51 人を裁けるのは事実だけ。



aperitivo.03








 クレイジードッグ。
 そう呼ばれるようになって、どれだけの時間が経っただろうか。
 クラウスには時間の経過などどうでも良い事だったが、この頃、この生き方に物足りなさを感じていた。
 人を殴るのは、そして恐怖に凍りついた顔を見るのは、今でもこの上ない幸せだった。そこにある充足感と高揚感は、他では感じられない。
 ――けれど。
 時々、夢の中で、決別した過去が蘇る。
 そして目覚めた瞬間に感じる痛みを、クラウスはどうする事も出来ないで居た。

 少し背が伸びただろうか。関節が軋む様な感覚がままあるから、成長期なのかもしれない。
 腕を伸ばして、確かに何と無く骨ばった印象があるな、とクラウスはまるで他人事の様に思った。
 握り拳を解いて掌を見つめてみる。
 生命線が長いわね、と笑う声が聞こえた気がして、クラウスは僅かに頬を緩めた。
 しかし次の瞬間、跳ねるようにして飛び退いた。
 踵に力を入れて身を捻る。眼前を銃弾が飛び過ぎた。
「へぇ、クレイジードッグって本当に子供なんだ」
 クラウスの瞳がねめつける先に、短銃を構えた迷彩服の男が居た。同じような屈強な男を従えて、迷彩服は片眉をあげる。
 クラウスはその男に迫りかけたが、背後の一人がマシンガンを担いでいるのを見て、躊躇した。
 一様に黒いバンダナを頭に巻いた男達は、その数5人。けして多い、とは言わないが、纏う気配は軍人に近かった。
 距離を詰めれば蜂の巣になるのは目に見えていた。
 一定の距離を保っていれば、ラピスラズリ患者のクラウスには逃走くらいは簡単に出来た。
 じり、と足先で砂が鳴る。
 相手が軍人であるのなら、近寄らない方が身の為だ。
 少数で動いていたとしても、近くに本隊が居る筈である。下手に衝突して追われるのは御免だった。
 クラウスの愛すべき戦場は、クラウスにとっての狩場なのだ。逃げ惑う相手を追う事にこそ意味がある。
「そう威嚇しなさんな」
 迷彩服は犬歯を剥き出して唸ったクラウスを揶揄するように笑い、構えていた短銃をぽいと放ると両手を上げた。所謂降参のポーズだ。
「いいか?」
 それから背後の四人にも同じ様に得物を捨てるように促し、再度クラウスを見る。
 しかし見える武器を捨てた所で、他に何も持っていないわけでは無いだろう。
 クラウスは男の意図を図りかねて、その表情を窺った。
「……キミの噂は良く聞くよ。若い身空でよくもまあ生き抜いているもんだ」
 訛りのある英語だったが、聞き取りやすい声が言う。
「それに敬意を表して、この度キミをスカウトしに来た」
「スカウトだぁ?」
 わざとイタリア語で聞き返したが、迷彩服は事も無げにイタリア語で返事をする。
「ああ、キミそっちの出身か。ふん? 随分遠くまで来たもんだねぇ」
 なぁ? と背後に同意を求めれば、仲間もしたり顔で頷く。とすれば、全員イタリア語に明るいのだろう。
 益々奇妙な一団だ、と、クラウスは心中で思った。
 先頭が欧米風の顔立ちなのに対して、一人は黒人で、一人は東洋人、残りの二人は判別がつかない。細身の男は見事な金髪だが始終俯いたままで、もう一人はクラウスと変わらない背丈の子供に見えた。
「そう警戒する事は無いさ。俺達はキミを殺す理由を持たない」
「……撃ち殺そうとしておいて良く言う」
「避けたじゃないか」
人の眉間を狙って二発も銃をぶっ放しておきながら、何を言う。
「というか、あれを避けたからこそ、もう殺す必要は無いんだな。有用な人材を無駄にする程酔狂じゃないんでね」
 そのおどけた口調に、クラウスの中で何かが弾けた。
 沸騰した脳内で、獣が叫ぶ。
 もう何もかもがどうでもいい。コイツラが軍人だろうと何者だろうと自分が死のうと――コイツの血を見ないと治まらない。
 地を駆った自分の拳が届くのが先か、相手が得物を構えるのが先か――しかしクラウスの予想とは異なり、五人は動かない。迷彩服はにやけた面のまま、しなったクラウスの拳を追うように視線を動かし――難も無く、掌で受け止めた。
 クラウスの拳は、既に凶器と化している。一発で骨を粉砕する威力は、しかし完璧に殺されていた。
「ひゅう〜」
 と、黒人が口笛を吹くのが目の端に映った。
 その顔が、回転する。
 ドサッという衝撃と共に眼前に空の色が映り、砂塵が舞ってやっと、クラウスは自分が投げ倒されたのだと知った。
 それでもすぐさま跳ね起き――迷彩服の唇から迸った笑い声に、振りかざした拳を、男の顔の前で止めた。
 たった一度――迷彩服の男が醸した雰囲気に、クラウスは圧倒されたのだ。
 そんな感覚は、生まれてこの方知らなかった。
 当然、背中に走った悪寒さえ、知らなかった。
 完全に動きを止めてしまったクラウスの前で、迷彩服は面白そうな表情はそのままに、笑いを治めた。
「キミ、やっぱり俺達と一緒に来なよ。こんな所で暴れているより、よっぽど楽しいさ」
「……あんたら、」
「ああ、自己紹介がまだだっけ」
 クラウスの言葉を先読みして、男は続ける。
「俺達は――そうだな、殺し専門の何でも屋さ。傭兵業だったり暗殺だったり、そういうのが好きな、キミの同類だ」
 そのまま、くいと親指で背後を指し示した先には、東洋人が立っている。
「この“剣”なんかは、キミも知ってるんじゃないかな? ナイフの腕は相当でね、期間限定でこっちの組織に雇われてたんだ」
「……知らねぇな」
「ああ、それは残念。剣はキミの事を良く知ってるのに」
 仲間に噴き出されて、つるぎというのが呼び名らしい東洋人は舌打した。
「情報収集は戦場では鉄則だと思うぞ」
「ははは。まあ、それでね――話を戻すけど、キミをスカウトしに来たんだ。もっと楽しい狩りが出来ると思うし、どうかな?」
「……」
「キミも、そろそろここの獲物に飽きてきた頃合じゃない?」
 ――飽きているのは事実だ。
 そう心の内で呟きながら、クラウスは下ろした拳を見下ろした。
 こちらに来てから、クラウスはただ欲望にだけ従って来た。矛先は、どこにだって転がっていた。
 ただクラウスは欲望を発露すればそれで良かった。
 ――けれど、どうだろう。
 望んだ生活なのに、どこか味気なかった。
 狩りに没頭している間の高揚感に嘘はないし、そこに愉悦は確かにある。けれど終わった後に何時しか浮かんだ虚無感は、肥大して留まる所を知らない。
 ――こんなものなのか。
 何に対しての期待から感じる失望なのかはクラウスにも分からない。
 しかしだからと言って、身も知らぬ男に是と頷いてやる義理も無かった。
 クラウスは沈黙を返答代わりに、男を眺めた。
 男は薄ら笑いを消す事も無く、クラウスの不躾な視線を受け止め続けて、やがて呼気を吐くような囁きで“狂犬”と呟いた。
「その名は戦場なんかじゃなくて、街の中の方が相応しい。人々の嫌悪と恐れに晒されて、狂おしく、あるのが」
 まるで歌うように紡がれたその一文が、クラウスの中の何かを射止める。
 迷彩服の男の指先がその肩口で踊ると、それを合図に背後の四人は背を翻した。
「三日後にまた誘いに来るから、その時に返答を下さいな」
 最後に背を向けた迷彩服も「アリヴェデールラ(また会いましょう)」と、手を振る。
 その集団を、クラウスは迷う事なく呼び止めた。
「おい」
 不意打ちで放った拳は、やはり男の体に到達する事なく、背中を向けたままで避けられて。
 驚いた風も無く立ち止まる男の、広くも狭くも無い、逞しくも無い、かといって細くもない男の背を見ながら、クラウスは微かに犬歯を剥いた。
「連れてけよ」
「うん?」
「俺も、連れてけ」
 静かに振り返る迷彩服が、わざとらしく眉根を上げる。
 その男を追い抜き様、クラウスは言い放つ。
「当面の目的は、お前に一発決める事」
 にやにやと笑いながら、迷彩服は両手を広げた。
「勿論、歓迎するさ」



