51 人を裁けるのは事実だけ。



aperitivo.03




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 ラピスラズリは初め、麻薬の一種としてイタリアの片隅で流布した。麻薬の特性であるトリップというような現象は見られず、鎮痛作用や気持ちが良くなる、という作用をもたらすものだったが、単純に合法じゃないという理由で麻薬として取り扱われていたのだ。
 しかし医学的に毒性が無い、と証明され、その作用が様々な病気に効果があると認知されてからは、家庭薬品として簡単に用いられる程世間一般に浸透し、飛躍的に売れる事となった。
 多くの麻薬がそうであるように、出所が不確かであるにも関わらず、である。
 『宝石のようなタブレット』というキャッチフレーズで売れに売れたラピスラズリが、その猛威を振るうのは数年後だ。
 ある一定の時期を境に生まれてくる赤子の成長異常が取り出された初期、それは原因不明の未病であり、その治療にはラピスラズリが使用された。DNAの異常だと思われた脅威の成長速度にこそ作用しなかったが、風邪一つで命を落としていたその赤子達の命を繋ぎ止めた功績から、一時はラピスラズリを万病の薬とうたったが、結局は全ての原因がラピスラズリであったと知れるには更に数年を要した。
 当時、ラピスラズリは一家に常備される薬の一つであり、服用していない者の方が珍しい時代である。その中で成長異常の赤子の母親をラピスラズリ服用者と特定する理由すらなかった。
 だが蓋を開けてみれば妊娠中もかなりの頻度でラピスラズリを服用していた母体から生まれた赤子が100パーセント成長異常で生まれており、赤子の内命を繋ぎ止めたとされた70パーセントはラピスラズリを処方されていた。残りの30パーセントはラピスラズリでの治療を施されず、命を落とした事になる。
 この事からラピスラズリは完全なる麻薬であったと、位置付ける。
 そしてラピスラズリ患者と呼ばれる子供たちは薬物中毒である。
 それが誰にとっても不測の事態であったからこそ誰も彼もが言明を避けたが、己らの世界にとても許容し難い存在が、憐れなラピスラズリ患者だった。
 そしてそれは政府にこそ最たるものだったが、ラピスラズリを奨励していた政府が彼らを忌避できる筈も無く、彼らの保護と様々な免除項目を盛り込んだ法令を発布する事で保身を図った。その一つである金銭援助はラピスラズリ患者の保護者のみならず、ラピスラズリ患者が生活する市町村や各施設に対しても同様だった。
 またクラウスやその祖母などがのたまった、金持ちの道楽としか言えない保護団体の存在もその一つと言える。ある種の慈善事業であるそれにより、金持ちは自家や自社の名を売ると共に、政府に貸しを作る。
 甘い蜜を提示する事で世間を賑わしたラピスラズリ事件は一応の収束を見せる事になるのだが――そこに含まれた毒はけして消えるものでは無い。
 ラピスラズリ患者が本当の意味で受け入れられる事は、けして無かったのである。

