくなって、何で今まで気付かなかったんだろうって思うと更に笑えて。
「俺も、お前が好き」
 もう一度そう言うと、今度こそ朋樹の腕が俺の体を強く強く抱き締めた。
「嘘だったら殺すぞ」
「嘘じゃない」
 掠れた声が、耳に心地よい。
「錯覚でも、同情でも、聞いた以上我慢しねぇ」
「錯覚でも、同情でも無いよ」
 言いながら甘えるように朋樹の背中に腕を回す。そうするのが至極当然のように思えたから、朋樹の広い胸に顔を摺り寄せた。
 ああ我ながら女々しいなって思えるような行動だったけど、俺と朋樹の間ではそれが今まで、当たり前だった気もする。我侭で甘えたでどうしようもなく子供な俺を、叱りつけながらもフォローしてくれていた朋樹と。
「キス以上の事も、」
 耳元で呟かれた言葉の意味を悟って、かーっと顔が熱くなるけれど、それさえも。
 ――嬉しい、幸せ。
「今すぐとか無理だけど……ど、努力、する……」
 くぐもった声で何とかそれだけ口にすると、朋樹が体を離して、俺の目を見ながら笑った。それがすごく幸せそうな、蕩けそうな程男前だったから、益々顔面に血が上る。
「そんなに長い事待てねェよ?」
 唇に落ちてくる吐息と、温もり。
 重なった唇に、泣きたくなる程の幸福を感じた。

 何だ、簡単な事だったんだ。
 周囲から見たら有り得ない関係で、有り得ない感情でも。朋樹が笑ってくれるなら、それだけで良い、なんて思える程に。
 間違いだらけで、胸を張れる事なんて無い想いでも。
 一緒に居られるなら、それで良い。
 朋樹が居れば、それだけで良い。

 ただ何時も一緒に居られれば、ただ何時も朋樹が傍に居れば、それだけでこんなにも満たされる。
 俺は心の中で、朋樹がくしゃくしゃに丸めて捨てた告白を、綺麗に伸ばして広げた。
 告白の答えは決まってる。
 きっと朋樹よりももっと、ずっと前から。


 俺は朋樹が、ずっと好きです。
 




 









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2008/08/17