10 いつもは絶対に言わないけれど(、ありがとう) 後編
参列する在校生や保護者に見送られて、体育館を後にする。そこかしこから聞こえる啜り泣きも、拍手の音に紛れた。
私もハンカチで目元を押さえながら教室に戻る。
何十年と生徒を見送ってきたのだろう、担任のおじいちゃん先生の最後の挨拶は、短かった。
「皆さんの前途に、幸あれ。卒業おめでとう」
と締め括った先生を誰かが引き止めて、それからは写真撮影。私も持ってきていたデジカメで先生やクラスメート達と写真を取った。デジカメの良い所は現像する前に撮った写真を見れる所だけれど、泣き顔を晒すその写真達は何度だって撮りなおしたいくらいの表情。
キャイキャイ騒ぎながら、何時までだって教室に留まっていたい所だけれど。
「あ、ヤバイ」
と腕時計を見ながら羽田が口火を切った所で、私も名残惜しい教室を後にする事にした。
両親は既に帰路に着いた筈だ。廊下の窓から見下ろした校門付近には、学生服の群と着飾った保護者の姿。同じくかちっとスーツを着た教師の姿もある。部活動をしていた生徒は、後輩に花束等を贈呈されている様子もチラホラ。
廊下の途中で菜穂と真知子に合流する。抱き合って別れを惜しむ同級生に手を振りつつ、神妙な顔で連れ立って。一歩一歩、遠ざかる。
「あー、マジで卒業なんだよねぇ」
と、羽田すら感慨深げに呟く。無造作に放り投げた卒業証書を掌で受け止めて、を繰り返す。そんな彼女の左手薬指には、隠す気すらもう無いのか、ダイヤが嵌った指輪がきらり光っている。普段はネックレスにして首から提げていたそれは、何時から指に嵌っていただろう。少なくとも、朝の時点では無かった筈。
「寂しいよー」
ぐずぐずと涙を流しながら、真知子がぼやく。菜穂は泣き通しで、反応すら出来ない模様。
そんな二人のおかげか、元来姐御気質な私の涙はもう引っ込んでいた。前を行く羽田の後を追いながら、両脇に真知子と菜穂を抱えて、よたよたしている二人を支えている。
またね、連絡してね。そんな声がかかるのに、頷いて応えながら。それが社交辞令で終わらない相手は何人くらいだろう、なんて冷静に思考を働かせたりなんかして。
「皆地元離れちゃうしね。残るのは私と真知子に日向君だけだし」
「理子、遊んでよー?」
潤んだ視線で見上げながら、抱きついてくる真知子に苦笑を浮かべる。甘えん坊みたいに擦り寄ってまあ、どうせ君は彼氏優先になっちゃうんじゃないの。この後だって大学生彼氏とデートだと言い、待ち合わせ場所へ向かおうとしている、真知子。
何時だってお洒落に余念が無い、恋にアグレッシブな真知子。
「そっちこそ、ちゃんと連絡してよ?」
右腕に縋りついてコアラ化した菜穂といい、私達四人は微妙にタイプの違う人間だ。体育会系の羽田、おっとり天然の菜穂、ギャルの真知子に、大人びているとか文学系なんて他称される私。だからこそ進学先だって被らない。クラスメートでなければ、話もしなかったかもしれない。趣味もてんでバラバラで、何が私達の結束を強めたのか、切欠は中々思い出せない。
でも、高橋問題が無ければ、私が卒業後まで付き合っていくような友人は菜穂だけだった事だろう。
そう思えばやはり感慨深い。
「この後、みんなクラスで集まるんでしょ?」
「うん」
「じゃあ、やっぱ全員集合は明後日の健の見送りになるね」
地元を一番に飛び出るのは健だ。明後日正午の新幹線で、健は地元を離れていく。その数日後には高塚君が、クラブチームの用意した寮に越していく。それから菜穂と、佐久間君。羽田が一番最後にはなるけれど、彼女は結婚式の準備で大忙し。
ギリギリまで皆で集まって遊ぼうと約束したけれど、それももう難しい。
誰とも無くため息をついた頃、残りのメンバーとの待ち合わせ場所である昇降口に辿りついた。
案の定、というか、男子メンバーは下級生の女子に囲まれ、卒業式ならではのイベントに遭遇しているようだった。
つまり、制服のボタンを下さい、というやつだ。
最初に私達に気付いた佐久間くんはボタンを死守しているようだったけど、日向君や、意外な事に高塚君は、全て毟り取られた後のようだった。最後にモテにモテた高塚君は上機嫌で、下級生を完全無視の体勢で下足棚に寄りかかっていた健は、何故だか頗る不機嫌だった。
その理由は、
「遅いっ!」
という事みたいだ。
こいつは絶対女の買い物に付き合えるタイプじゃないな、と昔なら思いそうな所だけど、意外に意外。健は姉である紀子さんの買い物で慣れているのか、私とのデートの時にそういった不満を口にした事は無い。――まあ、私も元々買い物が長いタイプじゃないけれど。
