いつかは離れてしまう人 1 |
幾つもある体育館の一つ、バスケットボール部の為に用意された三階建ての二階で、姫野涼斗(ひめのりょうと)――姫と呼称される――は、腕で額の汗を拭った。
ボールを両手で弾ませてから、持ち上げる。ゴールへと放ったボールは綺麗なループを描いて、円の中心へと吸い込まれた。
ほう、と感嘆の声が上がる。
「これで百回連続?嘘だろ??」
「流石姫先輩」
ひそひそと紡がれる言葉を意にも介さず、涼斗は渡されたタオルに微笑みながら礼を返した。
ノルマをいち早く達成した彼は、一人壁側へと腰を落ち着けた。
両サイドの一番深い所、その上、更に中心の五つのポジションでそれぞれ百回のシュートを入れれば、涼斗等スリーポインターの練習は一先ず落ち着く。
全国に名を馳せるスポーツの名門校・青葉学園のバスケ部と言えば、全国区で有名だ。その部で、尚且つ二百人を超す大所帯の中で二年生である涼斗はレギュラーの一人であった。レギュラー十五人の内、二年生でそれに当たるのは涼斗と王子大(おうじだい)の二人だけである為、涼斗に向けられる尊敬の念は高い。
シューターとして天才的な力を発揮する涼斗にとってその練習は、あまりに簡単なものだった。――ではあったが、如何せん涼斗には持久力が無い。つまりは体力が無い。
日本人離れした長い手足を持っているが、身長は172cmとあまり高い方ではなく、全体的にひょろいイメージが付き纏う。元々の色白の所為もあって病弱そうでもあり、筋肉はそれなりについているものの、やはり申し訳程度。目を見張る程の美青年だが中性的な面が際立っており、運動より読書の方が似合いそうな第一印象を見る者に抱かせる。
遺伝的なものなのか幾ら鍛えても、涼斗は技術が上がるばかり。
たまったものでは無い練習量を、それでもこなせるのはその技術あってのもので、彼は課せられた様々な練習をいち早く終了させると余った時間を休憩へと用い、レギュラーの座に収まったのであった。
そんな彼と、名前と二年生レギュラーという間柄、何時も一組にされる王子大は――
「疲れた」
こちらも己の役割をいち早く終了させて、涼斗の隣へと腰掛けた。
「王子、終わったの」
問いというよりは確認の意で涼斗が言うと、王子は無遠慮に涼斗のタオルで汗を拭き始める。
「ああ」
素っ気無い返事に涼斗は苦笑する。
王子と姫――そう仇名される二人の関係は周知の物だ。二人はオープンな恋人だった。
男子校にホモは少なくない。故あって度を過ぎるものでなければその関係も黙殺される。
この二人も公私の混同を成さない為、部活内でも黙認されている間柄だった。最もその実力を前に文句を垂れられる者はそう居ない。
こと王子の方は、いずれ世界相手に活躍されるだろうと有望視されている人物である。引き締まった肉体、二m近い長身。ゴツイというわけでは無いが、ガタイに左右されるセンターというポジションにあって強固さを誇る。その上均整の取れた美丈夫とくれば嫌でも視線は集まるもの。
正にその名の通り、王子然とした彼と姫君の様に儚げな涼斗等は公認カップルであると共に一部の憧れと化している。
しばらく二人して無言で練習風景に目をやっていたが、涼斗の呼吸が落ち着いたのを見て取ったのか、王子はその視線を涼斗に固定してきた。それだけで涼斗の背をぞくり、と何かが走り抜ける。
王子の目は魔力を持っている――と、見つめられる度に姫は思う。自信に満ちた鋭い瞳は、闇の様に濃い黒色。それを見つめ返していると、ついつい吸い込まれて目が離せなくなってしまう。
王子は何時も涼斗の目こそが美しいと言ってくれるけど、絶対に王子の方が綺麗。
瞬きも忘れて見つめていると、王子は唇だけで笑みの形を作った。
「今日はどうする?」
まだ部活も終わっていないというのにせっかちな王子は、その後の予定を窺ってくる。問いの形は取っているものの、涼斗の答えなど分かっているとでも言いたげな表情。
「……特に予定は、無いけど……」
問われた意味に一瞬胸が高鳴って、それでも何でもない風に平静を装って、少し逡巡するフリをして見せてから言うと、王子は何もかも分かっているみたいな顔をして、もう一度薄く笑った。
それだけで放課後の予定を決めた二人は、すぐにチームメイトの顔を取り戻した。
「また高くなったな、安藤」
「そう……だね。肩幅も出てきて、筋肉も均整が取れてきたね」
密やかに交わっていた甘い視線は、その瞬間熱を失って、何事も無かったように一人の仲間に固定された。
一つ向こうのコートでシュート練習を行っているのは、準レギュラーに数えられえる一年生だ。
