手を繋ごう。 1


 隣に住む菜穂は、とても可愛い女の子。大きな目に、綿菓子みたいなふわふわの髪をした、天使のような女の子。
 そしてちょっと、というか、かなりトロイ。

 幼稚園に上がる頃からの記憶は、何となくある。でもその時にはもう、菜穂は既に『守ってあげたい女の子』であり、俺のたった一人だった。
 菜穂が心配で何時も傍に寄り添い、何から何まで世話を焼いて、その度に菜穂が可愛らしく笑って名前を呼ぶ、それだけの事に満足していた。
 何も無い所で転ぶ、そんな菜穂の手を繋いで学校に通う事は、小学校に上がってからも変らなかった。恥ずかしい事、とは思わなかったけど、高学年にもなると周りに冷やかされるようになって、全く気にしない俺とは違って、菜穂は周りに感化されてしまったのか、段々と余所余所しくなってしまった。それが俺を意識しての事だったら嬉しいのに、単純に傍に居ると女の子達が怖いし、男の子には笑われるから、というだけだった。
 それでなくとも、中学生になったら指定区域の違いで別の中学校に通わないといけないというのに、菜穂は一向に恋に目覚めてくれなかった。
 菜穂だけを完全に特別扱いして、お姫様を守る騎士のような心積もりでいるのに、評価して勘違いするのは周りばかりで、当の本人は何も知らない。
 大切なのは菜穂だけ。優しいのも菜穂にだけ。手を繋ぎたいのだって、一緒にいたいのだって、菜穂だけなのに。幼馴染だから、とか、今まで世話を焼いていた習慣、だとか、そういうのではけして無い。出逢った時から、なんて言わない。でも何時からか、俺は菜穂が大好きで、それを恋だと自覚してからはもう一生手放す気は無かったのだ。
 菜穂は可愛い。見た目だけじゃなくって、仕草も声も、トロイ所も、馬鹿な所も、素直で、浅はかで、泣き虫な所も。菜穂だけが、特別可愛い。
 だから誰よりも大事にしたい。
 そんな菜穂がどうしてもと頼むから、俺は不承不承、手を繋いで登校するのを止めた。それでも集団登校の決まりで一緒に学校には通う、その道すがら、菜穂の隣の低位置は誰にも渡さなかった。
 菜穂の隣は俺のものだと、聡い奴らには分かっただろう。菜穂を狙っている級友達を牽制して、俺を好きだと言う女の子達に対しても、菜穂だけが特別なのだという事を態度で主張して。
 一緒にいられる小学生時代を乗り切った先の、中学生活を思って、一人心の中で焦っていた。

