10 いつもは絶対に言わないけれど(、ありがとう) 前編
「それじゃ、行って来ます」
昨夜ママが磨いてでもくれたのだろう、新品とは行かないまでも一年近く毎日のように履いていたにしては、綺麗なローファーシューズ。それを履いて立ち上がると、小奇麗にしたママが目を細めた。
彼女にも思うところがあるのだろう、
「いってらっしゃい」
と紡ぐ表情は、嬉しそうでも寂しそうでもあった。
「ママも、後でパパと一緒に行くからね」
「うん」
もう一度いってきます、と呟いて、家を出る。
こうやって、何度家を出たか分からない。それこそ小学校の時から、専業主婦だったママの見送りを受けて学校に通った。それは大学へ進むこれからも同じだろうし、実家に住む限り、働き出しても同様だろう。
けれど高校の学生服に身を包み、家を出るのは今日が最後だ。
中学校の卒業式は、こんな風に感慨深く思う事など無かったように思う。高校生活に憧れ、ただただその生活を待ち侘びて、期待感を胸に最後の日を迎えた。
それがどうだ。
高校の卒業式である今日は、目覚めてから事あるごとに、『最後』という単語を思い浮かべて奇妙な感覚に囚われる。嬉しいのか、寂しいのか、悲しいのか、良く分からない。きっと、そのどれもが正解であるのだろう。
壁に掛けられていた制服は、何時も通り。昨夜自分で念入りにアイロンを当てて、ハンガーに通したまま。
ああ、この制服を着るのも今日が最後なのだ。そんな事を思い、数分見入ってしまった。白いブラウスに、チェックのスカート。年々、丈が短くなったように思う。濃紺のブレザーの胸元には、見慣れた校章。草臥れた赤いリボン。三年間毎日のように来た制服。その数と同じ分だけ、思い出がある。
中学校の制服は捨てたのか、それとも誰かに譲ったのか、あるいはタンスの底にでも眠っているのか。これも同じ末路を辿るのだろうか。そんなどうでも良いような事を考えながら腕を通して、姿見に映した制服姿の自分を前に、本当に最後なのだと実感した。
リビングに下りると、娘の卒業式だというのに、新調したお洒落着に身を包んだ母親が、数日前に美容院でカットしてきたばかりでまだ見慣れない髪型で、振り返った。
朝の挨拶を交わし、ママは言う。
「パパ、今朝方帰って来て今は寝てるけど。一緒に卒業式、出席するから」
別にいいのに、とは答えない。中学の卒業式の日には、こんな時ばかり父親面しなくても、何て思いから心の声を吐き出してしまったけれど。今は分かるのだ。仕事人間のパパだけど、学校行事には決まってママと一緒にかけつけてくれた。授業参観、運動会、卒業式に入学式。時には仕事を抜け出して。カメラを持って撮影してくれる事も、大声で声援を送ってくれる事もなく、ただ静観している、という風でそれがいけ好かなかった時もあったけど――会社の繁忙期というものが見事に学校行事に重なっている、と知ってからは、そんな中時間を作ってくれるパパにちゃんと感謝している。
無理をしてくれなくてもいいのに、とは思うけれど、パパの一番の理解者であるママが、「パパの楽しみを取っちゃだめよ」なんていうのだから、そういう事なのだ。大抵無表情で眺めている、というだけに見えるパパだけど。
それもきっと今日が最後。これからの生活で両親が出張ってくるような行事は、無いに等しい。
こんな風に感傷的に、卒業式を迎えるなんて、入学した時は思ってもみなかったことだ。
不本意だけど泣くかもしれないな、と、リハーサルで泣き出した友人を見ながら浮かんだ考えは、もしかしたら冗談にならないかもしれない。
心なしか、電車の中の学生率が何時もより多いような、と思ったのは、間違いではなかった。
かくいう私も何時もより一本早い電車で通学したわけだけど、教室に到着すれば何時もは遅刻ギリギリのような生徒まで揃っていた。仲の良い友人らと教室や廊下で固まって、それぞれ最後の日を噛み締めているかのよう。
私に気付いた羽田が、クラスメートの中から挨拶をくれる。それに続いて、四方から向けられる「おはよう」の挨拶。何時もは制服を着崩して、ジャージすら下に着込んでしまう羽田も、今日の日はちゃんと制服を着ているのがおかしい。
ふ、と目に入った教室の後ろの棚は、空っぽだ。暫く前にクラス全員で掃除をしたばかりで、それから教室としてはほとんど機能していなかった室内も、こざっぱりとしている。どの教室も似たようなものだろう。黒板には担任が書いたのだろう、卒業おめでとうの文字。誰かの落書き。連絡先として本当だか嘘だか分からない携帯番号やメールアドレスなんてものまである。
入学したての頃のようなはしゃぎ様が、高校三年生――それももう終えようとしている自分達には、何というか、こう、歪。
おかしくなってしまう。
