Really!? 05 噛み付くような、酷く乱暴な口付けだった。 隙間を縫うように侵入した熱を直に感じて、思うより早く逃げの姿勢を取ったけど、後頭部に回った手に固定されて動く事が出来なくなった。 目一杯見開いた視界に、彫りの深い哲也の顔だけがある。窪んだ瞼のラインに、きりりと伸びた眉。哲也の性格そのままの、野生的な顔。 経験値の違いなのか、糸も簡単にこちらの弱い所を見つけ、刺激してくる。 押し返そうと哲也の胸に伸ばした手は、縋るような形になった。 息継ぎがうまく出来なくて、そのせいで脳内はとっちらかったまま。思考は上手く繋がらない。 分かっているのは、このキスが気持ちいい、という事だけ。 歯の根元を撫でられ、ぞわりと項の毛が逆立って、力が抜けそうになる。 何も考えられない。考えたくない。委ねてしまえ。 そう思ってしまう程に、哲也のキスは技巧的で、甘かった。 それでも、頭の片隅で、ひどく醒めた自分の声がする。 欲望と、愛情は違うのだ、と。交わす熱がどんなに心地良いとしても、それは違うのだ、と。 違う――と否定しなければ、虚しさが顔を出す。 「ぅむっ」 唾液を注がれて、嚥下し損なったそれが口の端に滲んだ。 けれど、頬を流れたのは、また別の液体だった。 瞼の奥から溢れた涙は、哀しさだろうか、悔しさだろうか。 こんな事で泣くなんて、見っとも無いと思うのに、欲求を凌駕した虚しさが、止め処なく溢れてくる。 頬に移動してきた哲也の手も、それに気付いたようだった。 瞳を見開いたままだったあたしのぼやけた視界に、持ち上がっていく瞼が映る。 驚きと戸惑いは、体が離れた矢先、「くそっ」という小さな悪態に変わった。 あたしの頬の傍、触れるか触れないかの位置で彷徨った掌はやがて拳を作り、血管が浮き出る程に強く強く、握られた。 拳に込められた力が発露されたのは、哲也の背後の窓ガラスだった。 衝撃に、車全体が小さく揺れる。 逸らされた哲也の顔から、感情は読み取れない。 あたしもあたしで流れ出た液体に戸惑っていたから、哲也の気持ちになんて頓着している場合じゃなくて、手の甲で涙を拭うのに夢中だった。 馬鹿みたいだ。初心な中高生じゃあるまいし、たかがキスされた位で何を泣くのか。自由だった手で哲也の頬を張り飛ばし、さっさと車から降りるなり――方法はあった筈だ。 それを何だ。何で泣いているのだ。 自分でも意味が分からなくて、パニックになる。 彼氏に浮気されようが、振られようが、泣いた事なんて一度もなかった。泣けない自分を嗤った事もあった。けれど、キャラにない事は出来ない、という一片のプライドが、何よりも勝った、から。 男を失った位で泣くあたしなんか、あたし自身が許さなかった、から。 必死で取り繕うとした。けれど何をどう言えばいいのか分からなくて、開いた唇はただ嗚咽を零すだけ。 どうしてだろう。 目指したのはこんな形じゃなかった。 こんな風に、なりたいわけじゃなかった。 ――でも、じゃあ――あたしは。一体、どうしたかったというんだろう。 「美咲」 こちらを見ないままで、哲也がぼそり、低く言う。 あたしはその声に、どうしてか肩を跳ねさせてしまった。 「……お前が、俺を見ないのなら、それでも、いい」 搾り出す様に、哲也は言う。 「けどお前は、それすらも許さないんだな」 自嘲するみたいな、乾いた呼気。相変らず窓に当てたままの拳に、更に力が篭る印象。 「俺はっ」 けれどそれ以上は言葉にならないようだった。 ぎゅうと、拳にだけ力を篭めて。 短い沈黙の後、ドアロックが外される音が、車内に響いた。 しゅるり、シートベルトが外される音。 運転席のドアが開いて、外気が忍び込む。 長い脚を車外へ出して、出様、哲也が小さく呟く。 「五分」 ごふん。 短く時間だけ告げて、静かに閉められたドア。 ミラーに映った広い背中が後方へ消えていく。 五分。 それがどちらに与えられた猶予なのか、あたしには分からなかった。 溢れた涙は止まらずに、今も頬を滑り落ちていく。 パタパタ、と膝に抱えたバッグに雫を落としていく。 あたしは、最低だ。 ゆっくりとした動作で、シートベルトを外して、外したものの、何処にも行く事が出来ない。 車が止まるのは実家の前。灯りが落ちた暗い家の前。窓からすぐそこに、【今野】の表札が見える。 家の鍵はバッグの中。それを持って、門戸を潜ればいい。 後は戻ってきた哲也が、車に乗って去って行くだろう。 そうして明日にはまた、あたし達は元に戻れる。何も無かった顔をして、友情を取り戻す。 哲也は、そうしてくれる。 あたしが最後通牒を突きつければ、そうしてくれるだろう。 でも、虚しい。 分かってる、虚しいのだ。 自分の過去の恋愛を否定されるのと同じ様に、哲也の屈託の無い愛情を失う事もまた、あたしは恐れてる。 だって、知ってしまった。 あの眼差しの温かい事。くれる言葉の心地良い事。 触れた掌に、確かにドキリと高鳴る鼓動はなくても、感じた事のない安心感が宿った事。 でも、だからこそ。 こんなのは、あたしじゃない。 こんな葛藤は、あたしには向かない。 今までのどの彼氏が、あたしの傍を離れていっても、こんな風に心細い思いなんかしなかった。すぐに立ち直れた。立ち上がれた。 でも、今は違う。 哲也は違う。 何者にも変えがたい親友で、嘘偽り無いあたしを認めてくれる人。 そんな人はもう、これ以後現れない確信がある。 失えないのだ。 この形を、失いたくないのだ。 これが愛になって、何時か終わる日を迎えるなら、それならば愛じゃなくていい。 そう、思ってる。 なのに手をかけたドアの取っ手に、力は入らない。 愛じゃなくていい。 それなのに、唇に触れた熱を、反芻している。 ――ああ、そうだ。 もうとっくに分かってる。 一つ、大きく深呼吸をする。 バッグの中から携帯電話を取り出して、時刻を確認してみる。五分はもうとっくに経った気がするが、どうだろうか。 しゃっくりを飲み込んだ。 鼻を啜る。 バッグを漁ってポケットティッシュを取り出す。勢い良く鼻をかんだ。 頬を強めに擦る。涙の跡を無理矢理拭う。 もう一度深呼吸して、車外へ足を出す。 心は、迷う。 けれど迷いを振り切る様に頭を振って、顔を上げる。 見慣れた一軒家を見上げて、あたしは一歩踏み出した。 Copyright(c)2012/05/26. nachi All rights reserved. |