06 好きも嫌いも全部ばれてる



 進学組のクラスであるせいか、二学年もそろそろ終了するという時期になれば、自主的に勉強をしようという気にもなる。
 授業が自習になると去年であれば仲の良い者同士で集まって雑談に興じてしまったが、今年は皆机に噛り付いて参考書や教科書と格闘している。
 勿論それは私も例外では無くて、羽田と机を向かい合わせにしながら、勉学に励んでいた。私と羽田の苦手教科は正反対なので、お互いに教え合って進める。
「だから、ここの和訳はさ……」
 高校を卒業したら彼氏である従兄弟の大樹さんと結婚して海外へ移住する羽田は、その為の英会話は完璧で、私が頭を捻った英文を簡単に訳してみせる。私は頷きながら、羽田の訳をノートに写す。
「ああ、成程。そしたらこっちは……」
「そうそう。でさ、今度はこっちの古典なんだけど……」
 そんなやりとりを繰り返していると、教室の隅で悲鳴が上がった。
 ガタリ、と椅子を倒した音に振り返れば、女生徒が二人、席から立ち上がって床を凝視していた。その内一人はすぐに逃げるように席から離れる。
 何だ何だと皆の視線が固定する中、床には黒い物体が。
「げぇ、ゴキ!」
「やだぁ!」
 まるっと太ったゴキブリが教室の隅から、ゆっくりと這い回りだす。
「……」
 羽田は無言で、椅子の上に避難した。怖いものなどなさそうな羽田は、虫全般が苦手らしい。椅子の上で体育座りをするように縮こまった彼女が、
「ちょ、アンタら何してんの、早く何とかしろよ!」
 同じようにびくつく男子達に声を張り上げた。
 どうやらクラスの男子達は、情けない事にゴキブリが苦手のようだ。皆一様に恐々とした態度で、誰も彼もが「こっちに来るんじゃねーぞ」といった表情で固まっていた。
 ゴキブリって、クワガタにも似てるなぁとか思ってしまうのだけれど。どうやら皆はそんな風には思えないらしい。
 ゴキブリの動きを目で追っているだけのクラスメイトを見回して、私は軽くため息。
 ゴキブリ退治に利用できそうな新聞なんて学校にはないけれど、その代わりになりそうな物――と視線を動かして、何も見当たらなかったので、掃除用具入れから箒と塵取を取り出す事にした。
 奇妙に静まった教室の中、ロッカーを開ける音だけが響く。
 淡々と動き出す私を、奇妙な顔で見つめてくるクラスメイト。
「……菅野?」
 投げかけられる羽田の疑問の声を無視して、私はあっさりゴキブリを塵取の中に収めてしまう。飛ばないように箒で蓋をして、そのままベランダへ移動。塵取の中身をベランダから下に放り投げた。
 一連の動作をクラス全員に見守られてこなした私は、そのまま用具を元に戻して、
「ゴキブリ如きで騒がない」
真面目ぶった顔で、それだけ言った。
 呆気に取られた面々は、それでやっと覚醒したよう。羽田が手を叩いたのを皮切りに、そこかしこで拍手が起こる。
 わぁっと広がった歓声に、驚いてしまう。
 ……こんなことぐらいで囃し立てられる意味が分からない。
「菅野さんカッコイイ!!」
「惚れたっ!」
「以外な一面!!」
なんて、まあ男子達の株が下がったのは分かるけれど、キラキラしい目で見つめられて、私は乾いた笑いを浮かべるしかなかった。