二階にコートは全部で四つあって、三階には、中央に一つ。こちらはレギュラーメンバーに許された、例えるならば舞台。沢山の従者を従えるようにマネージャーや一年生を投入して、あれやこれやと世話を焼かせ、それに伴う実力を持って君臨している王族の世界。レギュラーの中から持ち回りで三階に通され、鬼監督の下、ひたすらに試合を繰り返す。そして一試合を終えると下に下りて来て、個人の練習に没頭する。このレギュラー陣が三階と二階の二つのコートを使い、準レギュラーの十五人が残りの二つのコートで副監督の下で指導される。その他のチームメイトは半分を倉庫に占められる一階の二つのコートを使用し、残り――主に一年生は、外でコーチの指導を受けている。
準レギュラーに数えられる安藤は、王子とポジションを争う。争う、という程、肉薄した実力では無いものの。
けれど確実に、入学した時より成長を遂げた体は、監督の目にも留まっている。
「知ってるか? アイツ、 部活終了後もコーチに体力作りさせられてんだと」
「――タフだねぇ」
羨ましいな、と心底から付け足すと、王子はまた小さく笑った。
「それも、自分からお願いして」
それにも驚いて涼斗は目を見開いた。
「やる気、十分。そういうの監督も好きだしね……。王子、来年は危ないんじゃない?」
「蹴散らしてやるさ」
「そう言うと思った」
安藤なんてメじゃない、と。歯牙にもかけない王者の風格。
努力の仕方は人それぞれだと知っている。目に見えるものだけが全てじゃ無い。
たかが練習量を増やしただけで勝てる程、王子大は弱くはないよ、安藤……。ダンクをかまして、王子を睨む安藤が勝気に笑ったのを見て、涼斗は冷静に呟いた。恋人としての贔屓目では無い。そんな色眼鏡で見なくとも、純然たる真実としてあるものだ。何よりバスケの世界にそんな物を持ち込んだ事は、涼斗にだって一度も無い。
だって、知っているから。
――知っているから。
まだ一年生だった。
中等部から青葉学園バスケット部に所属していた涼斗が、その頃からのシューターとしての実力を買われて準レギュラーとしてコートを走っていた頃。
王子大は外部生として入学してきた。中学バスケ界では名の知れた選手であった王子でも、何の後ろ盾も無くレギュラーになれる程、青葉学園は甘くなかった。そんな選手はごろごろ居たし、名声の割りに活躍しなかった者もある世界だ。彼は最下層の外での練習を義務付けられた。
ただ、恵まれた体格をしている――と、その頃の涼斗が思ったのはそれ位だった。
三ヶ月が経った頃、その王子が準レギュラーとして同じ舞台に上って来た。当時キャプテンを務めていた三年生は、異例の昇進だとその実力を嬉しそうに語っていた。その三年生が卒業してすぐ、王子はレギュラーとして、王者として君臨した。
恵まれている、という言葉だけではもう済まなくなった。
それを知っているのは恐らく、レギュラーメンバーの一部と監督、そして涼斗と少数。彼らは、王子に一様に尊敬を抱く。
例えば彼は、今も昔もその部活へ望む態勢はけして評判が良くない。
部活のミーティングはサボる。部活が終わればすぐに帰る。そのくせ授業には遅刻も早退も無く律儀に出ている。
試合前の練習には決まって遅れる。その上相手チームのビデオ分析中は絶対に寝ている。
その他数え上げれば、エトセトラエトセトラ。
でも知る者は知っている。けして推奨できる方法では無いのだけれど。彼のバスケットへの姿勢は、情熱は、けしてそれを疎かにしているものでは無いと。ただ彼は一匹狼の如く、己の突き進む方向しか向かない。
部活のミーティングをさぼって、彼が外周を走っている事を誰が知っているだろう。例え雨の日であろうと、変わらない。
部活が終わってから彼は、別に体育館の明かりを深夜まで煌々と輝かせていたりはしない。けれど寮の部屋で、基礎体力作りを何セットも行っている事。テレビを見て笑ってるなんて、部屋から漏れる声で信じている者は馬鹿だ。彼の部屋で絶えずつけられているのは、NBAのビデオ。何度も何度も見返して、彼は技術を目に焼き付ける。彼が見ている高見は、遠く遠く遥か先。
授業中の彼が握力増強の為にポケットの中で絶えず握っている野球の硬球。錘をつけた手足。そして教科書の代わりに開いているのはバスケット雑誌。
試合前の練習をさぼって彼は、ビデオ分析の代わりに実際の、今の相手チームを観察しに行っている。
そのバイタリティは、見習おうとしても出来ない。
目指す所が違うのだ。
己の実力を見て、それなりの大学を選んで。それなりの実業団で活躍して?
それもありだ。
けれど王子はそんな小さな夢で終わらない。世界で羽ばたき、そしてその中でも王者として君臨するつもりなのだ。たかだか高校バスケで終わろうとしていない。
覚悟が違う。
――勝てないよ、安藤。誰かに勝つための、バスケじゃ。
「そう言うと、思ったよ」
そんな君だから惹かれたんだよ。
真実を飲み込んで、涼斗は静かに微笑んだ。
novel next
2007