10 だって君が泣かないから 前編


 第二試合、第三試合と順当に勝ち進んだバスケ部は、回を増すごとに応援をも増やしていたけれど、その中から生徒の数は大分減った。元々会場が高校のある街から電車で一時間もかかる事もあったし、何より学校側がサボリの生徒にきつくお灸を据えた所為でもあった。
 何で平日に試合なんか、とボヤきたくなる気持ちも分かる。ベスト8に勝ち上がるまでは全試合平日だなんて応援する側にはちっとも優しくない。
 一試合目、二試合目を揃ってサボった私達四人も、例に漏れずきっちり担任から説教を食らった。それだけで引き下がらないと知れると、教師陣は保護者まで出してきたのである。教師や両親からお咎めを受けて、ほとんどの生徒は引き下がった。
 今年は、異常であるらしい。担任が言うには、だが――前年までも常勝と言われるサッカー部や陸上部、時にはバスケ部も全国大会に進出する部活は少なくないが、その応援に学校をサボって、数時間も掛けて行く、という事は早々無い。サッカー部では、そういった応援も殆ど見ないらしい。それなのに今年はバスケ部の応援にだけこぞって向かおうというのだから、教師にしてみても不思議な現象らしいのだ。
「お前らも、何でそこまでして? バスケに興味ないだろう、特に菅野」
 疲れ顔の担任にお説教の最中聞かれても、適当に笑って流したけれど。
 確かに、好きな人が出ているからと言って、自分が学校をサボってまで観戦に行ったのはおかしな事だった。遅刻早退休みなんて、今までほぼした事が無い。高熱を出そうが、腹が痛かろうが、サボリの誘いを友人からもらおうが、である。
 それでも。
 見に来いと好きな相手に誘われたくらいで、迷う事なく通ってしまう自分が、理解出来ない。
 結局の所担任と母親の両者に説教をされても、私は第三試合まで見学に行ったのである。
 その翌日に呼び出してきた担任は、半ば泣いていた。だけど、忘れもしない――以前、高橋との根も葉も無い噂で不純な行為を疑われた私としては、まったく同情は出来ない。
 それに母親には、しっかり許可を取り付けているのである。元来放任である我が家は、「そこまでするなら理由があるんでしょう」と溜息混じりに言うだけ。「信用していいのね」と訊かれて即座に頷けば、それで済んでしまった。
 そして、今日。
 実力には歴然の差がある相手校との第四試合まで、いそいそと観戦に来ている始末。勝ちは確実、と言われるだけあって、第一クウォーター、第二クウォーター続けて10点もの差をつけて勝っている。まあバスケの試合での10点というのはそう大きな差、とは言えないのであるが。何てったってスリーポイントを4回入れれば逆転出来てしまうのである。バスケの試合では一試合で100点以上のスコアになる事もザラだから、安心は出来ない。
 私の目には選手はりラックスして余裕があるように見えるし、ちっとも危なげ無いのだが――。
「厳しい試合になってきたな」
「竜胆はファールトラブルが課題だ」
背後から聞こえる、バスケに詳しいらしい男性二人の会話から察するに、私のように楽観視出来るものでも無いらしい。
「実力差があってこの内容は痛いだろう」
「竜胆は波があり過ぎ。大城は前の試合もそうだけど、隙の無い試合をしてるよ。目立ったプレーは無いし大型選手も居ないけど、基本がきっちりしてる」
「こりゃ終わるまでわかんないな」
あくまでも表面的に勉強してきた私にとっては、簡単なルールと試合の楽しみ方は分かってもその勝敗の予想など出来る筈も無く、そういった面で背後の男性の会話は分かりやすい解説だった。今の今までは自分達の竜胆高校の優勢と思われていた試合が、そう言われてみれば、その通りな気がしてしまうから不思議だ。
 我知らず拳を握り締める。
 勝負事と言うのは、観戦している方にとっては大変心臓に悪いものらしいという事も初めて知った。自分が選手としてその渦中にある時は、ただ単純に楽しいものだった筈なのに。
 歯痒い思いに、手に汗握る。
 勝って欲しい、そう素直に思うのは、高橋がどれ程の努力を積んできたか知っているから。勝つ度に本当に嬉しそうに笑うから。
 他人事なのに、他人事で無い。
 ベンチから真剣な視線をコートに送る高橋を目に止める。
 勝って欲しい。
 ただそれだけを祈って、試合の行方を見守った。

