01 please, you see me. 2


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 妃になって間もない頃、私は囁かれる睦言にも、優しい手にも、まだ戸惑っていた。
 身体を重ねる事に二人も子供を生んだ今でも恥じらいを覚えるけれど、その頃はまだ、戸惑いばかりが大きかった。
 けれどある夜、陛下は仰った。

「どうか、アル、と」

 私の目から零れ落ちた涙を舐め取り、顎を掬い上げて。
 その青空の瞳で私を見つめ、許しをくれた。
 近づくことを、受け入れてくれた。

 その瞬間、私は確かに幸せに満たされた。


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 マゼルがグランディアに召喚されたのは二十歳を迎えたばかりの冬の事だった。
 その年の事を振り返ると、彼女は何時も底なし沼に沈んで行く自分がイメージされた。今まで自分を守ってくれた優しい腕から引き離され、光輝いていた世界から突き落とされ、寒さと悲しみに喘ぎながら、叫ぶ声を失って泥に嵌っていく自分――誰の眼にも触れずただ静かに、一人孤独に朽ちていく。
 けれど沈み行く身体を掬い上げてくれた力強い腕の存在も、共に思い出された。
 全てを失った筈のマゼルに、失くした筈の全てを与えてくれた存在――それをどうして、憎く思う事が出来ただろう。
 衰弱して三日三晩生死の淵を彷徨っていたマゼルは、指先に感じた温もりだけをただ、覚えている。
 
 目覚めるその時まで繋がれていた大きな手。その手の主が、彼女の“運命”だった――。



 オフィリアが彼女の『特殊な仕事』の為に部屋を下がると、マゼルは隠さずに大きな溜息をついた。
 オフィリアと交代でやって来た二人の侍女は隣室で待機していたが、オフィリアを相手にする時ほどの疲労感を感じる事は無い。
 労せずして王妃の仮面を被ったマゼルは二人の息子の安らかな寝顔を確認すると、寝室を抜け出た。
 傅く二人の侍女に、命じる声は凛としている。
「ヨシュアとローランをお願い。わたくしは、研究室に参ります」
「畏まりました、ミュ・ゼラ」
 ”我が主”と呼んで応える声にも、マゼルと同様親しんだ色は無かった。
「いってらっしゃいませ、レスティー」
 そうして今一人が“王妃”と彼女を称えても、マゼルはニコリともせず、視線一つくれずに部屋を後にした。

