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幕間 アレクセス城にて 2



 今一番聞きたくない者の名を耳にして、リカルド二世は苛立った。そして苛立った自分に、腹立った。
「余が知る筈なかろう」
 それでも執務をとめる事も、表情や声音を変える事もない。
 冷静な声が我関せずと告げるのを見て、ウィリアムは小首を傾げて唸った。その動作に、右耳の四連のピアスがしゃらんと揺れる。武官には到底似合わない洒落た装飾であったが、端麗な容貌を持つウィリアムにはこの上なく似合っていた。
「その事なんですが、」
 ウィリアムは素っ気無い主を見つめながら、言葉を紡ぐ。
「今朝、鍛錬場に姿を見せなかったのでおかしいなと思いまして。それから考えられる所を探して見たのですが」
 リカルド二世に喧嘩を売ったツカサを面白く思い、様子を窺いに行った等という本音は勿論口にはしない。ただ何時もであればツカサの鍛錬など気にしないウィリアムがその朝だけ鍛錬場に顔を出したのは、ツカサに興味を持ったからだった。
 今更己の暴言を後悔でもしているのだろうか、と、勝手に想像して、その様を見てみたいものだと思ったウィリアムが彼の自室へ向かえば、そこには何時も部屋の前で警備をしている筈のクリフの姿も無い。
 おやと思い、今度はティシア王女の部屋を訪れるものの、王女は体調不良で寝込んでおりツカサが居る筈もなく、ハンナ嬢に尋ねれば「それ所ではありません」と吐き捨てられた。
 それならばライドの所かと思えばライドもまた自室で惰眠を貪っているし、ならば遠駆けかと馬房へ向かってみれば、彼の馬は暢気に飼葉を食んでいる。
 そうするともしやジャスティン・オルドの居るエスカーダ大聖堂か? と勇んで向かえば、ジャスティンは勤めの日ではないという。
 そうするともう、ウィリアムにはツカサの居所は考えもつかない。
「もし外出しているなら、陛下が知らない筈は無いかと思ったのですが」
 そこまで聞いて、リカルド二世もゆっくりと顔を上げた。
「ご存知ない、んですよね?」
 瞬く草原色の瞳を見返して逡巡した後、リカルド二世はウィリアムに命じた。
「シリウスを呼んで来い」



