いつかは離れてしまう人 3 |
王子大と会話らしい会話をしたのは、高校一年の秋だった。
夏の大会が終わって三年生が引退してから、王子が直ぐに準レギュラーの枠に入ってきて。
ポジション別の練習が多かったこの頃は、特に話す事もなかった。
たまたまロッカールームで一緒になった日。
「これ、誰の荷物」
簡潔に問われた低い声が彼のロッカーを塞ぐ荷物を指している事に気がついた。
ロッカーは自分の左側は全く使われていなかった筈で、無頓着に荷物を広げていたのは僕だった。
着替えが一緒になった事が無かったので、気が付かなかったのだ。
「ごめん、僕だ。邪魔だったよね」
僕は別段他のメンバーと違って、彼の才能を妬んだり準レギュラー入りを快く思わないわけではなかったので、素直に謝罪して荷物を自分のロッカーに詰め込んだ。
彼がグループ内で評判が悪く、馴染んでいないのは知っていた。そして彼が別段それを気にしていない風なのも。
これが僕ではなく他のメンバーだったら、ちょっとしたいざこざになっただろうなと苦笑する。
彼が、
「別に」
と無表情に言ったので、そこで会話は終わるものかと思った。
けれど意外にも、話を引き延ばしたのは王子だった。
「レアものだな」
「え?」
唐突に言われて何のことだか分からずに素っ頓狂な声を上げると、王子は顎でロッカーを示した。
投げ込んだ着衣の上の段に、履き古したバッシュがあった。雑多に詰め込んだ荷物の中にあって、唯一整然と並んでいるそれ。
彼の言う通りそのバッシュの型は珍しいもので、日本で販売されたのは数十個だ。今は引退したがアメリカで活躍していた黒人選手が履いていたそれは一時日本でもブレイクした。今でもマニアには有名で、履き潰れたそれでも売れば数十万になると聞く。
「ああ、これ先輩に餞別に貰ったんだ」
中学時代に付き合っていた恋人が学校を中退する時に貰ったのだ。彼が履き潰したそれを、別れた後も大事に取っている。
その彼が海外で働く父親に唯一プレゼントされた物だそうだが、彼は両親の離婚が決まって学校を追い出される瞬間に、あっさりとそれを手放した。
そうして今は、僕の宝物としてここにある。
「詳しいね」
「海外選手はあらかた見たからな。特にジョットのチームにはデビットソンが居ただろう」
ジョットと言うのは件のバッシュを気に入っていた選手だ。彼が現役時代活躍したチームは一流で、そこに属していたデビットソンもまた、一流のセンタープレイヤーだった。
「NBAまでチェックしてるんだ? それも結構昔」
「今のも当然チェックしてる。だがジョットの引退試合は何度みても、くる。あの日のデビットソンのプレイには鳥肌が立つ」
「ああ、確かに凄かったね。デビットソンの独壇場だったもの。優勝した瞬間、”神様”って叫んだジョットが僕は印象的だったけど」
僕はその時、別れた初めての恋人を思い返した。
父親の浮気癖に冷め切った家庭。来るべき離婚がついに、と笑って学校を辞めていった、素行の悪い、けれど直向にバスケットを愛していた彼。自分の貞操を守る為に彼に近付いて、そしてのめり込んだのは彼にだけでなく。
「この先輩に見せてもらった引退試合で、実はバスケットにのめりこんだ位」
取っとけと言って無造作に投げ渡された彼愛用のバッシュは、決別の証だったのだけれど。
それでも必要なくなったバスケ部から出て行こうとは思わなかった。ビデオで見た引退試合の様子はそれ程印象的で、輝いていて。何もかも見透かした恋人は「お前はやめんじゃねーぞ、バスケ」と、笑っていたっけ。
彼がいなければ居る必要は無いとその頃本気で思っていたバスケ部から、だから今も離れないで居る。
「俺はあの試合生で見てた。たまたま暇潰しにつけたチャンネルだったんだが、あまりに凄くて、次の日にはミニバスに入ってた」
「へえ、意外」
そこまで情熱的に見えない王子なので、思ったままが口をついた。でもまあ当時小学校低学年だった王子が今みたいに冷めた子供だったら、気持ちが悪すぎる。
