01 please, you see me. 1


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 自分の暮らしている世界の他に、別の世界があるなんて誰が信じただろう。
 それは物語だけの話だと、私は思っていた。
 けれど実際に私は異世界に召喚され、幸せな人生と愛する伴侶を手に入れた。そうしてその伴侶との間に、可愛い二人の息子まで。
 幸せだ。
 ――間違いなく、幸せなのに。

 伸ばされた手に躊躇うようになったのは、何時からだろうか。優しい彼の声に、微笑みを返す事が難しくなったのは、何時からだろうか。


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「ローラン? ヨシュア?」
 先程まで目と鼻の先で走り回っていた二人の息子の姿がふいに消え、マゼルは不安げに立ち上がった。
 呼びかけに答えは返らない。
 しんと静まった室内に目と耳を凝らす。
「ローラン? ヨシュア?」
 上の息子、ローランは既に八つと随分手もかからなくなったが、二人目の息子ヨシュアは四つになってもおいたが過ぎる。先日は贈り物の高価な壺を割って、マゼルを辟易させた。夫である国王ディーダはそんなヨシュアを「元気があって良い」などと評したが、マゼルには笑えなかった。
 きつ過ぎる程にお灸を据えたのに、今朝にはもう何もかも忘れたような顔で、ベッドをトランポリンにして遊んでいたくらいだ。
 そんな時、マゼルはヨシュアの明るさに救われながらも、少し悲しくなる。
 長男ローランはいずれグランディア王国の統治者になる。生まれてすぐに乳母を雇って英才教育を施す為に己の手から離されたので、ヨシュアだけは自分の手で育てたいと願い出たのはマゼルだった。乳母の手は借りたものの自分の乳で育てて、その成長を傍で見つめてきた。
 深い愛情と共に王族として厳しくも育てて来たつもりだが、考えが甘かったのか――やんちゃな行いの陰口を叩かれている事を、マゼルは知っていた。そしてそれは何時も「やはりマゼル様の手に余るのでは」と続く。
 自分が未熟である事は、分かっている。誰かの手を借りた方が良いのは、分かっている。
 それでも“真実”を知ってからのマゼルは頑なで、何かに抗うようにいっそう強行を通してしまう。そうして顰蹙を買うのは自分だけでは無いと、よく分かっているというのに。
 侍女と乳母を下がらせて、子供部屋で遊ぶ息子二人の世話を請け負ったのに、それさえも巧く出来ない。
 何時部屋から抜け出したのか、続き間の寝室にも子供達の姿は無かった。
 マゼルは焦ったように室内を飛び出て、ひっそりとした廊下へ足を踏み出した。
 昼間だというのに窓一つない廊下は不気味な程暗く、壁に設置された蝋燭の灯りの揺らめく様は、よりいっそうマゼルの恐怖心を強くした。
 何時だったか、子供の手には届かない位置にある蝋燭を、大きな壺を引き摺ってきたヨシュアがそれよじ登り、触れようとしていた事があった。
 何故そんな事をしようとしたのか、子供の考えは理解の範疇を超える。
 結局気付いた兵士が止めて大事に至らなかったが、火傷を負っても火事を起しても、大問題に繋がる所だった。
 ローランが傍についていればそんな惨事にはならないだろうと、幼い長男に全幅の信頼を置いていても、今も一緒に居るとは限らない。
 王城グランディア城の裏手にある後宮は、マゼルの気分のように陰気な所だった。古い時代の王達は幾人もの側室を持っていたといい、その時代には華やかであった筈の後宮も、この何世代かの王は一妻を貫き、ほとんど使われていなかったという。正室である王妃にはグランディア城内に部屋が設えられるので、マゼルは後宮の何百年振りの主だった。
 他に暮らす者の居ない、という理由で、マゼルは使用人も兵士も最低限しか置かせなかった。
 そもそもグランディア城内にさえ、人手が足りない。今グランディア及び近隣の国家は、戦争の真っ只中なのだ。
 異世界人であるマゼルが召喚された頃よりその先行きは明るい、と、エスカーニャ神の恩恵であるマゼルを褒めそやす声は少なくないものの、マゼルの心の内の翳はけして消える事は無かった。
 王国の危機を救う事に、残念ながらマゼルは価値を見出せない。

