恋する夏。 1


「夏ですよ、皆さん!!」

 ――と、高塚君が言った。
 勿論、皆そんな事は分かっている。それぞれが部活やら補修やらを終えて集まった今日は、夏休みも真っ盛り。外があまりにも暑くて、冷房の効いたファーストフード店に避難してきたのだ。冷たいジュースを啜りながら、気候以上に暑苦しく言い募る高塚君の弁を聞く。
「高2の夏は一度きり! なのに、何も無いまま終わるなんて、勿体無いと思わないか!」
 握り拳をマイクのように向けてくる高塚君に、「そうだそうだー」と返すのは真知子だけ。後はうんざりと、「思わない」と首を振っているだけ菜穂は優しい。菜穂は元々内向的なので、家の中でのんびり過ごす質だ。佐久間君と付き合いだしてからは、二人で勉強する時間が好きなんだそうだ。佐久間君が部活動を止めてからは一緒に過ごす時間が増え、だからそれだけで勿体無い事なんて一つもない。
 高橋なんかは朝から晩まで部活に打ち込めて最高だと思っているだろうし、あたしや羽田、日向君にとっては、高二の夏も中学の夏も来年の夏も変らず、暑いだけの時期が何故嬉しい、という、真知子に言わせれば枯れている発言をして詰られた。
 兎に角何が言いたいのか、と言うと。
「海へ行きませんか」
 ――という話だった。

 プールでなくて海、というのが、いかにも高校生らしいと高塚君は言い、真知子と共にハイテンションで誘いをかけてきた。私達は「そこまで言うのなら付き合いましょうか」というような大分嫌々での参加になったけれど、高橋と付き合いだして最初の夏、思い出に残るような場所に行けるのは、確かに嬉しかった。部活に熱中する高橋もけして嫌いでないし、夢中になるあまりに約束を忘れられた事も、この短い期間にあったけれど。私は付き合いだして増えた他愛も無いメールのやり取りや、数十分だけの電話でも幸せを感じてしまっているので、特別デートなんてしなくても構わなかったのだ。
 まあそれでも、一緒に居られるに越した事はなくて。
 乗り気では無かったくせに、羽田たちと水着を買いに行ってはしゃいでいる内に、約束の日を心待ちにしている事に気付いて。
 明らかに浮かれている自分を自覚しながら、当日を迎えた。



 晴れて良かった。集合するなり誰かが言った台詞は、本当にその通りだ。
 まさに絶好の海水浴日和で、空は雲一つ無い青空を広げ、太陽はじりじりと空気を焦がした。コンクリートの上の景色は震えていた。蝉の鳴き声が五月蝿かった。
 それでも、これから海へ向かわんとする私達は、数日前のだれた雰囲気なんて無かったように、浮き足立っていた。
 向かうは、無難に湘南。海無し県の私達にとって、穴場の海なんて無い。人が多かろうが、何だろうが、近くて有名な海に向かってしまう。
 電車は割かし空いていて、乗り込んだ時は車両が貸切のようだった。私達は思い思いに席に座り、菜穂と佐久間君は相も変らず二人の世界を作って、羽田は何よりも早くお菓子に齧り付いていた。高塚君が鼻歌交じりに口ずさんだのは、テンションの高いラップの入った夏の唄。途中から日向君が声を揃えて、ラップは本物ばりに上手い真知子が繋げて、ノリノリで歌う事十分。乗り換えまでの間車両を占領して、その後は混んだ車内で皆バラバラになってしまった。ぎゅうぎゅうに押し込まれた車内で出たり入ったりする波に翻弄されていたら、何時の間にか傍には高橋しか居なかった。
 紺のタンクトップに、切りっ放しの膝までのデニム。足元はビーチサンダルで、腕に細いチェーンアイテムがあるだけなのに、悔しいくらい決まってしまう男。部活で焼けた肌はともすればチャライけれど、眉間に皺を湛えた表情に軟派さは無い。
 まだ付き合いたての私達はいまいち距離感が掴みにくくて、横並び。特に何も話さずに車窓からの風景を眺めていたら。
「足いてぇ」
「は?」
 健が唐突にぼやいて、思わず聞き逃しそうになった。
「足。踏まれた」
 数秒前、結構なカーブに遭遇したから、きっとそこで起こった事なのだろう。仏頂面が足元を確認するように下を向いた。
 ビーチサンダルでは剥き出しの部分があまりに多い。
「ご愁傷様」
 私は小さく笑って、ヒールの先がどうたらと文句を入っている高橋に言う。
「穴、開いてない?」
「開いてるかも」
 今日の私は踵の高いサンダルだけど、ピンヒールでは無いし、誰かの足を踏んだ感触は一度もしていない。だから高橋を踏んづけたのは私ではない筈だ、なんて確認をしながら、私も高橋の足を見るように頭を下げる。けれど混雑のせいで足元までは覗けない。
 高橋はしきりに隣のおばさんを気にしていて、スーツ姿のその人が、どうやら高橋を踏んだ犯人のようだ。
「お前、ちょっとそっち詰めろよ」
 と小声で言われても、私の側に余裕があるわけでも無い。高橋が身体でこちらを押してくるけど、ただ密着するだけだ。
 窮屈な姿勢が気に喰わなかったのか軽く呻いて、それから窺うようにこちらを見下ろしてくる。と思ったら、更に身体が近づいて、私の心臓は大きく音を立てた。
 一つのつり革を両手で握っていた筈が、離れた片手が私の頭を抱え込むようにして私が掴んでいた吊革の、私の手の上に重なった。私は高橋の脇の下に潜るような形になり、頭の上から満足そうな吐息を聞く羽目になって思わず息を詰めた。
 大きな掌は、私よりも若干体温が高く感じた。それがじわじわと手の甲を侵食して、腕を走って、全身の体温を上昇させていくように感じる。
 何だ、この態勢は。後ろから半分抱きしめられているようで、とてつもなく落ち着かない。窓ガラスに薄らと映る私達はぴったりと寄り添って、まさに恋人、という雰囲気。
 下校中は手を繋ぐ事もあるけれど、それが精一杯の距離感、だったのに。
「あと、何駅?」
 高橋は何とも思っていないのだろうか、何時も通りの低い声がぶっきら棒に紡ぐので、何だか悔しくなって私も必死に平静を装う。
「あと三つ、かな。高橋、皆どこら辺にいる?」
「男連中しか見えねぇよ」
 男子は皆高身長であるから、電車内でも頭一つ分は飛び出ている事だろう。頭上で顔を巡らせているような高橋の気配。
「菜穂は佐久間君と一緒だろうけど……」
「あ、日向がこっち気付いた。――ああ、羽田といるっぽい」
「ホント?」
「おう。高塚も誰かと喋ってるっぽい」
「じゃあ真知子かな」
「だろうな」
 私も背後に視線をやってみるけれど、窺えたのは携帯を操作している男の人と知らない人の背中だけだった。
「あー……日向が、」
「え?」
 そのタイミングで、鞄の中の携帯が振動しているのに気付いた。
 籠バックの内ポケットから携帯を取り出すと、メールの着信ランプが光っていた。差出人は、羽田。
「羽田からメール来た」
 言うと高橋が私の頭に顎を乗せ、乗り出すようにして携帯を見下ろして来た。重みに呻いても、高橋は退いてくれない。
「理子、返信」
「分かってるけど、重い」
 普段メールは左手で打っているのだけど、今左手は吊革を握っていて。だから不慣れな右手で、何とか『降りる駅どこ?』という内容の羽田のメールに返信を打って。
 それから十数分後にホームに降り立つまで、高橋の顎は私の頭の上に乗ったままだった。



