10 だって君が泣かないから 後編


 俯きがちの高橋の目の前で、足を止める。
 その眼前に缶コーヒーを差し出すのと、高橋が顔を上げるのは同時だった。
 高橋が鋭利な瞳を見開く。
「……風邪引くよ」
 どう声を掛けていいのかも分からなくて、曖昧に口角を上げるだけ。驚いたままの高橋の膝の上に缶コーヒーを置いて、隣に座る。
「何してんのよ、こんなとこで」
 手袋を片手だけ外して、プルタブを上げる。ミルクティの甘味が口内に広がって、じんわりと熱が身体の中を巡る感覚に我知らずホッと息が漏れる。
「……お前こそ」
 掠れた高橋の声は、感情の色が薄い。機嫌が悪いのか、怒っているのか。胸がドキリ、と鳴って心が竦んだ。
 その表情を見るのが躊躇われて、明後日の方向に視線が逃げるのは仕方が無い。
 おせっかいだって事は、分かっているのだ。菜穂のように、佐久間君の傍に居ればそれで良いって風にはならないし、それなのにうまい事を言ってあげられるわけでも無い。余計なおせっかいだと、怒鳴られる覚悟はしていても、出来れば避けたかった。怖かった。
「君はちっとも気付いてなかったけど、一緒の電車に乗ってたの。で、そっちがウチの駅で降りたもんだから、」
 ――だから、何だというのだろう。つけてきた、とは続けられなくて、まして他に良い言い訳も思いつかなくて、たどたどしい言葉は尻切れに小さくなった。
「――それで、今まで?」
「いや、帰るタイミングを失った、というか……」
 沈黙。
「馬鹿だろ」
 間を置いて、やっぱり何の色も乗らない言葉が紡がれた時、まるで握りつぶされたかのように心臓が痛んだ。
「……ですよね……」
 自分でも、自覚はしていたんですけれどね。
 そう自嘲してみても。今更後悔してみても。見て見ぬ振りなんて出来なかったのだ、と心が叫ぶ。
 寒さ以外の理由で震える手で、もう一度紅茶を啜った。
 再びの沈黙が痛い。
 痛い。イタイ。