 昼夜変らずひっそりとした後宮の廊下を、マゼルは足早に進み行く。
 向かう先は後宮内にある研究室だ。マゼルがグランディアに召喚されてすぐ、ディーダ国王がマゼルの為に誂えた。
 今やそこが唯一の、マゼルの安息の場所だった。
 母国に在った頃から、彼女は青薔薇の誕生を夢に見、その研究に携わる次兄や研究所の所長である叔父と共に、その道を突き進んできた。
 それを知ったディーダ国王は彼女の夢を後押ししてくれたのだ。
 残念ながらここグランディアを含む異世界の技術では青薔薇開発は夢のまた夢であったが、それでもマゼルには充分だった。
 小さな温室と薬品室、それから二人の職員。庭師イェルとその助手である少年セドックは化学者でも、特別な知識を持つわけでもない。傍から見れば彼女達三人のしている事は、庭弄りの延長だった。
 それでも、構わない。
 扉を開けた瞬間、「レスティー」と呼んで走り寄ってくるセドックと、微かに微笑む老齢の庭師とを交互に見て、マゼルは安堵の表情を浮かべた。
 正直、マゼルはレスティーと呼ばれる事を好まない。かつてはその名で呼ばれる度に気恥ずかしさを感じると同時に胸も躍ったが、その意味を知った瞬間に、気持ちは萎えた。
 ディーダ国王の妻、という立場に、浸っていられた間は良かった。王妃である事が嬉しいのでは無く、愛しい相手の妻である事が誇らしかった間は。
 けれど立場に縋る事にしか出来ない今となっては、悲しみの象徴でしかないのだ。
 レスティーは王妃を意味する。けれど王妃を意味する言葉はもう一つあるのだ。正妃を意味する、エマンジェスティという言葉が。その瞬間から、レスティーという呼び名は、正妃にはけしてなれない自分を蔑む呼び名になった。
 対外的には、マゼルは王妃だ。ディーダ国王の、ただ一人の妃だ。けれどそれでも、側妃でしかない。マゼルにとってディーダ国王は唯一だったが、ディーダ国王にとっての、唯一では無い。
 それが耐え難い苦しみである今において、レスティーの称号に、何の意味もありはしない。
 けれどセドックが口にするレスティーという音は、心地良く耳に聞こえる。
「見て下さい、レスティー! 4号に、今日こんなに大きいミミズが!」
 セドックは大切そうに握っていた両手を解いて、掌のミミズをマゼルによく見えるように持ち上げて、とても嬉しそうに笑う。
 マゼルもまた微笑みを深めて、セドックから躊躇いもなくミミズを受け取った。
「まあ、それは素敵ね」
 人差し指でミミズの身体を突くと、奇妙にそれが動く。滑った血管のようなその生物を女性のほとんどが嫌うだろうし、プレゼントされて嬉しいと思う人間は稀だろう。幼少時の男の子が女の子相手見せて泣かせる、といった類の意地悪の手法に良く利用される生物の一つといって良い筈だ。
 けれど園芸家にとっては、大切な友人と言ってもいいかもしれない。
 八区に分け、それぞれに1号から8号と名付けた温室の区画、その4号の土壌は、新しい研究の為に開発している途上だ。肥料や薬品を配合して様子を見ていたのだが、その土で育てた植物やミミズは育たない内に死んでしまう。土を食べるミミズが太く大きく育てば、土壌の改良がうまくいっているという事に他ならない。
 屈託無く笑うセドックにミミズを返しながら、マゼルはイェルに顔を向ける。
「何か変った事は?」
「ありませんです、レスティー。ああ、でも、8号のアレクセス・ローズは調子が良さそうです、はい」
「本当?」
 アレクセス・ローズは、グランディアの王都であるここアレクサの、それも王城の土壌でなければ咲かないという極めて稀有な薔薇だ。洗ったシーツのような眩しい程の純白な花弁に、棘の無い茎を持つ。近種を持たないその薔薇は、その存在感と希少価値も含めて、王家の薔薇という意味でアレクセス・ローズと呼ばれている。
 奇蹟の薔薇ともあだ名されるそれは、色こそ違えどまるでマゼルが追い求める青薔薇のような存在だと思われた。
 だからこそマゼルはアレクセス・ローズの生態研究を主だったものとしていた。
 純粋に興味を持った事も確かだが、それ以上に、王に寄り添う存在、という意味でエマンジェスティの肖像画に描かれるその花に、駆り立てられる想いがあった。
 自らの肖像画には描かれる事のない薔薇。その花もがエマンジェスティが王の唯一である、とマゼルを嗤っているように感じてしまう。
 アレクセス・ローズは特別な薔薇。誰にもその質を分け合わない、孤高にして、絶対の存在。
 その薔薇を交配させて同じ品種の別の薔薇を作る事が、今のマゼルの夢だった。
 その不変を叶えた時、己の願いも叶うのではと、期待を抱きながら。
「では、4号の土壌に8号のアレクセス・ローズを一株、移して頂戴。今日から朝と、晩、花の周りに砂糖水を与えてね」
「砂糖水ですか?」
「そうよ。花が散ったら、根こそぎ引き抜いて。大切なのはそこからなの」
「どうしてです、レスティー!」
 怪訝そうに首を傾げるイェルと、純粋に興味深そうに眼を瞬かせるセドックに、マゼルは茶目っ気たっぷりに片目を瞑った。
「それはその時の、お楽しみよ」
 軽やかに笑みながら、けして大きくない薬品室の、最奥へと進んでいく。その奥にはもう一つ、彼女だけの研究室があるのだ。
「後は何時も通りお願いね」
「分かりました、レスティー」
 二人が頷くのを待ってマゼルは扉の鍵を閉めた。
 そうしてやっと彼女は、レスティとしての仮面も、マゼル・アラクシスの仮面も脱ぎ捨てる事が出来る。
 研究に没頭している間の彼女は、誰でもない、一人の研究者なのだった。

 ディーダ国王に想う相手が居る、とマゼルが知ったのは、何時の事だっただろうか。少なくとも、ローランが生まれてからの数年はマゼルは何も知らなかった。
 故郷で抱いた悲しみもやがて癒え、可愛い息子の存在と日毎に増していくディーダ国王への愛情を、噛み締めていた日々だった。
 知らなければ良かった、と思う。何も知らなければ、誰の眼から見ても滑稽な人生だったとしても、マゼルは幸せだっただろう。きっと、幸せのままに、偽りを信じて人生を終える事も出来ただろう。
 けれどそれはもう、考えても仕方がない事なのだ。
 マゼルは既に真実を知り、それ故に苦しみ、もがいている。
 愛されたい、そう思う事は罪だろうか。自分が愛する分と同じだけ、愛されたいと願うのは我儘が過ぎるだろうか。
 失った家族を与えられ、地位も名誉もこの手にして、愛する人を傍らに――それ以上を望んでしまう自分は、愚かでしかないのだろうか。
 その答えは、もうマゼルの中で出ている筈だった。
 例えディーダ国王が自分を通して他の誰かを見ていようと、それを責める権利はマゼルには無い。
 ――無いのだ。
 瀕死の国を救う為に、異世界人を召喚する決断をしたディーダ国王は、平安と安寧を呼ぶ異世界人を王妃として、栄えてきたグランディア王国の歴史に続いただけ。
 見知らぬ部屋で目覚めたマゼルの手を握り、真摯に言い募った国王の言葉を、マゼルは覚えている。
 この国の平安と安寧の為に、王妃になる事を請うたその人は、けして愛の言葉など紡がなかった。その人の優しさに惹かれ手を取ったマゼルに、約束をくれた。
『貴女の全てを奪った代りになるとは思わない。それでも、貴女が心安らかに過ごしてくれるよう、私は全てを尽くして応えよう』
 疲れ果てた心を救い上げてくれた。温もりと安心を与えてくれた。それだけでもう十二分に、彼の言う所の償いはしてもらっただろう。
 ディーダ国王は義務を果たし、マゼルはその一端を担う報酬として、願ったものを手に入れた。
 これはそういう契約なのだ。





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