 クラウス・ルネッリが炭鉱跡の小さな村から保護団体の支援を求めて街にやって来た当初、街は彼ら親子に同情を持って歓迎した。
 ラピスラズリ患者は幾人か同じ様に街に住んでいたが既に成人していた者が多く、幼年期には奇異の目の中で育ったそれらも、法令が施行されてからは社会の一部として受け入れられていたし、彼らのもたらす恩恵を享受してもいた。
 ラピスラズリ患者第一世代と言われる彼らは成人した後、見目こそ病弱な程白い肌が目立ったが、それ以外には天才的な頭脳と脅威の身体能力を除けば常人と変らないのである。その内の一人、二人が世界で活躍している事も踏まえ、街はラピスラズリ患者第二世代のクラウスをそれ程までの厄介とは感じて居なかった。
 母親の生い立ちや素性がすこしばかり汚いものでも、それがどうした、と。
 彼らは第二世代の気性を、知らなかった。
 第一世代の子供達はラピスラズリによって体内に起こったバグをラピスラズリによって修正しなければ、生存が不可能であった。平均して七歳頃まではラピスラズリを服用する事で安定を図り、その後は至って正常の生活を送る事が可能である。しかしその第一世代の人間が産み落とす第二世代は、修正すべきバグがスペックの一部であり、それは生死に関わる脅威ではない。勿論バグはバグであるから除去するに越したことは無いが、それをする為には更にラピスラズリを服用する必要がある。しかしそれではラピスラズリの連鎖は断ち切れない。従って、第二世代はバグを抱えたまま成長する。
 そのバグが、クラウスにとっては気性だった。彼は喜怒哀楽の内の『怒』の感情が抑制出来ないというバグを持つ。何に対しても誰に対しても、まず感じるのが『怒』なのである。何をしていても誰といても、先立つのは苛立ちであり、それは常に暴力となって発露された。
 理由無く暴れる『狂犬』。
 導火線無く爆ぜる『爆弾』。
 クラウスがそんな評価を得るまでに、そう時間はかからない。
 歓迎のムードは一転して、ルネッリ親子は疎外されていった。

 だからこそ、だ。

 クラウス・ルネッリが母親を殺して逃走した時、誰もが安堵した。真実など疑うべくもなく、当然の事と受け止めた。
 誰もが、クラウスを庇う素振りなど見せなかった。

 ロッティ家がその事実を知った時、クラウスの行方は既に闇の中だった――。



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 ナポリにあるロッティ家のオフィスに、その日フレンツォは居た。
 私室を宛がわれているその兄リカルドは、パソコンから目を離す事なく弟の喚き声を聞いていた。
「何で分かんないのよ!?」
 野太い声が紡ぐ女言葉は、声よりもリカルドの癪に障る。犬の吠え声の方が可愛げがあるだろう。
 少年時代のフレンツォは三兄弟の中では線も細く、少女と見紛う美少年だった。特に、三人並べば間違いなく、フレンツォは妹と間違われた。二人の兄は骨格がしっかりしていて体格が良い上に、目鼻立ちがきりりとして男らしく、それに比べるとフレンツォは貧弱な程に細く、全体的に丸みを帯びていた。
 それは勿論子供だったからだろう。成長期を迎えれば無駄ににょきにょきと伸び、肩は張り出し、顔の輪郭は鋭く、それがまた首の太さを印象付ける。今ではもう昔の面影は無い。
 次男のアントニオがリカルドの身長を越したのは早い段階で、元から体格が自分より良かったアントニオの成長振りをリカルドは当然と受け止めた。しかし、フレンツォに身長が抜かれた時には、何とも言えない気分になったのをリカルドは思い出す。
 可愛かった弟は、今では立派な伊達男。にも関わらず、何を思ったか女言葉を繰るようになって、それが見た目を大いに裏切っている。
「女みたいにキーキー騒ぐな」
「ま、それって偏見よ、偏見!!」
 憤っていても、数年前から始まった口調が変じることは無い。
「……うるさい」
「騒ぎたくもなるわよ、しょうがないでしょ!!」
 豹柄のシャツに、ラメの入った紫色のスーツ、蛇皮の靴。色の濃いサングラスを胸ポケットに突っ込んだ、柄も趣味も悪い井出立ちながら――不思議とそれがしっくり来てしまうフレンツォ。
 全く、泣けてくる。
「何度も言っているだろう。クリスは行方不明。以上」
「冷たい!! 冷たいわよ、リカルド!!」
 フレンツォが机に両手を突くと、その上のパソコンが小さく跳ねた。その振動を受けて、リカルドまでもが怯えたように跳ねる羽目となった。
「あの子はねぇ、私達の可愛い弟なのよ!? その弟が酷い目に合っているっていうのに、貴方って人は!」
「酷い目っていうのは、お前の妄想だろう。――ああ、もう落ちつけ」
 もう一度拳を振り上げたフレンツォに大仰にため息をついたリカルドだが、それはフレンツォの怒りを助長させるだけだ。
「面倒くさい」
 その後に続けた台詞も悪かった。
「っもういいわ! 兄貴には頼らない!!」
 叩きつけるように言って、怒った身体が翻る。それをリカルドは止めなかった。
 重厚な扉が音を立てて閉じていくのを聞きながら、大きく溜息をつく。それから、デスクの二段目の引き出しを開いた。
 引き出しの一番上には数枚のプリントがホチキスで止められている。
 それをデスクの上に広げながら、リカルドは人差し指で唇を撫でた。
 彼が雇った探偵の報告書であるそこには、一人の少年の消息が記されている。
 忌み嫌われ恐れられ、切り捨てられた少年――クラウス・ルネッリ。彼が着せられた母親殺しの汚名はロッティ家が動いてすぐに削がれたが、少年のその後の逃亡は他に幾つかの罪科を生んでいた。
 だからリカルドは、フレンツォには何も話さなかった。
 クラウスが既に本土になく、誰を頼って何処に消えたのか。
 頼った先が自分たちではなく、マフィアであった事――それを伝える事を躊躇ったと言えば嘘になる。リカルドもまた彼を切り捨てた街の住民と同じく、クラウスを見限ったも当然だったからだ。
 本音を言えば、何時か自分達の右腕として、クラウスには活躍して欲しかった。彼の荒ぶる気性は成長と共に制御できるようになるだろうと思っていたし、踏まえた上で考えれば、クラウスの能力は魅力的だった。ラピスラズリ病の欠陥と恩恵の両方を携えたクラウスは非凡であった。まるでスポンジのように教えれば教えるだけに知識を吸収し、彼自身もその事に楽しみを覚えていた。
 けれどクラウスの本能は常に暴力を求めていた。
 少年が拳を血に染める時、その瞳は爛々と輝き、恍惚に微笑みさえ浮かべた。
 ――その事を、リカルド以上にクラウス本人は知っていただろう。
 凶暴な獣を内に潜ませる少年は、手懐けられる事を拒否した。