 ふいに届いた幼い息子の笑いさざめく声に、マゼルは顔を綻ばせて、足を速めた。
 声の調子は愉悦に溢れ、何かが起こった気配は感じられない。その事に安堵して、駈ける様な足取りで先を急ぐ。見っとも無い、と思う心は無かった。ドレスの裾を踏まないように持ち上げて、少し息を切らせて角を曲がる。
「――ヨシュ、」
 しかし綻んだ表情は目に飛び込んできた姿に、強張った。
「……陛下」
 ヨシュアを抱き上げ、空いた手でローランの柔髪を撫でていたのは、夫であるディーダ国王だった。政務の最中だと思われた彼の姿にも驚いたが、その傍らにひっそりと佇む女性に、心が急速に冷えていく。
「マゼル」
 優しく微笑むディーダ国王の顔には、労りがある。
 けれど下げていた頭をゆっくりと上げた女性の瞳には、蔑む色しか見つけられない。
 ドレスを掴んでいた手を腹部で重ね合わせ、マゼルは軽く腰を落として礼をした。夫であっても、国王であるディーダに礼儀を尽くさなければならない。
「顔色が悪いな」
 ヨシュアを解放したディーダ国王は、二人の息子をまるでカルガモの親子のように引き連れ、寄ってくる。
「疲れているのか?」
「……陛下」
 否とも応とも答えられずに、ただ頬に触れた指の感触を感じた。
 それだけで、マゼルの胸は喜びに打ち震える。
「ローランとヨシュアが言うには、貴女が寝ている間に部屋を抜け出してきたんだそうだ」
「まあっ」
 息子に投げかけた曖昧な視線を先読みして、答えたディーダ国王にマゼルは嘆きの声を上げる。
「わたくし、寝ていた……?」
 問い掛ければ、二人の息子は大仰に頷く。
 その事にまるで自覚の無いマゼルは、己の怠慢に鈍い頭痛さえ感じてしまう。父親から離れマゼルの足に抱きつくヨシュアは、まるで自分の後悔を慰めるようで、その事すら申し訳なく思う。
 しかし距離を詰めてきたのは、どうやら息子だけでは無かったようだ。
「畏れながら、妃殿下。やはり少しお休みになられては……?」
 控え目に、そして慇懃にマゼルを妃殿下と呼ぶのは、ディーダ国王の背後に従っていた女性だった。まるで喪服のような暗い色のドレスを着た女性は、一年程前にマゼルの侍女となったオフィリアだ。その美しい響きの名が現す通り目を見張る美女だが、彼女はその美貌を隠すような装いを好む。
 オフィリア・ハウゼン――公爵家、ハウゼン家の娘である。名門の出ながら侍女として城に勤めており、多くの求婚者を素気無く追い払う事でも、ディーダ国王の幼馴染みである事も有名だ。
 彼女はその出自においても、“勤め”においても、異色だった。
「いいえ!」
 思わず鋭い否定の声を漏らしてしまってから、マゼルは唇を噛んで俯いた。
「いいえ、大丈夫よ、オフィリア」
「ですが、妃殿下」
 なおも言い募るオフィリアが妃殿下と呼ぶ度に、マゼルの気持ちは沈んでいく。
 妃殿下、と。
 彼女の喉を通過して吐き出されるその言葉に、意味は無い。国王の妻として、王太子の母として、栄えある称号だとしても――彼女の唇がそう紡ぐたび、責められている気になってしまう。
「……ならばせめて、私共を頼って下さいませ」
「そうだよ、マゼル。オフィリアは優秀な侍女だし、貴女を助けてくれるだろう」
「勿体無いお言葉ですわ、陛下」
 親しみの篭った言葉と視線が行き合う、その度に、悲鳴を上げる心が出口をなくす。
「お許し下さいませ、陛下……わたくしは、」
「ああ、違うよ。責めているのでは無いんだ」
「ごめんなさい、お母様」
「ごめんなさい」
 マゼルの声音が震えれば、すかさず労りを持って触れる手と、言葉。勝手に部屋を抜け出した詫びを入れるローランに、わけも分からずただ謝った態のヨシュア。
 三人の言葉が矢継ぎ早に、巧い事並んだ事に微笑みが浮かぶものの、その奥から突き刺さる視線に、マゼルは滲む涙を隠せなかった。



 政務の途中に顔を見に寄ったのだ、と嬉しい言葉をくれたディーダ国王は、しかしすぐに名残惜しげに去っていった。
 休むように、と念を押されては、否とは答えられない。
 結局オフィリアを伴って部屋に戻る事になったマゼルは、せめて息子が寝付くまで、と懇願した。
 ディーダ国王が居なくなった事で溜息を隠さないオフィリアは、嘲るように笑った。
「王子殿下がお休みなさればよろしいですけど」
それは言外に、マゼルに息子二人を寝付かせる事が出来るものか、と告げていた。
 それでも遊びつかれたのか、横になってすぐに寝息をついたヨシュアに続くように、寝物語がまだ2ページも進まない内に、ローランも昼寝を受け入れてくれた。
 その間もずっと傍に控えていたオフィリアから逃げ出すように隣室へ移動しても、やはり後を着いて来る。
 そうしてオフィリアはソファに座り込んだマゼルの肩を背後から掴むと、細い指に徐々に力を入れていった。
「うっ」
 跡が残らない程度の力加減とはいえ、マゼルは痛みに呻く。
「ああ、とても凝っていらっしゃる」
 許しも無く主の方に触れ、それでも凝りを解す為だと言う様に、揉み解す仕草を取られれば、強く否やは言えない。
 それでなくともマゼルには、嫌だと言えなかったが。
 耳元で、オフィリアが囁く。惨酷な程に美しく、透き通った声で、「妃殿下」と。
「貴女は何て贅沢な方」
 骨が軋む音すらしそうなのに、オフィリアの手がマゼルを傷付けた事は一度としてない。
 呪いを吐くような声と憎々しげな言葉は、既にマゼルの心をずたずたに切り裂いているというのにも関わらず、だ。
「アルのただ一人の妃殿下。可愛らしい王子殿下の母上」
 オフィリアはマゼルと二人だけの時には、ディーダ国王を昔の愛称で呼ぶ。まるで二人の親密さを誇るように、マゼルにだけ許されていたと思っていた、その名を。
「他に何が必要だと仰られる?」
 マゼルには答えられない。願っても願っても手に入らないものを、ずっとずっと求めている。愚かな自分を、言葉になどしなくても彼女は知っているのだから。
 それでも美しい声は、歌うように惨酷な真実を告げるのだ。
「貴女は、贅沢な方。だけれど、けしてアルに愛されているわけでは無い」
 可哀想に。耳元で毒を吐き出すオフィリアは、指に更に力を込めて、哄笑した。
「これからも、けして。アルの心は、貴女のものになりはしない」
 マゼルが悲鳴を押し殺せば、満足そうに、恍惚さえ滲んだ声で、彼女は言うのだ。
「可哀想な妃殿下」

「アルはけして、貴女を見ない」





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