 分かっている。
 イタイのは私です。

「お前が風邪引くっつーの」
 隣で、かしゅっと軽い音が聞こえた。顔を高橋に戻すと、何とも言えない表情で缶コーヒーを飲み出す。斜めを向く高橋とは、当然のように視線は合わない。
 胸の痛みが少しだけ和らぐ。
 一気にコーヒーを飲み干そうとしているのか、顔を逸らして缶を縦にしている高橋を、両手の中で紅茶缶を回しながら眺めた。
 余計なお世話には違いなかっただろうが、邪魔者扱いはされなかったようで、そのお陰で緊張していた肩から力が抜けた。
「サンキュ」
「……どう、いたしまして」
「――これも、だけど」
 缶を軽く振って、高橋が顔を向けてきた。困ったように細まる目と視線が合う。片頬を上げるいつもの皮肉笑いだ。
「応援も」
「いや、」
「負けちまって悪かったけど」
「……それは、いいよ別に。そんなのは、」
 残念だったね? ドンマイ? 格好良かったよ?
 自分の膝に視線を落とした高橋。何を言っていいのか分からない。
「……悔しいのは、そっち、だろうし」
 必死に言葉を繋ぎながらも、ひどくたどたどしくて空々しい言葉の羅列。
「はっきり言って、私は、勝ち負けはどうでも良いっていう、か……」
(それはどうなの!?)
「……ごめん、何て言っていいか分かんないんだけど」
 結局どうしようもなくて素直に白状すると、高橋が秘かに笑ったようだった。くっと喉に引っ掛かるように呼気を吐いて、再度顔を上げた高橋の目は楽しそうに笑っていた。
「何だ、それ」
「……だって、お疲れ、残念だったね、来年頑張って、格好良かったよ、悔しいね、とか……全部嘘っぽいし軽くない?」
「今全部言っちまってんじゃん」
 確かに。
「なーに、テンパってんの」
「……悪うございましたっ」
 高橋が笑ってくれている事には安心したけど、今言う事は全部墓穴を掘りそうな気がする。
「っていうか試合の事でキミが私に悪いなんて言う事、何も無いじゃん? そんな事より、さっさと帰りなよね」
 そうとなればとっとと退散するのが吉、とばかりに立ち上がろうとした私の手首を、高橋が掴んだ。浮いた腰がまたベンチに落ち着く。
「ついでだから、ちょっと愚痴らせて?」
 惚れたモン負け。断れるわけ、ないでしょーが。
 捕まれたままの手首に、剥き出しの高橋の指の感触。外気に触れていたせいで酷く冷たい。
 跳ねた心臓を隠すように唾を飲み込んでから、軽く頷くと高橋の腕が離れていく。
 飲み終わったらしい缶をベンチの横のゴミ箱に投げ入れる。
「ナイスシュート」
自嘲気味に笑った高橋が大きくため息を落とす。
「……こんな風に、さ」
「え?」
 ゴミ箱を見つめたままの高橋の横顔を、疑問顔で見た。
「簡単に、シュートが入るわけよ。今日も、今までも」
 百発百中とは言わなくても、高橋のシュートの成功率は相当高いらしい。実力の拮抗している佐久間君や日向君を置いて高橋がスタメンに選ばれたのも、そのシュート力を買われて、という事だった。
「落とす気がしないっていうか、それなりに自信持ってやって来たし。その分期待されてたとも思うんだよね」
 何時に無い饒舌さ。普段は嫌味しか紡がないような口が、バスケットの事になると軽くなるのは知っていた。けれど今日は、またそれとも違う。
 ちっとも明るさが無い。笑っているのに。声は朗らかなのに、沈痛な面持ちで無理矢理笑みを作っているみたい。
「自惚れるだけの実力はあったと思ってた。――今日の試合なんて特に、余裕だと思ってた」
 前評判通りに行けば、竜胆の勝利は確定しているも当然だった。
「明日の試合に備えて、戦力を温存してた。レギュラーの内二人はベンチだったし、ファール四つだっつって大事な所で主将引っ込めるわ、皆が皆、どっかで甘く見てた」
 明日対戦する予定にあった高校は、昨年の準優勝高で全国にその名を轟かせる強豪だ。それに備えての体力温存も、戦略として間違いでは無い。
 でも運も実力の内、という様に、勝負というのは蓋を開けてみなければ分からない。
 それは私にも良く分かっていた。
 勝敗を分けるのは、実力だけじゃない。運だけでもない。気力かもしれない。負けん気かもしれない。練習の密度では測れない。経験でもない、努力でもない。
 結局は、勝った者が強いのだ。
「今日勝たなきゃ、明日なんて無ぇのに――俺ら、今日の試合どっか手抜いてたんだよな」
 どんな戦略も、勝たなければ意味が無い。意味をなくす。
「最初から最後まで全力で向かってれば、勝てたかもしれねぇ。こんなん意味無い考えだって分かってるけど、でも思わずにいられねぇわけよ」
 それは虚しい、もしもの話。
 あーあ、と大きく伸び上がり、高橋が顔を上げる。
「負けるにしても、悔いの残らない試合がしたかった……」
 負けて良かったなんて事は、けして無い。どうあっても悔しい。だけど【もしも】なんて考えが浮かぶ余地も無い程、清々しい敗北でありたい。
 そういう気持ちが、私にも良く分かった。
 分かったからこそ、やっぱりかける言葉が思いつかない。
