21 彼の世界を変えるひと
死刑囚144321。
彼がそう呼ばれるようになったのは、半月前。
それまでの彼は人の影でひっそりと佇んでいるような、平凡でとりとめの無い青年だった。
凡庸、と言われる程に特徴が無かったとは、私は思わない。
私にとって彼は、ただ傍らに居て欲しい人だった。彼の放つ空気は何時も優しい。私の何気ない話も、嫌な顔一つせず微笑みながら聞いてくれた。彼と居ると心がほんわりと暖かくなった。
ずっと隣に居たいと思った。
彼にとって不幸だったのは、二つ上の兄があまりにも優秀だった事。
穏やかで優しい彼は兄の影で秘かに傷付き続けた。
常に比較され、まるで光と陰と揶揄された対称的な兄弟。兄の前では彼の凡庸さがまるで愚かな事のように言われた。
強烈な印象を見る者に与える、神々しいまでに苛烈な空気。美しい造形を持つ顔、艶やかな容姿。幼少の砌より非凡な才能を発揮した義兄が最年少で騎士になった年、その弟は華やかなパーティーを柱の影で長い事見つめていた。
――義兄が頂点に駆け上るまで、そう長い時間は掛からなかった。
「フェネル」
戦への出陣前。戦勝を祈る人々に出迎えられる軍馬の先頭で、凛々しい白馬に跨っていた義兄。
「兄上」
フェネルの緊張した声を、私は忘れられない。
寄り添う私の手を握る彼の掌が、じっとりと汗ばんでいた。
二言三言を交わし、義兄は騎士を引き連れて戦へ向かう。
フェネルはそれをただ静かに見送った。
「フェネル」
私が声を掛けるまで、フェネルは彼らが消えた地平線を見つめ続けた。
硬い手の感触。剣を握り、出来たたこの感触。
けれどフェネルの努力の証は、日の目を見なかった。
フェネルは騎士として、出陣する事が叶わなかった。
身内びいきと言われればそれまでの事。けれど私には、フェネルが劣っていたとは思わなかった。けれど兄を知る者のあまりある期待の中、フェネルの実力は失望以外の何も生み出さなかった。
フェネルは騎士を諦め、実家の鍛冶屋を継いだ。
日中夜、一心不乱に鍛冶場に篭もるフェネルの背中を、私は何も言えずに見守っていた。
滴る汗に涙が混ざるのを、どうしようもなく騒ぐ胸を押し込めながら、見守っていた。
『アゼリア、僕は――騎士になれなかったよ』
フェネルの父が死に、鍛冶屋を継ぐ事を余儀なくされたフェネルが、私に一度だけ吐露した思い。
自嘲気味に、けれどどこか諦めのこもった笑みを見せて、フェネルはそれ以後、そのことには何も触れなかった。
二つの季節が過ぎ、戦勝に国中が沸いた日。
功労者と呼ばれた英雄は、帰らぬ人となった。
ランドルフ・クロイツ。
死刑囚144321が奪った命は、尊い英雄にして彼の兄。
誰もがフェネルを詰っり、呪った。
けれど私は、どこかで知っていたのだ。
こんな結末を、知っていたのだ。
強すぎる光が、陰に追いやられたあの人の笑顔を奪うのだと。
握り締めた拳。
震える唇。
穏やかな笑顔が、泣きそうに翳った。
あの日。
あの、柱の影で。
――彼の世界を変えるひと。
酷く澄んだ秋の空が、目に焼きついている。
関連作 : 「道端を飾る花」
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