 雲行きが変わったのは、第三クウォーターが始まってすぐだった。
 司令塔であった三年生のガードがファールに倒れ、主将である支柱のセンターもファウルカウントを積んでしまった為に、いったん引っ込む事になったのである。
 その後もチームファウルは蓄積し続けて、不利な状態が続く。
 私の目にはやはり、そこまでの不利は見えなかったのだけど。
 だって竜胆がボールを持っている時間も長かったし、ばしばしシュートも打っている。
 背後の彼らに言わせると。
「打たされてるね」
 例えば苦手なコースに追いやられてのシュートだったり、態勢が崩れていたり、だとか。打った数に比べて入る数に差がある。
「リバウンド、ポジション悪い」
 ――というのは、主将と変わったセンターがリバウンドを取れない事に対しての意見らしい。
 竜胆が幾らシュートを打っても、それは外れる可能性の非常に高いシュートで。そのボールを竜胆が巧くリバウンドできなければ、相手ボールになってしまう。
 更にボールを持つ時間が長い、という事は、竜胆のウリである速攻が潰されている――という事らしい。
 バスケットボールって以外に難しいスポーツなのか?と、実況と試合内容を鑑みながら私は思った。
 そうこうしている内に、ついにひっくり返った。
 残す所数分になって主将が戻っても、それは。
「遅いっつーの!」
 興奮した背後が罵声を飛ばした通り、後の祭りというやつだった。
 完全に主導権を奪われた竜胆は立て直し適わず、僅差で勝利を逃してしまった――。
 コートを去っていく意気消沈した竜胆の選手の中、高橋はタオルを頭から引っ掛けて、心なしか肩を落として。
 その姿が完全に引っ込んでしまってからも、落胆した応援席から私はしばらく動くことが出来なかった。



 何時ものように、ホールで選手を待つ、なんて事は到底出来なかった。「お疲れ様」「惜しかったね」なんて、言える筈も無い。自分にも選手時代があったから分かるが、言われた時のやるせなさったら無い。それに他から散々言われただろう慰めなんて、高橋だって聞く心境にならないだろう事も分かる。
 お互いに気まずいだけだ。
「いい試合だったよ」「かっこよかったよ」なんて更に空々しい。
「ドンマイ」「春にリベンジだね」なんて、今言ったところで「そうだね」と笑える程簡単でも無い。
 つまり敗者にとっては、言葉は虚ろにしか響かないのだ。
 今の高橋の気持ちを分かち合えるのは、一緒に戦ったチームメイトだけで。
 現実を受け止めるには少しなりと時間が居るのだ。
 だから私は声なんてかけられなかった。
 帰路で鉢合わせるのも気まずいし、時間を潰した方が得策だ――と(すぐに思い至ったわけではなかったけれど)思った。せっかく出てきたのだから買い物でもして行こう等という気分には到底なれなかったから、何とはなしに次の試合を観戦した。
 高橋の気持ちを考えて動けなくなっただけ、というのもある。
 結局どうでも良いその後の試合なんて結果も内容も覚えていない。
 ただ何となく観戦して、流れに乗って体育館を出て。歩くに任せて駅へ向かった。
 俄かファンにも劣る、ただ在校生としてチームを応援していただけの私でも、胸にぽっかり穴が空いたような何とも言えない喪失感を味わっているのだから、当の本人達は殊更だろう。次こそはと意気込めていれば立派だ。
 そんな風に立ち直れていれば良いけど。
 幸いにして明日は休日だ。今日勝利していれば、明日も試合の筈だったけれど――二日もあれば、それなりに回復して。称賛も慰さめもある程度は受け入れてくれるだろう。
 ならば自分は休み明けに、一言二言だけ触れよう。応援に来ていた事は知れているから、全く触れないわけにもいかない。ただ軽口にしてみても、恐らく笑えるくらいにはなっているだろうから。

