17 誰でもいい、君でさえなければ


 今朝から、ウチの妹は慌しく走り回っている。昨夜までに入念に準備を終えていたくせに、天気予報が外れて、晴れ予報が雨になったぐらいの事で、着ていく服を再考せざる得なくなった。どうして最初から濡れても困らないような服装を用意しておかないのだろう。
 服を変えたら、靴も、鞄も、宝飾品さえ、変えざる得なくなる。
 無駄に早起きしていたくせに、と、母親の呆れたため息を聞きながら寝起きの俺は思う。

 今日は、妹にとって今後を左右する大切な日。
 長年付き合っていた彼氏にプロポーズされたと聞いたのは先月だったと記憶しているが、今日は両家の顔合わせというやつだ。
 妹の結婚相手とその家族。俺にとっては緊張するような相手では無かったが、妹と両親にとっては一大事だ。
 俺の準備なんて簡単なもので、別に寝坊したわけでも無いのに、欠伸交じりに階段を降りて行くと、念入りに化粧をした母親に小言をくらった。昨日までにも散々言われた「お兄ちゃんより妹が先に結婚するなんて」という文句交じりに。
 仕事が忙しいなんて言い訳は、社会人生活十年目にもなろうとすれば受け入れて貰えない。俺は肩をすかして、母親の横を通り過ぎる。
 洗面所からは妹が騒いでいる声。リビングでは、父親が忙しなくチャンネルを変えているテレビのサウンド。
 何時に無く騒がしい朝だ。

 顔を洗おうと洗面所に向かうと、鏡の前で云々唸っていた妹が、鏡越しに視線をくれて来た。
「お兄ちゃん〜」
 今にも泣きそうな顔で、湿気の所為でうねった髪をどうにかまとめようと頑張っているようだが、巧くいかないらしい。助けて、と訴えてくるのは、口よりも雄弁な目。
「お願い、やって〜」
 専門学校を卒業した後美容師として勤めて十年弱。俺が美容師を目指した理由が、癖っ毛の妹の髪をどうにかしたいが為だった。七つも下の妹は周りにシスコンだと揶揄される事があるくらいに可愛がっていたし、共働きの両親の代わりに、毎日朝、彼女の髪を梳かしてやるのは俺の役目だったのだ。
「はいはい」
 軽くため息を吐き、しょうがないな、という風情で妹の手からブラシを受け取る。癖に逆らわないように丁寧に梳かしながら、整えていく。
「お前、結婚した後大丈夫か?」
「大丈夫じゃないから、ショートにするって決めてるの」
 きっぱり言い切る妹は、小さい頃から伸ばしてきた髪の毛に未練を感じさせない。ロングの方が絶対可愛い、女の子らしいと豪語していたのは、確か数年前の高校時代じゃなかっただろうか。
 思わず苦笑尾漏らせば、子供のように唇を尖らせた妹は、
「だって仕方無いじゃない。お兄ちゃんが、居ないんだから。あ、何ならお兄ちゃん、毎日髪の毛セットしに来てくれる?」
「誰が行くかバカ」
「えー、いいじゃん! お兄ちゃんは、あたしの専属美容師でしょ?」
「いい加減解放してくれ」
嘆息交じりに言えば、ぶーぶーと文句を垂れる。兄の贔屓目かもしれないが、そんな顔でも愛らしい。
 小さい頃からおにいちゃん、おにいちゃんと後を付いて来た小さな妹。煩わしいと思った事が無いとは言わないが、無邪気に慕われて嬉しくない筈が無い。昔からのそれで二十歳を過ぎても甘えたの、俺にとっては、変らず小さな妹。
 でももうすぐ、彼女はこの家から出て行く。
 感傷的になりながらも妹の髪をコテで巻き、何時よりも誰よりも可愛くなるようにと念入りにセットしていたら、何故だか俺の方が時間に余裕がなくなってしまった。