 その結果だ。

 クラウスは街を飛び出した後すぐに車を盗み、髪の色を染め、それを何度か繰り返しながら、あるマフィアに小競り合いを仕掛けた。マフィアの末端である人間を幾人も沈め、そして当たり前のように目をつけられたクラウス――そこで何があったのかは知れない。
 ただクラウスは、賭けに勝ったのだろう。
 少年はきっと望んで、『売られた』。
 内紛で戦争を繰り返している中東の地では、何時でも戦闘員を求めている。人身売買でクラウスが売られていったのは、幾つもある戦闘組織の一つだ。彼らが死のうが死ぬまいが、誰にとっても痛くも痒くも無い。
 国軍や国際連合の介入で戦闘グループは消滅と新設を繰り返す。その中で中東に送られていった人間の消息は、掴み切れない。
 探偵の報告もまた、クラウスが中東に送り込まれた時点で終了した。
 ――それが全てであり、もう、彼らに出来る事は無い。
 しかしリカルドが諦めたとして、事実を知ればフレンツォは、それでもクラウスを追うだろう。そうして何としてでも、連れ戻すに違いない。
 フレンツォは金も命も投げ打って、『弟』と定めた少年を救うだろう。
 そしてフレンツォならば、クラウスの身も心も、救い上げるのかも知れない。だがその為に、フレンツォを死地に送る事がリカルドには出来ない。
 そうしてまた、数多にとっては地獄でしかない、しかし少年にとっては天国ともいえる場所から、クラウスを引き剥がす事もリカルドには難しかった。
 何時爆ぜるか分からない爆弾を抱え柵と苦しみの中で生きるならいっそ、燃え尽きるまで発露してしまえ。
 飼い犬にはなれない、狂犬では飽き足らぬ、本当の獣になって、自由になって――それが幸せならば。