 リカルド二世からの呼び出しを甥であるウィリアムに告げられたシリウス・ハイネル・アンサは、自身の執務机に山積みされた書類を返り見てから、「調度良かった」とにっこり微笑んだ。その書類をウィリアムに運ばせて、二人並んで国王の執務室へ向かう。
 そうして部屋にやって来た二人を、リカルド二世はやはり無言で招きいれた。
 俄かに眉間が寄ったのは、ウィリアムの腕の中に積まれた書類を見てだった。
「お呼びと聞き、参りました。調度こちらの裁可を陛下に頂きたかった所ですので、お持ちいたしました」
 リカルド二世の机には、既に幾多の書類の山が陣取っている。ティシアに悪気があったわけではけして無いが、彼女の成人式の準備とグランディア王国の法律を幾つか制定した為にただでさえ多忙な所に、彼女の婚約発表まで重なって、片付けるべき書類が甚大なものになっている。成人式と婚約発表を――出来るなら結婚式までを、とティシアが望むのならばリカルド二世陛下は努力を惜しまない。
 ――惜しまないが、一向に減らない書類には辟易している所だ。
「……下にでも置いておけ」
「かしこまりました」
 机の上にはもうスペースは無い。従ってウィリアムに抱えられた書類は、書棚の脇に置かれる。
「それで、ウィリアムに聞きましたが……何でもツカサ様の事とか?」
「そうだ。あれは今何処に居る」
「それならば昨夜、オルド家への滞在の申し出を許可致しました」
「……ジャスティン様の?」
 執務を再開していたリカルド二世の筆が止まるのと、ウィリアムの驚きの声が上がるのは同時だった。
「ええ」
と何事も無いように頷くシリウスが、十数分前、ウィリアムがしたように小首を傾ぐ。しかし彼の耳には宝石のピアスの姿は無い。
「陛下と同じ空気を吸いたくない、などと――ふふ、それは可笑しなお言葉でございました。もとより過ごす場所も離れておいでなのに、と私が申し上げれば、それはそれこれはこれ……と」
 その様子を思い出したのか、シリウスは口元を掌で覆って笑いを噛み殺した。
 ――当然の事ながら、二人の間にそのようなやり取りは無い。シリウスの知らない所でツカサの正体が暴露され、その後は言葉をかわす機会もないまま、ツカサは旅立った。
 リカルド二世の不興を買う会話をシリウスが嘯いたのは、己の知らぬ所で真実が暴露された腹いせではけしてない。
「失礼」
 笑いを治めたシリウスは、話を続ける。
「陛下はツカサ様の処遇は我らに一任して下さっていたので、私の判断で許可を致しましたが――浅慮でしたでしょうか」
「……いや、良い」
「左様でございますか」
 兎に角今、リカルド二世に対して怒り心頭のツカサは、オルド家に滞在している。そういう事だと、ウィリアムも理解した。
 理解したが、叔父の不用意な一言にリカルド二世が檄して居る事も分かった。
 ただでさえツカサに対して不快感を抱いているリカルド二世だ。その仲を更に険悪にしてどうするのだ、と、うろたえるのはウィリアムばかりか。
 完全に手を止めてしまったリカルド二世の瞳はまだ書類に落とされたままだが、その思考が向いているとは思えない。
 にこり微笑むシリウスと、俯いたままのリカルド二世を交互に見つめながら、ウィリアムは少しだけ後ずさる。
 奇妙な緊張感の中から抜け出したかった。
 けしてリカルド二世の怒号が落ちるなどという事はないと知りながら、しかしそれ以上に、だからこそ冷静を保つリカルド二世の傍に居る事が嫌だった。
 リカルド二世の肩から湧き上がる冷気は、けして目の錯覚ではない筈だ。
 重苦しい空気の中、シリウスが口を開く。
「それでですね、陛下。お持ちした書類の件なのですが――」
 けれどシリウスが言い終わる前に、立ち上がったリカルド二世は二人を素通りして、部屋を出て行ってしまった。
「……おや、」
 素っ頓狂な声をシリウスが上げるまで数秒。
 ぱたりと閉じた扉の外にもうリカルド二世の気配が無いとしれると、ウィリアムはシリウスの胸倉を掴んだ。
「お、叔父上!!」
 身丈が頭二つ分遠いので、背伸びして詰め寄っても、まるで幼子が何事かを懇願しているかのようにしかシリウスには映らない。
「なんであんな事言っちゃうんです!?」
「あんなこと?」
 幼少期に「どうして叔父上が僕の父上じゃないの!?」と涙目で詰め寄って来たウィリアムが思い出されて、微笑ましい。そんな感想から、シリウスは乱暴な甥の挙動を見ても、笑んだままだ。
「あれが本当だとしても、あれじゃあ陛下の怒りを煽るだけだって分かってるでしょう? いいじゃないですか!! ただ、オルド家への滞在を許可したってだけで!!」
 何もツカサが気に食わないからと、ツカサに厳しく当たる国王で無い事を側に侍る臣下として良く知っていても、素が既に、人付き合いに向かないのがリカルド二世だ。ただでさえ二人の関係は良好と言えないのに、今後義兄弟として付き合っていく二人が今のままでは、間に挟まる自分達が貧乏くじを引く羽目になる。
「困るのか?」
「困りますよ!」
 何を呑気な事を。己の未来の境遇を思って、ウィリアムは叔父の胸倉を容赦なく揺する。
「困るに決まってるでしょう!? 陛下の放つ苛烈な空気と接すると、寿命が縮むんです!」
「そうだねぇ。笑えとは言わないけど、始終御身穏やかでいてもらいたいものだ」
「分かってるなら、な・ぜっ」
 やがてちっとも怯まない叔父を揺することに疲れたのか、ウィリアムはシリウスの体から離れた。
 シリウスは皺になった服を正すように撫でながら、くすり、と笑う。
「実際はね、あんな会話は私とツカサ様の間にはなかったよ」
「――はぁ!?」
 今度は何を思い出したのか、小さく笑い続けるシリウスを、ウィリアムは剣呑な視線で睨んだ。
 ウィリアムのそれより深みのある新緑の瞳が、ウィリアムの視線を受け止めて眇められる。
「オルド家への滞在を申請したのは、ゲオルグ殿下なんだ。全く、殿下に私が逆らえる筈もないのに……」
「なっ……んです、それ!」
「でも、ツカサ様なら言いそうだと思っただろう?」
「思ったから、信じたんですよ!」
「陛下もうまく騙されてくれたね」
 口角を上げるシリウスは変らず、柔和な宰相の顔だった。その真意を窺わせない、完璧なほどに作られた笑顔。
 その顔を見て、ウィリアムも不思議と冷静になった。
 シリウスが宰相の立場を崩さないのなら、それはけして、己が杞憂するような事態にはなり得ないのだ。
「何のつもりなんですか?」
「……秘密」
 そして、問いに答えが返らない事も。
「それより、いいのかな。ウィリアム」
 シリウスの態度に深いため息をついていると、今思い出したとでも言いたそうに、シリウスが拳で掌を叩いた。
「何がです?」
 顔を巡らせたウィリアムに、苦笑が返る。
「陛下についていかなくて、いいのか? 向かうのはオルド家だと思うけど」




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