 どんなに呪ってみても、家が引越しでもしない限り、菜穂と同じ中学校に通う事は出来ない。引っ越してくれとかなり本気で両親に頼んでみても、笑って却下された。
 そんなわけだから、俺は菜穂と接触する機会を逃すまいと、あらゆる手段を講じ、また画策した。
 正反対の方向へ通う中学校は、登下校を一緒にする事は出来ない。けれども毎朝早起きして、菜穂の家へ通って、菜穂が起きてから登校するまでの時間を菜穂の家で過ごさせてもらって、一緒に家を出て新婚気分のようなものを密かに抱いて、それを活力にして学校へ辿り着く。進学校を希望している俺は勉学には身を入れる。テストの成績は学年1位を崩さないように頑張る。部活動必須だったので、小学校時代の球技大会で選んだバスケットボール部に入学し、菜穂が格好良いと言ってくれた小学生時代を思い出して、励んだ。
 部活動は思いのほか忙しくて、土日の休日にも練習や試合があったけれど、出来る限りの時間を菜穂と過ごせるように努力した。
 菜穂は入部した家庭科部での調理実習が苦手で、月に二度あるその日は特別落ち込んで帰ってくる。料理が苦手な菜穂が何故そんな想いまでして家庭科部に入部したのかは定かでは無いけれど、菜穂が気落ちしていれば励ますのは俺の役目で、とぼとぼと帰ってくる菜穂を迎えに行くのが当たり前になっていた。
 そんな所を俺を好きだという女の子やら、菜穂を快く思って居ない同級生やら、に見られたらしい。
 俺が小学生の頃に振った女の子。好きな男が菜穂に惚れて振られた女の子。ただ内気で下を向きがちな菜穂が気に入らないという女の子。そんな子が結託して、菜穂は謂われないいじめにあっていた。
 そんな事を、俺は気付いてやれなかった。
 時々物言いたそうに俺を見上げる菜穂を見て、何時になったら俺の事を好きになってくれるのかと、そんな事ばかりを考えて。一緒にいる時間を作る事ばかり考えて、菜穂の現状を気にしてあげる事なんて出来なかった。
「学校、どう? 楽しい?」と聞いて菜穂が考えるように小首を傾げ、曖昧に笑いながら「楽しいよ」なんて答えれば、一拍開いた、その時間に浮かんだ菜穂の感情を考えるより、俺が居なくても楽しいのかなんて事にショックを受けていたし、試験の結果が悪かったと菜穂の母親がぼやいていたのを聞いて「勉強教えようか?」と言った時にぶんぶん首を振って「必要ない」と言われれば、教師としての俺じゃなくて俺の存在そのものを否定されたようで焦り、何故何時も控え目な菜穂が、力強く否定して見せたのか、その理由を考えもしなかった。
 菜穂の教科書は誹謗の類で汚れていて、数少ない友達達も菜穂をいじめる女の子達に恐れをなして、菜穂から離れてしまっていた。
 そんな事を知らない俺は、とある放課後、菜穂の学校で行われる練習試合を事の他楽しみにしていた。
 菜穂の居る学校。菜穂が過ごしている空間。何時もは踏み込めない領域で菜穂に会って、菜穂の学校の生徒達に、菜穂には俺が居るという事を知らしめよう。
 練習試合が行われる体育館には俺の学校の生徒も菜穂の学校の生徒も詰め掛けて、その中に、当然のように菜穂は居た。相変らずひっそりと、目立たないように端の方に寄って、前の位置を奪われてどんどん後ろに消えかけて、それじゃ背の低い菜穂は試合が見れないだろって。
 そんな所さえ可愛くて、何故菜穂が存在を希薄にしているのかも分からなかった馬鹿な俺は、俺の存在を周囲に知らしめるべく、笑顔で菜穂に近づいた。その名前を呼んで、嬉しそうに駆け寄って、菜穂の頭を撫でて、脱いだジャージを持っていて、と強請って。菜穂にだけ向ける顔で、菜穂にだけの特別な態度で。
 どうして菜穂が俯いてしまったのか、知りもせずに。菜穂が見ているから見っとも無い姿など見せられない、と、何時も以上に活躍した。
 練習試合は快勝をおさめ、顧問の激励を受け、じゃあ帰ろう、という段になった時。
 既に体育館からは多くの生徒が消え、幾人かがチラホラ残るという具合になっていた。俺はその中を二度ほど見回してみたが、俺のジャージを預けたままの菜穂の姿はどこにも無かった。
 代わりに俺のジャージを持っていたのは、顔も知らない相手校の女生徒だった。にこやかな笑顔で近づいて来た彼女はジャージを俺に返しながら、何故か自己紹介をしてくる。俺の背が高い、という理由だけでない上目遣いが癪に障って、相手の話に乗せるようにして菜穂の所在を尋ねれば、彼女は眉根を跳ね上げた。
「私にジャージ渡して、どっか行っちゃったけど?」
 俺の態度が気に食わなかった、というだけにしては、不快な色が強かった。
 菜穂の友達かと聞けば、「ただのクラスメート」と殊更に主張する。彼女にその意味を追求する前に、俺の足は自然と体育館の外に向かっていた。
 急いたように走り出して、渡り廊下から辺りを見回す。
 何だか、とても、嫌な気配がした。
 律儀な菜穂が、何も言わずジャージを誰かに託すなんて事は考えられない。もし何か事情があったとしても、何事か伝言があった筈だった。あの彼女がその伝言を伝え忘れただけ、という事も考えられたが、彼女の態度はそういうのとは違った。
 媚びるような瞳が睨むそれに変った瞬間、彼女が浮かべたのは誰かに対する嫌悪。その対象が俺じゃないのだとしたら、菜穂でしかない。
 ただのクラスメート? それが何故、菜穂をバカにするような皮肉笑いをするのだ。
 少なくとも試合が始まった初期、菜穂はシュートが入る度に大歓声なんて上げなかったが、嬉しそうに顔を綻ばせていた。俺がチラリ、視線を投げれば、控え目に頷いて返してくれる。それに俄然ヤル気は向上、後半は既に勝敗が決していたというにも関わらずコートの中を走り続けていた。
 その最中、菜穂の姿はあっただろうか。最後まで、体育館に居ただろうか。
 見知らぬ学校で、菜穂を探すのは難しかった。誰に声を掛けていいのか分からずに手当たり次第に声を掛けたが、芳しい答えは貰えなかった。「島野菜穂を知っているか」「何処にいるか知っているか」、それには大抵が首を振った。菜穂を知っているらしき人は何だか不自然に視線をそらし、居場所までは知らない、と答えた。その内の女生徒は表情さえ鈍く、男子生徒は気まずそうに見えた。
 どうしてこういう時に、見知った顔が見つからないのか。
 昇降口で菜穂の靴箱を探す。それぞれの棚に、生徒の名前が振ってあるのはあり難い。菜穂のクラスは知っていたから、島野の名前はすぐに見つけられた。革靴があるのだから、まだ校内に居るはずだった。
 試合の名残りの汗は、冷や汗に変っていた。
 他校を走るユニフォーム姿の俺は目立った事だろう。教師の一人に咎められたが、走りながら謝罪するだけだった。
 辿りついた教室に、菜穂は居なかった。誰も、居なかった。
 他に何処があるだろう。校舎裏は既に見た。体育館裏も見た。昇降口、階段の踊り場、少し考えて屋上へ。
 けれど何処にも菜穂の姿は無い。
 何度もそれを繰り返して、随分と時間が経った時。校舎内に下校のアナウンスが鳴り響いていた。
 再び最後の頼みに昇降口に向かう途中で、密かな啜り泣きが聞こえて、俺は立ち止まりかけた足をそちらに向けた。
 聞き間違う筈無い、菜穂の声だった。
 それなのにいざ菜穂の姿を下駄箱の端で見つけた時、俺は声を掛けられなかった。
 菜穂の隣には背の高い女生徒が一人、菜穂を宥めるように肩を撫でながら、立っていた。菜穂は両方の膝小僧を真っ赤にして、両手で顔を覆って泣いていた。傷口から血は流れていないようだったけど、痛々しいまでの擦り傷だった。
 その様子に走り寄れなかったのは、菜穂の隣に居た女性とが、鋭く俺を睨んでいたからだ。
「どうしたの」と、聞く余裕は無かった。「何があったのか」と詰め寄る必要は無かった。
 ただ彼女の視線が、全てを物語っていた。
 彼女の瞳は怒っていたし、引き結んだ唇は批難していた。
 菜穂の身体を胸に抱きしめるようにして、彼女は動く。菜穂の背中が、俺の視界に収まる。
 白いセーラー服を汚す、土の色。どうしたら、そんな所が汚れるというのだろう。