 燃える瞳が夢見ていた血と暴力に塗れた聖域で、少年が少年であり続けられるのであれば、それが一番なのだろう。



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 クレイジードッグ。

 誰が呼び出したのか。戦場に立つクラウスが、狂犬とあだ名されるようになって久しい。
 その戦い振り、否、殺し振りを見て、畏怖と共に呼ばれた名前は、クラウスにとって馴染み深かった。
 故国から離れた、宗教も違う国でも同じように呼ばれるのだから、自分は誰から見ても狂犬なのだろう、と笑えたのを覚えている。
 ウラウスが中東に来て間も無く、クラウスを買った組織は首領が捕縛されて散り散りになった。多くは似たような思想の組織に降ったが、クラウスは、ただ戦場にある事を選んだ。
 誰でも良かった。己の拳を振るい、満ち溢れる欲を発散出来るのなら、何でも良かった。
 市街地や森の中を走り回り、標的と認めたものを仕留める。時には何処かの組織に雇われ、思う存分力を振るった。
 銃は好きでは無かった。
 ひどく容易に人を殺す事は出来たけれど、それでは達成感も充実感も無い。己の拳で骨が砕ける感触を利き、恐怖に慄く顔を見るのが一番で、与えられた武器は早々に捨てた。
 それはクラウスにとっても危険な行為だったが、だからこそ、高揚した。

 そこかしこで銃声が鳴り響き、五月蝿い叫び声や足音がやって来ては消えていく。死体はどこにでも転がっていた。
 クラウスはそんな中を悠々と歩きながら、土煙の先に標的を見つけた。
 相手は長筒の銃を手に持っただけの、民間兵だった。
 対するクラウスは丸腰で、汚れたティーシャツとカーゴパンツを履いた少年だった。一見してそれは、戦闘に巻き込まれて逃げる子供に見えた事だろう。
 相手が戸惑い、構えた銃をどうするべきか迷っている事は、すぐに知れた。
 クラウスはけして、その町の住人には見えなかった事だろう。どこから見ても西洋人の少年が、どうしてこんな所に紛れているのか。情勢不安に陥っている国に、旅行してくるような一般人は酔狂が過ぎる。となれば、後は人身売買で売られて来た哀れな子供。
 そう位置づけたのか、相手は今一度銃を構えた。
 容赦を捨てた指が、引き金を引く。
 その瞬間、クラウスは地を蹴る。
 薬莢が次々と跳ね落ち、銃弾は空を切った。
 クラウスは怯むことなく走り続け、男に迫った。クラウスには、飛んでくる銃弾がスローモーションで見えた。避けるのは簡単だった。
 男の懐に入るのはさらに容易だった。銃身を滑ったクラウスの掌が男の手首を掴み、骨の砕ける音がする。
 絶叫。
 クラウスには通じぬ言葉の羅列が、甲高く叫んで途切れる。
 男の首に到達した小さな手は、ありえない力でその首を絞める。次いで、男の腹に膝をお見舞いすれば、けして細くは無い男の身体が地面から数センチ浮くほどの衝撃となる。
 情けを知らないのは、クラウスの方こそだった。
 男の顔にめり込んだ拳はその頬を陥没させ、吐き出された血を頭から被る。
 男に既に意識は無かっただろうか。手を離せばあっけ無い程に、崩れ落ちる身体。その身体に追い縋り、馬乗りになってもう二撃すれば、クラウスの拳は真っ赤に染まった。
 男の身体から流れる血は、まるで宝石のようにキラキラと輝いている。
 クラウスは犬歯を剥き出して、笑った。激しく唄う心臓が、心地良い。

 また、どこかで銃声が響く。

 次の獲物を求めて、狂犬は、立ち上がった。






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2012/02/13