皆集合して、後は帰るだけなのだけど、何というか、離れがたい。そんな気持ちで足を止めてしまった私達を、健は無遠慮に促してくる。
「じゃ、帰るべ」
情緒も何もあったものじゃない。こっちはこの上靴を脱ぐのでさえ、何だか物悲しいのに。
それでもこの後の予定が差し迫っている羽田は、応じるように下駄箱へ移動していく。それに倣って、それぞれが己の靴箱へ。
こんな日だって、健は何時もと変らない。
それが嬉しいやら悲しいやら、思わずため息をついてしまった。
その後は、「じゃあね」と、別れの挨拶を交わす暇さえ無かった。
昇降口を出るなり「あの野郎」と呟いた羽田が走り出してしまっていたからだ。呼び止めたのは日向君。だけど羽田は全力疾走で校門へ向かっていき、こちらの声など聞こえていない様子だった。振り返りもせず「また連絡する」と叫んで、私達は、まあ、彼女の事情を察して黙った。校門に、大きな花束を抱えた大樹さんを見つけてしまったのだ。数多の視線を浴びて恥ずかしげも無く、堂々と立っている男と脇の高級車。目立つな、という方が無理な話だった。羽田はそんな大樹さんを花束ごと車に詰め込むと、自らが運転席に乗り込んで、風のように去った。呆気にとられる私達など、気にも留めないで。
間も無くして高塚君はサッカー部の後輩に部室棟へ連行され、真知子は彼氏から電話がかかり慌てて待ち合わせ場所へ向かい、佐久間君と菜穂は両家の親と岐路に着き、日向君とも空気を読んだのか、校門で別れた。
残った私と健が、二人で帰るのは自然の成り行きだった。
お互いにクラスの集まりまでまだ時間があったので、私達は何時ものように健の家に居た。
私が脱ぎ難さを感じている制服をもあっという間に家着に着替えた健は、何時も通りに腹が減ったと訴える。だから私が昼食を作った。
それは全く、何時も通りの放課後の様子。
ただ、通された健の部屋にダンボールが積み重なっていた。家具は一通り残っている。新居には新しく買い揃えて、こちらは帰省時の為にほとんどそのままにするつもりなのだ。それでも本棚にあったバスケットーボール関連のDVDや雑誌やらはごっそり無くなっていたし、見慣れた幾つかはその姿を消していた。
ああ、この人は本当にこの家を離れるんだ。
そして、私も、この部屋を訪れる事もなくなるんだ。
そう思ったら引っ込んでいた涙が、溢れてきてしまった。
「なんで泣いてんの」
「……分かんない」
疲れた、とか。式が長い、とか。男子ってこんなものなのかと思うような、卒業式の感想を素っ気無く語った健に、相槌を打っていただけだった。そんな中で、唐突に流れ落ちた涙。
クッション代わりに手近にあった枕を抱きしめて、私は身体を反転させる。
昼食を食べて、そんな雰囲気になって。それで交わしたピロートークが、疲れた、とか。式が長い、とか。そんな仕事に疲れたサラリーマンのような会話の最中に、泣ける要素なんて無かった筈が。
でもだからと言って、泣いている理由など説明する必要も無いことだ。背後から私を抱きしめる健の指が、慣れたように私の髪を梳く。
裸の背中越し、健の規則的な心臓の音が聞こえる。
こうやって寄り添う事も、何時しか当たり前になった。
大嫌いだ、と思っていた相手なのに。
もう一度身体を反転させれば、向かい合わせ。広い胸に顔を摺り寄せて、甘えるように腕を首に回していた。
応えるように、抱きしめてくれる力が強くなる。
けれど今日は、それだけじゃなかった。
耳元に、健の吐息が掛かった。小さな、呟きと一緒に。
「いつもは絶対に言わないけど」
まるで照れ隠し。そんな風に言葉を繋いで。
高橋 健。
親友の彼氏の、親友。それが縁で昼食を取る仲になった。
バスケットボール部のエース。何故か異様に女子にモテる。
顔がいいのは認めるけれど、普段は無表情だし口を開けば嫌味ったらしいし、皮肉った笑顔しか浮かべない。無神経で、横柄。
そんな印象の男を、好きになった。
世間の評価なんて知らない。私が好きになる要素なんて、無かった。
それでも気がつけば、そんな男を目で追う自分が居たから驚きだ。
でもそんな風に否定するべき要素を挙げている時点で、私は恋に落ちていた。
親友の彼氏が、連れてきたその親友。
こっちになど毛ほどの興味を示さずに、不機嫌そうに明後日の方向を睨んでいた横顔。
こっちだって望んでいたわけじゃないのに、迷惑だといわんばかりの、愛想笑いの一つも見せなかった、ファーストコンタクト。
だからこそ、覚えてしまった。
高橋 健。
佐久間君のフルネームより、先に覚えてしまった。
もう、その時には。
きっと、その時には。
――キミにコイをした。