 そんな事を考えている間に、どうやら私は切符を買って電車に乗り込んでいたようだ。
 それなりに混雑した車内で窮屈にしながらも、しっかりつり革を握っている。
 聞き慣れない、けれど試合会場の駅から二つ目だったと記憶している駅名が車内アナウンスされる。その駅で多くが降りて、調度私の前の座席が空いたので、座ることにした。
 一気に空いた車内に視線をくれる。
「……っ」
 息が止まるかと思った。
 私は車両の一番端の席。進行方向の端は優先席らしく、その優先席を背にして立っているのは、高橋だった。竜胆高校のスウェットジャージに身を包んで、いつかも見た黒いカシミアのマフラーを軽く緩めて。進行方向に背を向けて寄りかかっている、疲れたような態度。端正な顔は、バスケ中には見られない不機嫌さ。何処と無く冷めた雰囲気で、車内の女子高生のチラ見を意にも介していない。高橋の目は絶えず車窓から外に向けられている。
 だから、私にも気付いていない。
 それにほっとしつつも、少し寂しいと思ってしまうのが不思議だ。
 高橋は一人で、他の選手の姿は無い。何時もだったら行動を共にしている筈の佐久間君や日向君も居ない。もし三人揃っていたら、更に車内の視線は釘付けになっている事だろう。そして、きっと佐久間君か日向君のどちらかが私にも気付くんじゃないかな。
 恐らく現地解散になったのだろう。敗戦後にも学校に戻って練習、という流れには流石にならないだろうし。
 高橋が何で試合後数時間経った今頃電車に乗っているのかは知れないが――時間を潰したのがあだになったとはいえ、偶然って恐ろしい。
 でも最初の予定通り、今日はそっとしておくつもりだ。高橋が気付いて話し掛けでもしてこない限り、今私から声を掛けるつもりは無い。
 気付いていない振りをしようとは思っても、無意識に目線がいってしまうのは仕方ない。恋する乙女の法則だ。でも、意識してあまり見ないようには出来た、筈。
 そんな私の努力の甲斐あってか、高橋は一向に私に気付かなかった。
 ――それにほっとしつつ、やっぱりどっかで痛む胸は無視した。
 その内帰宅ラッシュにつかまったのだろう、電車内が混雑し出したので、携帯に落としていた視線を大っぴらに高橋に向ける。
 サラリーマンの群の中、頭一つ抜け出た高橋は相変わらず窓の外を物憂げに見つめていた。
 私の最寄り駅の方が、高橋の住む駅よりは近い。あとニ、三で降車駅だ。
 ガタン、ガタンと不規則に揺れる電車。潜められた会話がそこかしこから聞こえる。本を捲るような音。真正面に立つサラリーマンは週刊誌を熟読している。表紙に水着姿のグラビアアイドル。目つきは真剣だ。
 高橋は気だるげに、頭をドアに押し付けている。暖房の効いた車内と外気との対比で、窓には白い跡が生まれては消える。
 眉間には何時もの皺は無い。もう無意識に刻み込まれて癖になってしまっているような、縦皺。だから何時も不機嫌そうに見える端正な顔。目尻が釣りあがっているから更に人相が悪くなる。笑う時は片方の口角だけ上げるから皮肉げなそれになる。どこか人を遠ざける雰囲気は今日も同じ。表情だけ、見た事の無い位に暗い。
 スタメンになった、と。何時かの強豪との練習試合の時には、子供みたいな屈託無い笑顔を見た。
 部活中には真剣な顔、爽やかな笑顔が見れた。
 何時も何処か人を小馬鹿にしたような態度で、色んな事に無頓着で腰が重いくせに、バスケをしている時は信じられないような馬鹿をやって、跳ねるように軽く動く。
 バスケットが大好きなんだって良く分かる。

 だから、悔しいんだろうな、って。

 そう思っても、気の利いた言葉も言えない自分がもどかしい。
 仮に相手が佐久間君で。もし私が菜穂だったなら。何も言わなくても、ただ傍に寄り添っているだけで、きっと良いのだろう。笑顔一つで、触れる温もりで、慰めにも癒しにもなるのだろう。
 それがきっと、特別、という事で。

 高橋の目に、私はちっとも映らない。
 少し顔をこちらに向ければ、合う筈の視線はかち合わない。

 
 どうしたら私は、君の特別になれるだろう――?