その頃先輩の嫌味を軽く受け流す王子の表面しか知らなかった僕は、彼の事を冷たくて話にくい、位にしか思っていなかった。
けれど意外な所に共通点を見つけた僕らは、それから急速に進展していった。
そして、交際がスタートするまでの二ヶ月間。
あっという間に過ぎて、あっという間に心を奪われた。
ルームメイトとの不仲で王子の相手と部屋替えが行われたのは、初めて言葉を交わした一週間後。
王子が意外に努力家だということを、毎日欠かさずに行われた膨大な筋トレで知った。
無表情が地だと思っていた顔が白い歯を出して笑う事も。
低血圧の彼の朝の眠たげな顔が可愛い事も。
無骨な彼の手が器用に動く事も。
色んな事を知っていく内に、当時の恋人より多くの時間、王子の事を考えている自分に気付いた。
そんな自分の気持ちを自覚していくと、心は一気に引き寄せられて、ああ好きだなと、毎日胸を逸らせていた。
彼を見る自分の瞳に熱が篭る。
何気なく触れる回数が増える。
誘うように魅惑的に笑う。
そう自覚していたのは、何も僕だけではなかったらしい。
バスケ狂いの王子も、性欲は普通の男子高校生。
何気なく唇を重ねたのは、NBAの試合に興奮していた深夜の事。
好きだと告白は、王子から。その瞬間に自分の気持ちに気付いたと、王子は後から言ったっけ。
当時の恋人とは修羅場を演じたけど、何度も話し合って別れた。
その瞬間恋人となった王子と、肌を合わせるまでになったのは、そう時間の経たない後の事。
こんなに好きになるなんて思っていなかった。
初めての恋人と別れた時、僕は決めていたから。
純粋に、とてもとても彼が好きだった僕は、彼と別れた後泣いて泣いて学校も部活もしばらく休んだ。飯も喉を通らず嘔吐して、彼の温もりが側に無い事が怖くて、悪夢を見た。発狂するかと思った。
いっそ自分も学校をやめて彼についていこうかとか、そんな事許さない彼だから死んで楽になろうかなんて、馬鹿な事も考えた。
見兼ねた親友が別れた恋人に連絡を取ってくれて、彼が会いに来てくれた時、僕は病院に担ぎ込まれる一歩前で。
最後の逢瀬で、彼は僕を抱かなかった。
そうしてくれと泣き叫んだ僕の頭を優しく撫でながら、彼は僕に件のビデオとバッシュをくれた。
彼と夜通して見た引退試合に、僕は何とか踏みとどまれた。
あの恋は、本気だった。
だからもう本気にならないと決めて、それからは何度も相手を変えて目先の快楽だけを追っていった。
けれど王子に出会って僕は、彼より更に大事なんだと、愛しているんだと叫ぶ心を知ってしまった。
何故?
どうして?
本気にならないと決めたのに、僕はなんて阿呆なんだ。
だって、未来の無い関係。
今この時の刹那的な感情。
閉鎖的な空間で派生した偏愛。
海外で華々しく活躍する予定の王子と、平凡な就職を希望する僕では、卒業後の道は交わらない。
だから、僕らの関係もそこで終わる。
分かっている。
分かっていた。
それこそこの学園内では暗黙の了解だ。
分かっているのに。
この人は、いつかは離れてしまう人だ。
溺れる自分が辛くなるだけ。
”いつかは離れてしまう人”
そう何度言い聞かせ、何度別れを切り出そうと考えたか。
それでも一緒にいられるうちは一緒に居たいのだと。傍らにいられるこの時間は、彼を想って、想われて。
そして笑って別れられたらいい。
その瞬間を想う度胸が潰れそうになるけれど、でもそれを思っても一緒にいたいのだ。
せめて、今だけ。
今だけでもいいから――。
”いつかは、離れてしまうのに?”
頭の片隅で想いを笑う冷めた自分も、彼が愛しいのだと涙を流している。
いつかは離れてしまうから。
言い訳をするように僕は、頭の片隅で叫ぶ自分から目を逸らした。
いつかは離れてしまうけど、でも今くらいはそれを忘れてもいいでしょう?
ちゃんと分かっているから。
――分かって、いるのだから――
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2007