 ぎゅうぎゅう詰めの電車からやっとこさホームに降り立った時は、暑いけれど清々しい空気にほっとして、それと同時に離れた温もりに残念さを感じたりもして。
 前を行く高橋の背中を追いながら、改札までの間に順々に皆と合流した。
 自然と男子三人、女子三人、最後尾に佐久間君と菜穂が続くような形になって、二人分の距離を開けて炎天下の下を歩き出した。
 掌を団扇にしながら、羽田が話し掛けてくるのを聞く。
「ねー、あんたら電車で何してんの?」
「……は?」
「アタシらが見てない所では、何時もイチャイチャなわけ?」
「イチャイチャって、何言ってんの!?」
 ニヤニヤ、とからかう色の強い羽田の表情を見て、嫌悪感が先に出る。
「だって日向がすっげぇラブラブカップルみたいに、」
 言いながら羽田は私の肩を組んで、耳元で囁くみたいに「こーんな風だったって」と続けてきた。真知子が羽田の隣で「何レズってんの、この暑いのにー」なんて、前半の会話は聞いていなかったみたいな呆れた声を上げているけど、私は何でか、ぼっと顔を染めてしまったみたい。
「ちょ、マジで!?」
 途端に羽田が瞠目して叫ぶから、私は計らずして同意してしまったのだと悟る。
 否定の声を上げる前に、思い出してしまったのだ。背中に感じていた胸板の感触とか、時折耳を掠めた息遣いなんかを。
「違っ!」
 でももう後の祭り。楽しそうに綻んだ羽田の顔が、後ろから飛びついてきた菜穂からの衝撃で視界から消える。
「なぁに、どうしたの?」
 蹈鞴を踏んでいる間に、前方の男三人も立ち止まってしまったみたい。
 興味津々、高塚君も「なになに?」と突っ込んでくるから。こうなっては羽田は止らない。
「いやねー、菅野と高橋がさぁ」
「俺が何だよ」
 仏頂面の高橋まで、乗っかる。君にも都合の悪い話だよ、とは言えない。まずは羽田を止めなくては。
 背中にしがみついた菜穂を剥がしながら、羽田の口を塞ごうと手を伸ばす。
「羽田、ストップ!」
 けれど軽やかに反転した羽田が、真知子を盾に逃げてしまう。
「なんか、電車の中でね?」
「なになに!?」「えーなぁに!?」
 もったいぶるように、ゆっくりと口角を上げていく羽田を止められない。夏空を背後に笑う悪魔のような友人をどうしたらいいか、と思っていたら。
「キスでもしてた?」
 のんびりとした調子で、佐久間君が思ってもみなかった事を言った。
 一瞬全員固まって、私と高橋は反射的に叫んでいた。
「するか!!」「するわけないでしょ!」
 ただでさえ今日は心拍数が上がりまくり、体温が急上昇しまくりなのに、声を張ったせいで眩暈までしてきそうだ。
 でもそれで、お株を奪われた羽田は興味を失ったらしい。何言ってんだ全く、なんてぶつくさ言う高橋に続いて肩を竦めながら歩き出してしまったので、皆この話は終わったと思ってくれたのだろう。小走りで二人を追いかけながら、話題は目的地へと摩り替わっていった。





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