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 イルミナティ。
 所謂『秘密結社』と訳されるそれを、彼らの集団は名乗っていた。
 何の事は無い、ただ彼らの筆頭となる男が、格好良いから、という理由で名乗り出しただけで、そこに秘密めいた内情は無かった。
 ただ単に殺し好きな連中が集まって、暗殺や用心棒などのきな臭い仕事を請け負っているだけの話だった。
 国籍も年齢も関係なく、能力がある、という理由でイルミナにスカウトされたが、彼らはクラウスと同じ様にラピスラズリ患者であり、それ故に社会から爪弾かれた存在だった。
 イルミナ――胡散臭い笑みを貼り付けた、クラウスをスカウトした迷彩服の男の通り名だ。
 クラウス自らラピスラズリ患者だと名乗った覚えは無い。ただ、その子供にあるまじき戦闘能力を見れば、言わずもがなな事だっただろう。
 剣、という通り名の東洋人が言った通り、クレイジードッグは戦場で少しは名の知れた存在だった。
 そしてその奔放に戦場を荒らすクラウスが、邪魔な者があった。
 イルミナティはクレイジードッグの抹殺を依頼され、確かに戦場からクレイジードッグを抹殺した。
 それだけの事だった。

 そうとは知らず中東を離れたクラウスの目下の目的は、イルミナの薄ら笑いに一発決める事だったが、己の能力に自信があったクラウスは、そのイルミナティの他の誰にも、敵わない自分を知る事になった。
 狂犬は、飼い犬にならないから狂犬なのだ。
 そう言って、イルミナはけして己に従わないクラウスを面白がった。
 例えばクラウスはイルミナティとして依頼された仕事についても、気に入らないという理由で依頼者を殺す事もあったし、気が乗らない、という理由で対象を逃した事もあった。
 それでもイルミナは笑う。
 クラウスの目的が何時しか、イルミナの笑顔以外の顔をみたい、というものに変わったのは、けして負け惜しみの故では無い。
 ただ単純に、気に入らなかった。
 自分の身勝手さを、笑って許す。
 その真意の知れない様子が、ただ気に入らなかった。
 それでもただ戦場で拳を奮うよりも、イルミナティの活動が思いの外好ましかったのは、イルミナの言っていた通りだった。






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2012/06/16