 これが終わりじゃない。まだ高橋は一年生で来年だって、これから先何度でもリベンジの機会は訪れる。次こそ悔いの無い試合をしようって、そう思える。
 でもそれとこれとは別だ。
「まぁ、次頑張りますよ」
「……うん」
 そんな風に切替えられないから、こんな風に意味も無くベンチに座り込んで、沈んでいたくせに。
 こんな事、私が思うのもおこがましいかもしれないけど、高橋がすごく痛々しかった。
 なのに、出来るのがつまらない相槌を打つ事だけ。
 高橋が黙り込むと、辺りに静寂が戻った。園内には誰の姿も無い。遠くに聞こえていた家々の喧騒も、今は届かない。
 蛍光灯の明りの下、ベンチに座った私と高橋の口から、白い吐息だけが生まれては消えた。
 手の中、半分以上残った紅茶缶は冬の空気の中急速に冷えていく。辛うじて残る温もりを引き止めるように、私はぎゅっと缶を握り締めた。
 悔しいのは、試合に負けた高橋で私じゃない。
 私が悲しいのは、悔しいのは、何も出来ない自分の無力さだ。
 隣に居るのに何も出来ない。それがもどかしくて、悲しかった。
 私が、試合に負けた事を残念に思う気持ちなんて取るに足らない。それこそ竜胆高校が負けた事なんてどうでも良いのだ。言ってしまえば高橋が負けたことすら――ただ私は、高橋がコートを走り回るのを見つめていたいだけ。高橋が悔しいから、悔しい。悲しいから、悲しい。
 純粋に竜胆高校の敗北を悲しんでいるわけではない。
 それなのに、
「……なぁに、泣いてんだ?」
 鼻を啜った音に気付いたのだろう高橋が、こちらを向いて俄かに目を見開いた。戸惑ったような視線に、私は掌で目を拭う。
 ウォータープルーフのマスカラの変わりに、ゴールドのアイシャドウが掌に移った。
 私に泣く権利なんて無い。
「だって、」
 鼻を啜りながら、高橋の視界から顔を隠すようにそっぽを向いた。
「君が、泣かないから」
 高橋が泣かないから、代わりに私が泣く――なんて、それこそ馬鹿げてる。
 そう思うのに、溢れ出した涙は止まらない。
「だからって、お前が泣かんでも」
 どうして良いのか分からない、と微苦笑する高橋。
「う、るさい」
 しゃっくりさえ混じり始めた涙声で、また可愛くない事を言ってしまう。
「お前が泣くとか調子狂うし」
――別に俺、泣かねぇよ?
 何時も通り悪態をつく声音が、ふいに優しく耳に響いた。
 まるで子供にするみたいに、高橋の手が私の頭を撫でる。予想外の行動に驚いて思わず高橋の顔を見つめてしまえば、高橋が堪えられないとでも言いたげに噴出した。
「お前、何て顔してんだよ」
 頭を撫でていた掌が後頭部を固定して、反対側の手で涙に濡れた頬を擦られた。それからジャージの袖を伸ばして、その袖で無造作に目元を拭われる。
「泣くと美人が台無しだろ」
 容赦の無い拭き方で、ひりひりと痛む。
「化粧が剥げる!!」
 動揺を隠すように上げた抗議の声は、だからなのか不機嫌になってしまった。
 対照的に、心臓は驚く程早鐘を打っている。
「化粧の心配かよっ!」
 力一杯身を捻って高橋の手から逃れると、奴は腹を抱えて爆笑し出した。
 乙女の泣き顔を笑い飛ばす男なんて最低だ、って思うのに――それでもそれが高橋で、そいつが満面の笑みを見せてくれるならいいやなんて――そう思っている自分は重傷だ。末期だ。
 どうしようも無い。
「君のバスケットと同じくらい、私にはこの化粧が命なんですー!」
 高橋の顔から憂いが消えたのを見て、頬が緩む。それを誤魔化す為に言いながら鞄の中から手鏡を探し出した。
 鏡に映る自分の化粧は見事に剥げて(これは擦られたせいだ)、目元が赤くなっている(これも擦られたせい)。瞼にマスカラの黒い跡。
 隣で更に笑いを深めている高橋を無視して、鞄の中を漁った。取り出すのは化粧落としのシート。一度スッピンだって見られてるし、もう知った事じゃない。
 しかし公園で化粧を落としている自分のなんておかしな事。
 隣にはベンチから転げ落ちそうになっている男。高橋。私の好きな人。
「勘弁してくれよ、シリアスが台無しじゃねぇか!」
 とんだ失礼発言。
 君が人の泣き顔を笑った辺りからだよ、と突っ込みたかったけれどそれは出来そうに無かった。

 その後、しばらくして私と高橋は連れ立って公園を出た。
 家まで送ってくれる、という高橋の申し出は当然の如く受けた。
 だけど高橋は私の顔を見る度噴出して、人の泣き顔だとか、変な発言だとかを思い出しては、一人で笑っていて。
 面白くもない私が不機嫌になっても気にせず、むしろ人の肩やら背中やらを容赦なく叩きながら、目尻に涙まで溜めていた。
 何でこんな奴が好きなんだろうと疑問に感じながらも、高橋の屈託無い表情を見ればそんな感情も霧散してしまう。
 軽口を叩きながらの帰り道。

 こんな時間が、ずっと続けば良いと思った――。



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