 ――そのような事を、その日の帰宅後、健に向かって話していた。
 事の後の気だるげな時間のちょっとした会話の中、そういえば今日ね、とベッドの中で抱き合いながら口にしたのだ。
「ふーん」
 帰ってくるのは、素っ気無い相槌。相変らず興味の無い事にはちっとも反応しない。
 分かってるし、いいんだけど。
 大した話じゃないんだけど。
 そう思いつつついたため息が、健の鎖骨に当たった。それがくすぐったかったのか、私の頭に埋めていた健の顔が持ち上がった。その顔が、しまったという風に焦って、ゆるゆると笑顔を作ろうとする。
「あー……オトコマエな菅野サンは、ゴキブリも大丈夫なんだねぇ?」
 どうにか話を続けようと必死らしい。最近の健は多分にそういう所があって、今までだったら「だって興味ないんだからしょうがねぇだろ」で済ませてしまいそうなものを、頑張って「うん、それで?」と続けようとする。何でも感でも流されると腹が立って私が不機嫌になるせいだけれど、今回に限っては、ただ単に羽田にも可愛い所があるんだよねぇという話なだけなのだ。
 でも眠たげな目を見開いてまで、私との会話を大事にしてくれようという気持ちは嬉しい。
「そういう健だって、虫大丈夫でしょう?」
 ゴキブリを素手で掴まえようとするのは戴けないけど、そう付け足せば頭上で苦笑。
「運動神経がいいものですからぁ? つい咄嗟にねぇ」
口調が間延びしてしまうのは、眠いせいなのだろう。口の中でもごついている様子が何となく可愛い。
「そんな運動神経いらないんだけど」
「なぁにを言うか、このスーパースターに。俺の運動神経ちゃんに謝りなさい?」
「運動神経ちゃんて、何」
 もう相当眠いのだろう。言っている事が意味不明だ。
 前回の大会で全国区になった竜胆高校は、練習も激しさを増している。その大会で誇張ではなくスーパースターばりに有名になった健は、そんな評価に驕る事なく、更に精力的に部活に取り組んでいた。将来もバスケット選手として活躍したいとビジョンが明確になったせいもあるだろう。今日もへとへとになるまで練習して来たくせに、ベッドの中でもけして手を抜かない。
「でも、理子はさ……」
 仰向けになった健に続くようにして、私も天井に顔を向ける。頭の下にある健の腕は無駄な肉がなくてちょっと硬い。その腕の先の指が、私の髪を撫でるようにして絡まる。
「平気な振りしてるけど、蜘蛛は駄目だよな?」
「……そんな事ないけど。ちゃんと殺せるし、」
「強がりだから、平気な振りしてるけど、蜘蛛見ると強張ってるじゃん」
 図星をつかれて、というより、健がそんな事に気付いてるとは思わなくて、私は黙った。ちら、と横目で健を観察すれば、こちらに向いていた顔は以外に優しい。からかう色はどこにもなくて、それが妙に気恥ずかしかった。
「他にも色々、知ってますよぉ? 猫は大好きで、小型犬も好きだけど、大型犬は実は怖いとか。ホラー映画も得意だけど、邦画では苦手とか?」
「……」
「兄貴の事何だかんだ文句言ってても本当は極度のブラコンだったり、栄子サンの作る卵焼きが好物だったり、紅茶はダージリンが一番お気に入り。機械に疎い、とか」
 次から次へと、私の弱点とも言えるべきことが健の口で紡がれる。
 それを呆気に取られて聞いていたら、最後にはにやり、意地悪く笑う。
「以外に知ってんだろ?」
 全部が全部本当なので応えに窮すれば、してやったり、と健が言う。
「そんで俺の事が大好きだろ?」
「っちょ、」
「あと、臍を舐められるのに弱い」
「ひゃ、」
 何時の間にか布団の中に潜り込んでいた健の手が、私の臍をつついて、びっくりしてしまう。
 冷たい指先の感触を肌に感じて跳ねた背中に、もう片方の手が滑る。抗議の声を上げる間も無く唇を塞がれ、見開いた瞳は熱っぽい健のそれにぶつかる。
 圧し掛かってきた身体は熱く、太股に当たる健の一部が固くなっていた。
 息が苦しくなってきた頃離れた唇が、掠れた吐息を漏らしながら、
「俺も、こうするのも好き」
 “も”って何だ、と思ったけれど、再び口を塞がれて何も言えなくされてしまった――。






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