 彼女が誰か、なんて事はどうでも良かった。ただ菜穂が安心しきったように身体を預けているのを見て、俺は踵を返した。
 今、二人に近づく事は、菜穂を更に傷付けるだけだ。
 菜穂は俺には何も相談しなかった。相談してくれなかった。

 ――否、相談なんて出来っこ無かった。

 家に帰り着くなり俺は、菜穂の中学校へ通う小学校の友人達に片っ端から電話をした。普段であれば彼らの口から菜穂の話が語られるのは面白く無かったが、今はその情報があり難かった。
 彼らは軒並み俺がそれを知らない事に戸惑いながら、それでも、しっかりと洗い浚い話してくれた。
 済まなそうに潜む声を、批難する権利なんて持ち合わせてない。ただ、事実を事実として受け止めた。

 菜穂はクラスの中でも大人しい、目立たない生徒だった。成績は中の中、運動も奮わない。けれど控え目な態度と、可愛らしい顔が、男子生徒の中ではやはり人気だった。けれどそんな菜穂ののんびりとした口調が、煩わしかった者が居たのだという。女生徒の誰かが、菜穂を槍玉に挙げた。それに追従する者が出た。誰かは彼女らを恐れて菜穂から遠ざかった。次第にエスカレートしたそれらが、菜穂を孤立させた。

 ――菜穂は、いじめに合っていた。






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