「本当にもう、恥ずかしながら家事なんてほとんど出来ない娘で……」
 待ち合わせの料亭で部屋に案内されるなり、余所行き声で率先して話し出したのは母親だった。「ほほほほほ」なんて聞きなれない笑い声を立てて、話をどんどんと進めていく。
 その手腕には脱帽するが、何故だかちょいちょい挟む雑談が「兄より妹が先に結婚なんて、」という嘆き。
 リテイクのかかったドラマの撮影みたいに、相手の母親も同じ様な台詞を繰り返す。
「でも、男の子の結婚は遅いものですし」
 もう勘弁してくれ、と頭を抱えたい所だが、皆それなりに緊張しているのか話題に事欠いて、全く関係ない俺の話ばかりぶち込んでしまうのかもしれない。当たり障り無いだろうし、他と違って相槌だけで終わらずに会話を広げられるから。
 隣に座る緊張気味の妹を眺めてから、対面の婚約者の幹くん、そしてその両親を見やる。仕事の都合で幹くんの弟二人は不参加らしく、俺だけが妙に居心地悪い。誰も思ってやしないだろうが、別に俺の仕事が楽で暇なわけじゃないんだからな、なんて意味も無い言い訳をしつつ。
 所謂、こういうシーン向けの料亭は、都心にあっても緑の庭を持ち、静かで趣がある。完全個室の和室だが、正座が苦手な現代人でも使いやすいようにか、テーブル席であるのがあり難い。懐石料理はどれも豪華で、お吸い物に金粉が浮いていたり、箸置きや小皿が鶴や亀を模していたり、祝い事という雰囲気があちこちに窺えた。
 慣れない場所柄と雰囲気もあって、妹は完全に固まって役に立たないし、酒が入れば饒舌になる父親も相槌程度しかせず、母親は俺にばかり助けを求める。俺が適度に突っ込めば笑いが取れるので、そういう理由もあってか、俺は先程から何度も何度も結婚を急かされている。
 ほっとけ。
 大体二十一で結婚する妹が早すぎるくらいなのだ。
「いい縁があれば良いんですけどねぇ」
 ここ数年彼女は居ないが、それなりに恋愛経験を積んできた立派な大人なので、あまり親にアレコレ言われるのは本意ではない。それこそ縁があれば結婚するが、その縁に恵まれないわけでもなく、今の所結婚への意識が無い――という事を言えば、負け惜しみだと母親は言うだろうから、けして口にはしない。
「でも、お父様に似て格好良いから、息子さんおもてになるでしょう?」
「いえ、全然」
 そして何故か母親が即答。これにも文句は言わず、から笑い。
 ついでに完全な社交辞令なのに、何故だか父親が照れたように頭を掻く。相手方の親父さんの方がよっぽどダンディーで格好良いだろうに、単純さが恥ずかしいくらいだ。
 もうどうにでもしてくれ、と思っていたら、始終柔和な笑みを浮かべ頷きながら話を聞いていた、親父さんがフォローなのか口を開いた。
「でも、こんな美人な妹さんがいたら、理想も高くなるんじゃないかな?」
 これには今度は、うちの妹が顔を赤らめて。
「でも、私も早く義姉さんが欲しいとは思います」
「ああ、そうよねぇ。うちは男兄弟だから、そこはお兄さんに頑張ってもらわないと」
 ここぞとばかりに大きく頷く両親。
 そんな会話で場が和やかになってしまうのだから、やるせない。
「ははははは」
 何より奥さんと親父さんが楽しそうに笑ってくれれば、妹も嬉しそうに笑うのだ。その度に向かいの幹くんと目配せして、ほっと息を忍ばせる。そんな様子を見ていたら――勿論、大人気ないからというのもあるが――身を切って話題を提供しようじゃないか。妹の門出なのだし。
「お兄ちゃん、お願いね?」
 おねだりする様に小首を傾げて、期待に満ちた瞳が見上げてくれば
「はいはい」
 と答えずには居られない。
 結婚なんて、しようとすれば誰とでも出来る。誰でも、いい。
 そんな事はけして言わないけれど。
「幹くん、こんな勝手な妹だけど、よろしくな?」
「はいっ!!」
「ひど! お兄ちゃんも幹くんもヒドっ!!」
「はは、即答だったな」
 祝福の言葉だって、何だって、何時だって出せる。妹と幹くんの絡まる視線に、どんな感情が混じっていようと。幸せそうに、笑ってくれるなら、何だってしてやる。
 そう思いながらも、ちくりと棘が刺さった胸の痛みを、他所事みたいに思う。
 お兄ちゃん、お兄ちゃんと、何時だって俺の後をついてきた妹。無邪気な笑顔。屈託無く、疑う事もせず、当たり前に信頼を寄せてきた妹。
 そんな妹が何時しか理想の恋人像になっていたなんて、滑稽な話。
 行き過ぎた思いはけして口に出来ない。

 君でないのなら。
 ――君でさえ、なければ。

 誰にも言えない小さな願いを唱えながら、それでも妹の幸せを心底から祈っているのも、本音なのだ。








title by 悪魔とワルツを - 永遠は光の速さで

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