見慣れた何もかもが何時もと違う色をしている。セピアの写真を見るとそれだけで懐古的な気分になるけれど、それと似ている。
それが不思議で、面白くて、クスリ、一人笑ってしまう。
するとそれを見咎めた羽田が、意地悪く言う。
「思い出し笑いなんて、エロいね」
何時も通りの羽田の物言い。三年間で気心の知れたこの友人とは、もうすぐ、会えなくなる。卒業しても遊ぼうなんて約束も、簡単には叶わない、異国の地へ旅立って。
ああ、いやだ。
「何とでも言って」
彼女の会話には乗らずするりとかわせば、面白くないなんて呟かれるけど。
平静を保とうとすればする程、涙腺が緩む。流石に今から泣く様な真似は、したくない。
――したくないんだけど。
「菅野?」
不思議そうに首を傾げる羽田を見つめながら、思い出が蘇る。出逢った頃から奇妙に大人びていた羽田は、それなのに最初からクラスに馴染んで、さばさばとした気質で男女隔てなく周りを引っ張っていた。物言いは厳しいくらいに辛辣で、白黒つけなきゃいられない性格は周囲から浮いてはいたけど、その真正直さが皆から好かれる要因だったのだろう。
同じクラスでも、最初はあまり仲は良くなかったと思う。お互いに当たり障りのない会話で、つかず離れず、菜穂と真知子の手前同じグループにいた、というような。そんな気持ちの表れのように、お互いに苗字呼びが抜けなかったあの頃。馴れ合った頃には今更で、呼び方は今も変らないけれど。
梅雨時の球技大会の後からだっただろうか。それとも夏休みが明けてからの文化祭からだっただろうか。切欠は何だったか分からないけど、健との事があってから、私達の結束は強まった。秘密主義な羽田の事情を色々知ったのは、その後。
彼女には驚かされてばっかりだった。同時に、世話になりっぱなしだった。
羽田がいなければ、健との仲だって進展しなかっただろう。その後の何度もの仲違いの仲裁だって、羽田がいなければ。
ああ、いやだ。
どうしてこの年で、彼女は結婚なんてして――あまつさえ、アメリカなんて遠い所に行ってしまうのだろう。
「羽田のバカ」
「はぁ!?」
突然の私の暴言に、思った通り羽田は声を荒げた。何事か、と目を向けるクラスメート。
「アンタ、突然言うに事欠いて、」
「さっさと結婚しちゃえっ!」
羽田の言葉を遮って、私はそんな、クラスメートには寝耳に水の暴露話を、口にする。
ぱくぱくと口を開閉する羽田、そして一瞬落ちた沈黙の後、絶叫。
「えぇー!?」
殺到してくるクラスメートを掻き分けて、私はすかさず羽田の側から離れる。覚醒した頃には周囲をがっちり友人たちに囲まれた羽田を取り残して、一人蚊帳の外へ。
「ちょっと、羽田何それ!?」「結婚って、何!?」「うそ、マジで?」
最後の最後まで秘密主義のままじゃ、みんなに悪い。そんな言い訳を心の中で唱えて、私は八つ当たりの末の暴挙を正当化した。
芸能リポーターのように根掘り葉掘り質問を浴びせかけているクラスメートと、何時になく焦って言い訳を並べ立てている羽田を尻目に教室を抜け出せば、先程までの物悲しさなんてどこかに飛んでいってしまった。
――とは言え。
卒業式がいざ始まって、『あおげばとうとし』なんて歌おうものなら、涙腺はすぐに決壊した。そこかしこで響く啜り泣きも、悪かった。涙を誘うような雰囲気に、糸も簡単に負けた。
卒業なんてしたくない。
ずっとずっと、ここで、仲間達と一緒に過ごしていたい。
堪えきれない嗚咽が漏れ出す。滲む視界で、繰り返される卒業証書の授与の様子を眺めながら。
色んな事が、あった。
本当に。
あった筈なのに。
より鮮明に浮かぶのは、健に恋をしてからの日々。
菜穂の彼氏の親友。バスケットボール部の高橋君。嫌味な男。なのに、どうしてか気になって。
後に『放送ジャック』なんて語り継がれる事になった事件で、私の恋は走り出したまま止らなかった。
バスケットボール部の試合を見る為に学校をサボったり、健の姉である紀子さんを健の彼女だと勘違いして勝手に沈んだり、バレンタインデーのチョコ作りに悩んだり、遊ぶ時には着ていく服を迷ったり、至福姿の健にときめいたり、無駄に緊張したり。恋人の振りをした事もあったっけ。
苦しかった。悲しかった。切なかった。
それでも、捨てられなかった。
今思い出せば、あの片想い期間の自分の葛藤や不甲斐なさは、穴があったら入りたい位恥ずかしいものだった。あんな風に自分の感情を持て余したのは、初めてだった。
付き合いだしてからも、けして順風万風というわけにはいかなかったし、喧嘩も沢山した。くだらない事で悩んだり、泣いたりもした。
健の腕の中が、温もりが、何よりも安心できるものになった。
恋をした。そして今も、恋をしている。
私の高校生活を語る言葉は、それにつきる。
あっという間の三年間。
どんなに終わるな、と願っても。
私の、私達の高校生活は、幕を閉じる。