 ホームに降り立つと、冬の冷気は容赦なく襲ってくる。
 学校に行くフリをする必要も無かったけれど制服姿だったから、何時も通り素足。スカートの下の膝頭はすぐに赤く染まった。
 お気に入りのミルクティ色のカーディガンは、今は紺地のコートの下。掻き合わせた襟元に、マフラーは無い。電車に乗る時に外して鞄の中、取り出す気分になれなくて、寒さに挑むように歩き出した。
 人波に流されながら、改札を抜ける。
 大きく溜息を吐きながら、俯きがちだった視線を上げた。
 思わず目を見開く。
 今日は、予想外な事が続く。
 どうしてだか高橋が、居た。私の数メートル前を行く、進行方向はウチとは反対側で。
 スポーツバックを横掛けにした見慣れたスウェット。ポケットに突っ込まれた両手。
 何処かに行く予定でも、あるのかもしれない。歩みには淀みが無く、それこそ帰路に着くかのようにサクサク進んでいる。
 思わず、その後を追う。
 右に出しかけていた足を左に向けて、横から吹いた強風に、亀みたいに頭を竦めながら。
 足の長さの違いか歩調が速いのか、一定距離を保とうとすると自然駆け足になってしまう。同方向へ向かう人が段々と減っていくので、ともすれば目立ってしまいそうだ。コンクリートを踏む音も大きい気がして、私は高橋を見失しなわないように注意しながら少し距離を広げた。
 駅前の広い通りを進んでしばらく行くと、住宅街になっている。左右に比較的新しい家々が立ち並び、喧騒とは程遠い閑静なそれらからは夕餉の匂いが漂っていた。
 沈みかけた太陽が辺りをオレンジに染めて、コンクリートに伸びる影を長くする。
 もしかしなくても、私の行動はストーカー染みていた。ここまで来れば誰かの家にでも遊びに行くのだろう、と結論付けられそうなものなのだけれど、それならそれで見届けようなんて言い訳していた。高橋が振り返りでもすれば、私は怪しい人確定なのに……。
 やがて高橋は、住宅街の中に位置する小さな公園へと入っていった。ブランコと砂場があるだけの、本当に小さな公園。入ったすぐの所にベンチが一つ。
 高橋はそのベンチに腰を下ろした。
 ――けれどそれだけで、何をするでも無い。
 私はまさかそのまま公園に入っていくわけにも行かず、少し前の曲がり道で、角にある電柱の影に隠れるようにしながら、その背中を見ていた。
 これはいよいよ変態っぽい。通報されてもおかしくない、なんて苦笑が漏れる。
 それでももう少し。あと数分。
 人が通ったら電話をしているフリをしようなんて考えて、片手に携帯を準備していた。
 次第に暗くなっていく空。何時もだったら家に帰っていたいような時間。早々痴漢変態にお目にかかるわけもない(むしろ今は自分が変態だ)けれど、過去の記憶は暗がりを脅えるように条件反射みたくなっているから――何時もなら間違いなく、帰路に着いたのだろうけれど。
 高橋は、ただベンチに座っていた。白い吐息だけが規則的に生まれるだけ、それ以外は背後から様子を窺う術は無い。
 三十分経っても高橋は動かなかった。
 私もその間、動けなかった。もしかしたら誰か人でも通って訝しげな視線でもくらいでもしたら、多分慌てて背を翻して逃げたと思う。だけどそういう事もなくて、母親からの買い物要請や帰ってこいコールもなくて、半ば意地みたいに、高橋が動くまでは見守ろうみたいな、そんな気持ちで。
 太陽が沈みきって、辺りは夜の気配。濃い闇が纏わり着く。
 公園の入り口付近に光蛾灯があるので、高橋の動きは暗がりの中でも分かる。公園の向こうにも同じように光蛾灯、そして家々の明るい蛍光灯。
 耳を澄ませばTVの音だろうか談笑なのだろうか。
 私の唇からも白い息が何度と無く吐き出される。
 携帯の待受画面を確認してから、私は「よし」と小さく呟いた。
 何時までもこうしているわけにも行かないのだ。
 来る途中に自動販売機があったので、そこまで戻ってから、缶コーヒーと紅茶を買った。
 無機質な缶の熱を手袋越しに感じながら、一度頷いて、私は公園に足を踏み入れた。



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