15 雨上がれば虹

あまやどり30分」の続編です



 予想通りの天気雨に、避難していたのは30分程度。
 雨の匂いと濡れたアスファルトを残して、空は青く澄み渡る。
「雨、止んだ」
そう言った野田くんは、しかしそのまま屋根の下から出て行かない。まあそれは、私も同じなんだけど。
 タイミングを逸した、と言い訳めいた事を考えても、中々足が踏み出せないのは少し、ほんーっとーに少しだけ、名残り惜しい気がする、から。
 眼前を小走りで駆けて行く学生が水溜りを蹴って、そこではた、と自分の逡巡に気付く。
 何を考えているのか。名残り惜しい、なんて。寂しい気がする、なんて。そんなの。
 電車の時間がある事を思い出して、髪の毛を整える仕草を経て振り仰ぐ。
「それじゃ、」
と、愛想笑いの挨拶は、手首を掴まれて途中で止まった。
「え、あの、」
「空」
野田くんは戸惑う私を見てはいない。上空を仰ぎ見たまま、一言を告げる。
 私もならうように空を見上げて。
「あ」
声の調子が喜悦に上がった。
「虹」
言葉少なに、しかし、感動を目一杯含んだ私の声に隣で頷く気配がした。
 綺麗な半円を描く、七色の虹。そうそうお目に掛かれない見事な虹は、くっきりと青空に輝く。
「すげぇな」
野田くんの感嘆符に頷いて、暫く二人並んで空を見上げていた。

 やがて薄れたそれが完全に消える頃、野田くんは私の手首を捕えたままだった事に気付いたらしい。
「悪い」
と謝罪をされて、私もそれに気づく。解放された手首を反対の手で撫でるようにしたのは、手持無沙汰と言うか落ち着かない気になったからで。
 おそらく初めて喋った、隣のクラスの同級生。
「……ああ、うん。大丈夫」
 その微妙な距離感のまま、気軽く触れ合うのもから揶揄い合うのも、躊躇われて。
「ええ、と、それじゃあ、私は帰るので」
 じゃ、と片手を挙げて、でも野田くんの顔は見られないまま早口に捲し立てて、今度こそ一歩を踏み出す。
 ――踏み出した筈だ。
 踵を返した私の、挙げたままだった手首をまたもや掴まれてしまう。
「相川!」
 咄嗟に振り返った私の目に、思いの外大きな声が出てしまったからだろうか、自分の口を押える野田くんが映って。
「……さん」
今更のように敬称をつけても、取ってつけた感があり過ぎる。
 この微妙な空気をどうしようと言うのだ。
「あー、その、相川さんは帰り電車?」
 そわ、と肩を上げるようにして項を掻く野田くんは、今更の敬称を繰り返す。
「あ、うん、そう」
「上り?」
「いや、下り」
そうそう。そう言う事も知らない間柄だ私達は。
「俺も」
「あ、そうなんだ?」
 雨も上がったと言うのに、未だに雨宿りの屋根から抜け出せない私達。掴まれた手はそのまま。交わす言葉は、なぜに今?と言っていいような、どうでも良い情報交換。
「でも、駅とかで見た事ないかも?」
「普段はチャリなんだけど、昨日帰りにパンクして。んで、帰って直す予定」
「あー、成程」
つまりそのたまたま電車で通っている今日に限って雨に降られ、偶然の雨宿り仲間とならなければ。お互いを認識する事もなかったのかなあ。なんて。
 虹の名残も失せた空を、もう一度見上げる。
 「そっか、そっかあ」と軽く相槌を打ちながら、この偶然はなかなかどうしてあれである、と上手く言語化出来ない感情を持て余す。
「つーわけで、俺も帰るから」
「あ、うん、はい」
 えーと?
 つまりこれは、一緒に帰るとかそう言う?
 促されるまま、隣に並んで、歩き出す。
「あ」
「あ?」
「いや、あの、手をね?」
「!」
 鞄を肩に掛け直そうとした側の手は、掴まれたままだった。
 直後、まるで痴漢の冤罪を訴えるかのように両手を挙げる野田が、顔を真っ赤にした。
「悪い!」
 その狼狽えっぷりったら。
 思わず吹き出すように破顔すると、野田はまた肩を竦めて項を掻いた。
 まあ、こう言う風にお互いを認識して、知り合う事もあるだろう。きっと。
 顔を合わせて挨拶をして。世間話をするような未来を想像する。
 隣のクラスの小野だか小田だかくんは、野田と言う一個人に変わって。同じ学校の女生徒だった私は、相川と言う一個人だと認識されて。
 駅までの道を歩調を合わせて歩きながら、お互いの理解を深くして行く。
「相川は部活入ってる?」
「いや、帰宅部」
「へー。なんで?」
「中学はテニス部だったんだけど、うちのテニス部ガチ過ぎるから、もういっかなって思って」
「テニスっていいよなー」
「……」
「おい、なんだその目は」
「いや、もうその手の話は聞き飽きてるんだよ。あれでしょ、チラ見せがどーとか言い出すんでしょ」
「……」
「うーわー」
「いやいや、だってよ?」」
「いや、いい。みなまで言うな。下手な言い訳、聞くだけ無駄だわ」
「……」
「何よ、その目は」
「相川さー」
下らない話。ありきたりな応酬。
敬称を放棄した模様の野田。
「下の名前、なんつーの?」

――少しだけ踏み込んで。
 僅かな時間で移り行った雨空みたいに、変わり行く友情模様のその先は――。




関連作:「あまやどり30分





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